御柱尾根遺跡調査報告

発掘調査にみる“馬” 〜ある特別なケース、そこから何が見えるのか?〜



御柱尾根遺跡 第8号小竪穴

平成9(1997)年に発掘調査した御柱尾根遺跡では、ちょっと不思議な小竪穴が見つかりました。

それはどうやら“馬のお墓”なのですが、普通にはあまり聞かれないケースだったんです。

今年は午年。ウマにちなんで、あの時の様子をふりかえってみることにしましょう。

<解 説>

御柱尾根遺跡 全景(東より)

 
 遺跡は富士見町、小六(ころく)集落の北、八ヶ岳から緩やかにのびる通称“御柱尾根”にあります。

字は手白(てしろ)といいますが、この尾根の南西端に鎮座する小六の氏神、柏尾(かしお)社の御柱が
この尾根を曳かれること
から、こう呼ばれています。
 
 発掘調査の対象となったのは、尾根の末端に近い東南向きの緩やかな斜面です。
「水環境整備事業烏帽子地区 ため池堤体工事」のはがね土の採取のため、この尾根が削られることになり、
それに先立って発掘調査を行うことになりました。


発掘調査風景(西より)

 およそ700uを発掘調査しました。

 平安時代の住居址が1軒(第1号住居址)が発見されました。これは出土した土器から9世紀後半ごろの
住居だと思われます。
 また小竪穴が8基発掘されました。そのうち5基は縄文時代の落し穴です。用途不明の小さな穴が1つの
ほか、近現代の肥溜穴も1基見つかりました。下肥が漏れないように壁と底は石灰と粘土を混ぜたもので
しっかりと塗り固められていました。

 そして今回紹介する8号という小竪穴が、調査区の南の端近くにありました。

8号小竪穴の石

 
 ジョレンで少しずつ土を削っていくと、直径1.3mほどの真黒な土で埋まった穴が確認できました。これが
8号小竪穴でした。

 少しずつ掘り下げると、手のひらから人の胴ほどの大きさの石が10個、折り重なるように埋められていま
した。これは穴をふさぐように、平らに置かれているようでした。



 記録を取りながら掘り進めます。深さは90pほどで、黒褐色の土で埋まっていましたが、底から20pほどは、
灰色がかった、湿った土でした。そしてその底には、骨と木材が横たわっていたのです!

 土の酸性度が高い八ヶ岳山麓では、骨や木材など、有機質のものがのこっていることは大変珍しいのです。
なぜのこったのか、と言えば、時代がそれほど昔ではないから、だと思います。最後に写真が出てきますが、
この穴からはほかに陶磁器のカケラがいくつか見つかりました。染付という青い模様のついた磁器の細かな破片
と、香炉の一部だと思われる陶器の破片でした。これらからみて、近現代、古くても明治時代から、おそらく
昭和のものと思われます。

 

 

8号小竪穴の中


 さて、それどころではありません。それは大腿骨(太ももの骨)のようでした・・・。円い穴を掘って埋めて
いるのですから、これはお墓に違いありません。骨があって、それを覆うように溜まっているこの湿った土は
・・・つまり・・・肉が腐敗したもの!? 大変だ!

 大急ぎで専門家(富士見高原病院の先生)に来てもらって見ていただいたのですが、「ヒトではない」との
こと(ホッ)。
 で、今度は農協畜産センターの方に見ていただきました。その結果、これは馬の脚の骨だということがわかった
のです。いやぁよかった、よかった。



 



 上の写真を90度、時計回りに回した向きの図面です。
詳細に観察すると馬の左前脚と後脚の一部、それから棒状の木材と、穴の真ん中あたりの骨の下には板の痕跡
も見られました。
 穴の底の壁際は溝状になっています。このような様子からどうやらこの穴には桶が埋められていたことが分
かります。そしてその桶の中に、馬の体の一部分だけが入れられていたようです。

 なぜ「一部だけ」と言えるのでしょう?それはまず、この穴(桶)が、馬一頭を葬るには小さすぎることが
あります。そして、全身の骨の中でも腐りにくいはずの歯や脊椎が全くなかったことです。ということは、
この穴に埋葬する時には、この馬の頭や胴体がなかったことを意味するのです。



 上の図のアルファベットと、左の図の位置を見てください。穴の中に残されていたのは馬の左前足と後脚。
しかも細い蹄に近い部分ではなく、肉付きの良い脚の付け根付近であることがわかります。

 一般にこの地方では馬が死ねと“馬捨て場”という村の共有地に埋葬するのが普通でした。小六ではこの
遺跡から東南へ1.4kmほど離れた林が、その場所と決められていたそうです。そして馬を埋葬する場合には、
きちんと役所に届けも出したのだそうです。

 なのに・・・

 馬捨て場ではなく、人家に近い尾根に、桶に入れて丁寧に埋葬されている。しかも体の一部しかないなんて。

穴から出土した陶磁器片


 骨や木材と一緒に出土した陶磁器です。右の大きな陶器の破片は、香炉でしょう。桶を埋めるときに紛れ
込んだのでしょう。

 問題は左の、細かな染付磁器の破片です。これは模様もよくわからず、角もすっかりとれて丸くなるほど
磨滅していて、“シーグラス”や“ビーチグラス”とよばれる、海岸のガラス片のようです。

 おそらくこれは、馬の胃袋の中にあったのではないでしょうか。それでツルツルに擦り減っている。いわ
ゆる「胃石」というものの代わりでしょう。消化を助けるためだそうです。内臓もこの穴に埋められたのか
もしれません。

 ちなみに私は、幼い頃、土を食べては叱られていたそうです!胃腸が弱かったので、消化を助けるために
本能的に食べていたんでしょうね(というのは、物ごころついてから必死で考えた言い訳)。
さて、富士見にとって馬は家族の一員のようなものでした。だから住居の中に厩があって、馬と同じ屋根の下で生活していたのです。
そして馬は貴重な労働力でもありました。田んぼなどの農作業や、運送にも欠くことのできないものだったのです。

またこの地方では、“特産品”でもあったようです。仔馬の生産が盛んに行われ、種馬は長野県の役所の所有だったといいます。

では、家族の一員であった大切な馬が死んだから、丁寧に埋葬したのでしょうか?
・・・どうやらちょっと違うようなんですね。

前に書いたように、馬が死ぬと“馬捨て場”に埋葬しました。しかも、馬の頭数が管理されており、死亡の届け出もあったと聞きました。
さて、もう一度状況を整理しましょう。
@馬捨て場ではない、村近くに埋葬されていた。
A左の前・後脚、しかも付け根部分だけ。(あるいは内臓もあった)
B丁寧に桶に入れ、掘り起こされないように石でふさいであった。

ここからは私の推理です。(海辺の崖の上でないのが残念だが・・・)

理由はともかく、ある家の馬が死にました。もちろん、家族同様に暮らしてきた、大切な大切な馬です。
そして定めのとおり、村から離れた馬捨て場に埋葬しました。役人も立ち会って、届も出します。

・・・その夜

馬捨て場の林に人影が・・・そう、馬の飼い主とその親族です。
埋葬したばかりの馬を掘り起こすと、めいめいが肉を切り分けて持ち帰りました。
なんのため? もちろん食用です。
馬は、それこそ貴重なタンパク源です。

そして骨と不要な内臓を、私有地に埋めたのでしょう。狐などに掘り返されないよう、しっかり石で蓋をして。
桶に入れたのも、大切だからか、あるいはカモフラージュのためなのか。

実際にお年寄りに話を伺うと、「埋めた馬、次の朝には骨だけに」なんてことが、当たり前にあったといいます。

これもまた富士見と馬の歴史の一部です。表に出ることはなく、記録にも残りませんが、発掘はこんなことも教えてくれるのです。


参考文献:『御柱尾根遺跡 −水環境整備事業溜池堤体漏水防止前はがね土採取工事に係わる発掘調査報告書−』 1998 長野県富士見町教育委員会

文責:小松隆史(井戸尻考古館学芸員・御柱尾根遺跡発掘担当)




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