精神世界の知恵をダウンロードするの術
VOL-17







 「精神世界の全体像を大雑把に理解するシリーズ5」

今日は「精神世界の全体像を大雑把に理解するシリーズその5」です。

私たちはたいてい想念の力を無意識に使っています。
では意図的にお祈りをしさえすれば幸せになれるのでしょうか。
私たちは本当に自分にとっていい望みをもつとはかぎりません。

子どものころはお菓子ばっかり食べていたくて、お菓子の家に住みたくても、大人になればそういう望みはなくなります。長くは望まないようなことを望みます。視野の狭い、ショートスパンの望みをもつのは子どもだけではありません。

縁のない人なのに「どうしても一緒になりたい」とか、「誰がどうなってもこれだけはやらせて」とか「この恨みはらさずにおくものか」とか、いろいろ思います。5年後10年後には「あの時はああ思ったけど結局これでよかった」と思ったりするのに、その時は必死で変えようとします。固執して、なんとか現実をコントロールしようとしたり、何かを犠牲にしたり、叶ってから自分にあわないことがつくづくわかったり、捨ててしまったりすることもあります。

今望んでいることは普遍的な望みでしょうか。もし「あと半年の命です」と言われたら、木々の緑や空の色さえ違ってみえます。そのとき望みは変わっていきます。「もう一度海をみたい」とか。愛する人に「出会えてよかった」と伝えたいとか。

それでも今望むことでエレメンタルが作られていきます。

来世まで考えたらどうでしょうか。ダスカロスは産業革命の時代にうまれたとき印刷屋にあこがれた結果、今世で印刷の仕事に従事することになりました。

また、私たちは肉体がわかれているので分離意識があり、自分と他人に望むことが違います。でも心の世界は自他の区別があいまいな世界で、他人に望むことは自分に叶うことが多いです。「2:8の法則の2に入りたい」と、勝ち負けに固執すれば、負けた自分もつくりだします。間違えた人に因果応報を望めば、間違いをしたときに自分でつぐなう世界をつくりだします。

魔法の杖さえあれば幸せになるとはかぎりません。実際わたしたちは緩やかな魔法の杖をもっているのです。ロングスパンでみてもよいこと、来世かなってもよいこと、誰に叶ってもよいことを祈るとよいです。

(つづく)
(注:これらは今のところの私の理解です。変化していく可能性のある意見です)