精神世界の知恵をダウンロードするの術
VOL-18







 「精神世界の全体像を大雑把に理解するシリーズ6」

今日は「精神世界の全体像を大雑把に理解するシリーズその6」です。

人は、将来や、肉体がなくなったあとや、来世のことまで視野に入れない望みをもちがちです。肉体をもっているために分離意識、生存競争にもとづいた願いをもちがちです。そのために長期的にみるとネガティブな作用をするエレメンタルを作ってしまいます。

「心」というにはまたイメージの間違いという問題があります。

イメージや概念は理解に役立ちます。でも一方で、理解を制限する壁にもなります。私たちはものごとをカテゴにわけ、イメージで人の気持ちを想像し、イメージで理想を描き、イメージに合わない現実を嘆き、現実を理想にあわせようとします。

世界観の大部分はイメージでできています。イメージは壁紙の景色みたいなもので、現実とは程遠いものです。特に詳しく知らない分野は空想的イメージです。「政治家は・・・」「今どきの中学生は・・・」「西洋医学は・・・」「ガンになる人は・・・」「障害児が生まれたら・・・」など、実にいろいろなイメージをもちます。神についても沢山の定義を作っています。

思い込みは身近にもあります。家族サービスしているつもりが、イメージ上の家族が喜びそうなことをしているだけで、実際の家族の気持ちにそっていないこともあります。自分は十分なことをしてあげているつもりでも、家族は気をつかって喜んだふりをしていて、むしろ家族にサービスされている状態です。

子どもが大きくなって理想とずれる行動をしたら勘当する人がいます。勘当というのは<こうあるべき子どものイメージ>と現実の子どもが違っていたときに「裏切られた」と感じ、イメージに固執して現実の子どもを捨てることです。「この人はソウルメイトかどうか」という視点でパートナーを探すのも、イメージに固執することかもしれません。

イメージの世界には行き止まりの道が沢山あります。「こうなったらおしまいだ」というイメージもあります。経済的な問題で自殺をするのは今日明日のお金に困っている人ではないといいます。倒産したりリストラされて、イメージに追い詰められるのです。

絶望するとき、壊れるのはイメージ上の幸せです。出会うのはイメージ上の闇です。思い込みが人を不幸にします。「こうあるのが幸せだ」「こうなったら不幸だ」「こういう人間は価値があり、こういう人間には価値がない」と決めつけて、世界のイメージを現実だと思い込んで、その中で生きる術を模索しています。

そういう誤解のうえで祈りの力を使えば幸せになのでしょうか。恐れに満ちたイメージに縛られて、現実をコントロールすれば、他人や病気や災害から自己防衛するために方法論を積み重ねていかねばならず、幸せへの道はとっても難しいことのように感じられてしまいます。

ありのままの現実をみることが大切と言われます。それは幸せを諦めてひどいイメージを受け入れることではありません。ひどいイメージを捨てて現実をみることですです。解釈や定義ではなく、心を開いて丁寧に生きていくことです。心が闇でも人生は終っていません。毎朝お日様は昇り、日常生活があり、出会いがあり、よいこともあります。心がイメージの世界で閉じているから見えにくいけれど、現実は光をもっています。心を開けば現実はメッセージを語りかけています。

中国人が「日本人」という概念を許すことができなくても、目の前にいる残留孤児を育てる中で日本人を許すことができます。神を憎んでいても、恋人も神が作ったと思えば、自然を観察すれば、神の働きを考え直すことができます。カテゴリを愛することはできなくても、目の前にいる家族を愛してイメージを超えていくことができます。

愛する人がイメージとズレたとき、愛するべきは実物です。修正すべきはイメージです。イメージを超えるためには、自分のイメージとは違う現実を観察することです。出会う人や対象を一般論で片付けずに感じることです。受け容れられないことを体験することは、ひょっとすると福音なのかもしれません。「イメージを超えようよ」とささやかれているのかもしれません。

幸せは、思い込みの世界で一握りの勝者になるために奮闘することではありません。思い込みを手放すことです。「すべては光」というのは、心のイメージを超えた世界のことなのでしょう。幸せも神も、心が偏見に満ちていたら感じとれないもの、でも心を成長させて感じとるしかないものです。現実にある光は、わたしたちのイメージが明るくなってきたときに、やっと入ってこれるのです。

何度でもイメージを捨て、修正していくなかで、イメージは実物をなぞるように正確になっていきます。イメージと現実が一致する世界です。幻想の世界から現実の世界へ入っていきます。真の現実をみとたき、何を望むでしょうか。今望んでいることと同じではないかもしれません。光に満ちた現実を知っているほど、祈りは力強くなるでしょう。

そうなるまで何を望めばいいのでしょうか。今望んでいることを望んでよいと思います。ただ自分が本当は何がよいか知らないことを知り、学ぼうとし、自分自身を変えていきながら、結果をゆだね、祈るという姿勢であれば、間違った祈りは修正されていくだろうと思います。

「神よ、変えられないものを受け容れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける英知をお与えください」という言葉があります。ほんとにそのとおりだと思います。


(「精神世界の全体像を大雑把に理解するシリーズ」はいったんお休みします。もうちょっと勉強してから書きますね〜。)
(注:これらは今のところの私の理解です。変化していく可能性のある意見です)