「怒り」の奥にあったもの
会社でとんでもない怒りに襲われた。
席に座って仕事をしようと思っても、全然まったく仕事が手につかない。
突然立ち上がって「うぉー!!!」と叫びだしそうで、それを抑えるのに必死だった。
吐きそうだし、泣き出しそうだし、わめきちらしそうだし、殴りかかりそうだった。
自分でもこの怒りは尋常ではないと思った。
こんなに抑えきれないほどの感情、というか「衝動」を感じたことはない。
怒りの発端は、同じチームの女性が退職することにあった。
私自身、何度かの転職経験者なので、会社を辞めることに否定的な考えはないし、本人がそう決めたのならば引き止めるような気持ちはまったくない。
自分で考えて決めたことならば、そちらの方がいい道だと判断したということだから、「よかったね」といつも思う。
それなのに、このとてつもない怒りはなんなんだろう。
確かに、前向きな退職ではない。
職責の変化を受け入れられず、そもそも仕事を変わった動機、不満は何も解決しないまま、わずか1年で元の仕事に戻るという。
しかも、やりかけの仕事を何もかも放り出して、放置したままの退職なのだ。
自分で判断するのはいやです。
責任をとるのはいやです。
私にはできません。
私は頭が固いから、もうこの歳では変われません。
会社のことなのでここに至るまでの詳しい事情を説明することはできないし、これ以上ここでくどくど語る気にもなれない。
ただこの彼女というのは、20代の若者でもなく、私と同年代なのだ。
いい歳した大人が「責任をとるのはいやです。」って...とは思った。
確かに怒る材料はいっぱいある。
それにしてもこの怒りはなんなんだろう、と思った。
ここまですさまじい怒りを感じるのはおかしい、とどこかで客観的な自分が感じていた。
どう考えてもこれは、この出来事、彼女という人物、それだけに対する怒りとは思えなかった。
私の中の何かが、この出来事に関連して過剰に反応しているのだ、ということはわかっていた。
彼女のことはきっかけであって、私の怒りの本質は別のところにあるのだ。
でも、それがなんなのか、怒りのすさまじさに、落ち着いて考えることなど出来ない。
これ以上、会社で、この席に座っているのはキケンだ、と思った。
自分が何をしでかすかわからない。
とにかく早く会社から出よう、と決めて早退した。
(こういうときの退却っぷりは我ながら天下一品!)
この怒りの原因を突き止めなければ、この怒りがなんなのかを今、見なければいけない。
それには自分ひとりでは無理。以前からお世話になっているユーリさんに会いに行こう、と思った。
当日の突然予約が取れるかどうかもわからない。
でもとにかくそうしなきゃ、と思って、会社を出てすぐ電話したところ、運良く予約を入れてもらうことが出来た。
ユーリさんはヒプノセラピストなのだが、最後にヒプノのセッションをやっていただいたのはいつのことだろうか。
数時間も、話し続ける。話を聞いてくれる。
混乱して脱線する私の話を、ユーリさんはちゃんと聞いて理解して整理してくれる。
そうすると自分の気持ちも整理され、ああこれはこういうことだったのか、ということがわかったり、話していくうちに自分の奥の奥の方に入っていき、大きな気付きを得る。
ユーリさんに会って、話して話して、この怒りの原因を突き止めたい。
いや、突き止めねばならない!そんな思いで、会社を飛び出したのだ。
実はこのとき自分の心の奥底では、うっすらとこんなふうに思っていた。
相手は鏡。
腹が立つのは、相手の中に自分を見るから。
せっかくのチャンスを生かさない。
責任を取るのが怖いと言って、チャレンジしない。
目先のつらいことから安易に逃げようとする。
その先の大きな世界を見ようとしない。
それはまさに私自身の姿だ。
「責任を取る自信がない。」
そう言って逃げているのは、この私だ。
そんな自分をそっくりそのまま目の前の彼女の中に見せられて、あせり、怒るのだ。
多分こんなことを再確認する作業になるのだろうと、ばくぜんと考えていた。
ユーリさんに会って、とにかく会いに来た理由を話し続けた。
からだにYES・NOを聞いていく方法を使って、怒りの原因を洗い出す作業をしてみた。
A4の紙1枚のチャートが出来上がって、「この全体をながめてどんなふうに思いますか?」と聞かれたのだが、なぜか「なんだか上っ面だけのような、表面的だけのような気がします。」という言葉が瞬間的に出たのだ。
素直に正直にやったつもりの作業なのに、なんで〜?と思った。
でも確かにそこに並べられた理由は、いくつか思いがけないものもあったが、ほとんど自分が最初に考えていたような理由だった。
そしてそれはひどく教科書的な答えのような、予定調和的な感じがした。
なんでだろう。
じーっと考えていると、突然、「おんな的なもの!」「彼女が表している、おんな、というものだ!」という言葉が怒りと共に湧き上がってきた。
それが腹立たしい。それが頭に来るんです。
では、その『おんな』というものがどんな感じか説明してみてください。
その『おんな』というものに罵詈雑言を浴びせてみてください。
泣けば済むと思っている
最後は責任をとらない
ずるい、甘えている
自立していない
依存している
裏で舌を出している
やればできるのにやらない
本当は強いのに、誰かに助けてもらおうとしている
「本当は強いのに」
その言葉でふっと何かが変わった。
そんなに悪いものじゃないのよ。
女って、本当はもっといいものなのよ。
そいう想いがわきあがってきた。
本当は女はもっと強くてたくましいのに
本当は女はもっと美しいのに
本当は女はもっとたおやかなのに
それを外に表すことが出来ないでいる
本来の素晴らしさをどうして表現できないのか
それは社会に虐げられたとか、男たちに抑圧されたとか、そういうことではなくて、女たちが選ばなかったのだ。
女自身が、美しい自分であること、強い自分であることを選ばなかった。信じなかった。
それは誰の中にもある、いつでもそこにあるものなのに、それを選ばなかった。
背中を丸めて小さく縮こまっている彼女の姿が浮かんだ。
本来の強さ、美しさに背を向けて、嘆き悲しむことだけを選択している。
本来のあなたはそんなものじゃなくて、もっと素晴らしいものなのよ。
それを私は伝えたかった。
でもそれが伝わらなかった。
そのもどかしさ、そのくやしさ、悲しさ。
それが怒りの原因だということがわかった。
素晴らしく豊かな女性性というもの
私たち女の本質
それを表出すること
そんなメッセージがからだのなかに満ちていた。
数日前に真琴さんから私の本質は「大地」だと教わった。
そして私の人生のサイクルは「習得」から「伝達」へと移っていくと。
いろんなことがいっぺんにつながった。
ちょうどそのとき腕につけていた真琴さんに作っていただいたブレスレット。
これが今このとき私の元にやってきた意味も。
怒りの奥にあったメッセージ。
私たち女性は、強く美しい。
もっともっと素晴らしいものなのだ。
手に入れようとしなくても、最初からそれはそこにある。
ただそれに目をむければいいだけ。
わたしたち女性は、強く 豊かで 美しい。
そして、もっと、強く 豊かで 美しくなれるのだ。
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