セッション・グループワーク
体験談など





2009/1/5


セッションの体験談をご紹介します。今回体験談を書いてくださったのは、匿名希望(女性)の方です。(メールでいただいたので原文の外部リンクはありません)


ユーリ様


先日は貴重な体験をさせて頂き、ありがとうございました。







毎度のごとく、ヒプノ後は茫然と頭まで脱力してしまい、最後にきちんとシェア(って言うんですね)できず、失礼致しました。バラバラと降ってきた訳の分らぬパズルのピースに埋もれ、あっけにとられていたのが、今少しずつ落着きを取り戻し、整理に取りかかりつつあります。







ヒプノ中、ユーリさんに聞かれたことにうまく答えられず、もどかしい思いを何度かした覚えがあります。感覚に適した言葉がなかなか見つからず…。感じた思いを、見た光景をほとんど伝えられなかったように思います。







過去に受けたセッションでは、『つながり』という言葉がめぐりました。すべてつながって、つながりながら進んでいるんだな、と実感しました。







今回は『ありのまま受け入れること』でした。なにも求めず、押し付けず、ありのままを受け止め愛する、ということでした。







ユーリさんの誘導で、最初に階段を昇って行ったところは雲の上のような白い世界でした。白い世界に白い服を着た清らかな感じの人たちが何人かいました。そして私のすぐ後ろに、やはり白い服を着た美しい女性がぴったりと重なるようにいました。これは初めての経験でした。今まで私はいつも一人だったのです。「誰か呼んでみましょう」と誘導され、呼んでみても誰も現れず、やっと来てくれるのは動物。「人が嫌いなのかしらね?」と言われ「そんなつもりないのに、そうなのかな…」と不安に思っていたので、今回は嬉しくホッとしました。







で、現われてきた過去世は、白い立派な神殿がある場所。アルテミスという言葉と月がとても印象的だったので、地中海世界のどこかでしょうか。ミュシャの絵のような柔らかな白い洋服を着た女性でした(最初に隣にいてくれた人と雰囲気が同じでした)。その神殿で人々の悩みを聞いていたようです。







その人はとても悲しく虚しい気持ちでいっぱいでいました。もうどうすることもできない、との無力感と絶望感を感じていました。人々がそれぞれ自分のことしか考えていない、だからうまくいかないのに、それに気づかない。そしてきっと永遠に気づかない。だからもう誰もが幸福な世の中なんてあり得ないのだ、と。







自分のことしか…というのは、狭い意味での「自分」という意味です。この世に来る時に入った体という個々に境目のある自分。でも実は自分は全体なのです。つながっているのです。右足が左足のことを他人と思っているだけなのです。右足が痛ければ左足も辛いのに、それに気付かず、左手が右手を妬んだり、鼻が目を恨んだりしておかしなことになっているのです。だから本当の自分は幸せになれないのです。それぞれの部分がその役割を果たし、支え合い労り合って、「調和」をとって初めて自分は嬉しくなり満足し得るのです。







その人はそれを当然のことと知っていました。その人は足も手も目もみんな好きでした。それぞれが必死に自分を守っているのを悲しくもいじらしい気持ちで眺め、この愛しい人たちにどうにか幸せになってほしいと思っていました。でも、自分にはそれができない、気づかせることができない、と絶望し、暗い表情で生きていたのです。







彼女が感じていた虚しさこそ、ものごころついてより私が抱えてきた感覚でした。「生きていてなにになろう」というような。しかしもちろん私にそんな高尚な理由などあるはずもなく、ただ“説明できない虚しさ”というだけだったのですが。いつかのヒプノで高価な宝石を見下ろして感じた悲しい嫌悪感に、今の私が「ああ、まさにこの感覚、知ってる…」と思った不思議な体験。それと同じことが今回も起こりました。ああ、この感覚は間違いなく今の私のもの…と感じるのです。あれは映画を見て共感するといった類のものではなく、まさに自分のこととして蘇り実感するという感覚です。今の私が抱く、説明のつかぬ根拠のない思い。その発祥地の発見、なのでしょうか。







私は個人的に魂や前世を95%信じます。あとの5%は、どんな反証が可能だろう、という好奇心を伴った疑いです。人間が死ねば灰になるただのタンパク質だったら…無意識とは、人間の脳とはすごいですね。とんでもない話を勝手にでっちあげ、勝手に合点し勝手に己を癒してゆく。自己治癒力の一環でしょうか。







話が逸れましたが、その生を終えた後、思ったのです。自分とは全体であることに気付いてほしい、分かってほしい、そう願うのは私の押し付け、求めであった。どうにかして彼らを変えたい、と思うこと自体が間違っていた。それは要求を含む条件付きの愛であり、本当の愛ではなかった。そうではなく、そのままの姿をまるごとゆったり受け入れ、明るく寄り添い、ただ信じ祈ること。きっとそれぞれが必要なプロセスを経た末に、必ず本当の自分、本当の幸せに行き着く、と信じ祈ること。それが愛するということではなかったか。愚かさも醜さも、全ては愛しきものから生まれていたではないか。それは絶望などできるはずもない愛しきものだったではないか、と。







で、その人は思いました。今度は、否定することなく要求することなく、どんな形をもまるごと受け入れよう、と。そして笑顔で(いつも悲しい顔ばかりしていたことを非常に後悔していたようです)寄り添い、『大丈夫、安心していい』って伝えたい、と。







「『大丈夫、安心していい』って伝えたい」と言いいながらびっくりしました。「あっ、そうだこれだ!」と確信を持ってピンときたのです。そしてピンときている自分にびっくりしたのです。なぜ、なにに私はこんなにピンときているのだろう、と。







今まで見た過去世の中で、一番エライ(というと俗っぽいですが、心の気高い、という意味です)人でした。なので、今回の私はかなりポカンとしております。ほお〜なるほど〜、で?それで私はどうすりゃいいのでしょ?といったところ。98くんが、vistaのソフトを渡されおろおろしている感じです。全てが愛しい…と涙した二日後に、許せぬ人を切り捨てようとしている自分いてがっかりしたり。でも、切り捨てようとする時、あのアルテミスな人がふと思い出され胸が痛みます。どんな人も本質は愛しい存在、そう確信し、ありのままを愛そうと願った彼女は泣くだろうな、と。彼女と比べたら、とんでもなく心の狭い私ですが、一瞬でも彼女と重なるように感じたあの思い、あの愛しい感覚は、心の底の方にひっそりと残っているように思います。ヒプノで見たものが、事実に近い真実なのか、無意識が巧みに作り出した自己治癒のための物語なのかは分かりませんが、多分あの女性の願いに少しでも近づいた時、“どうしようもなく虚しい思い“は癒されていくのでしょうね。vistaのソフトは動かせませんが、98は98なりに砂時計を繰り返しながらも、vistaに進化することを夢見て、処理できるところから処理していこうと思います。







それから、将来への秘かな野望を肯定してくださったこと、すごく嬉しかったです。「私は大賛成」とおっしゃってくださった言葉が今も耳にこだましています。実際にたくさんの人にヒプノセラピーをされているユーリさんの言葉は、実感を持って力強いです。いつか、いつの日か、きっと実現したい夢です。でも今はまず子育てを優先に、できることから頑張ります。「生きていたい、死ぬのは嫌だ」と初めて思わせてくれた存在たちと格闘する日々にも、きっと私にとって大切な意味があるのでしょう。死を本当に恐れることができない者に、ホスピスにいる人たちの痛みなど分かりませんものね。







貴重な癒しと悟りの時間を、心からありがとうございました。


このような時間をたくさんの人に贈っているユーリさんは本当に素敵だと思います。


これからも一層のご活躍をお祈り致します。


それではまた、お会いできる日を楽しみにしつつ・・・。






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