精神世界の知恵をダウンロードするの術
VOL-12







 「じぶんのおおきさ」

精神世界では「自分の中にあるものを外側にみる」とか「周りの人の気に入らない点は、自分にもある」といいます。でも、「え”〜!わたしはあんなにヒドくないよぉ!」と思うこともあります。「自分は決してそんなふうにはしないけど、ヒドい人にはよく会う」という人もいます。

また精神世界では、「思い描いたことが現実化する」といわれます。でも「え”〜!望みはちっとも叶わないよぉ!」と思うこともあります。

これらの矛盾はどう考えたらいいんでしょう。わたしの仮説ですが、ふだん「じぶん」と感じている部分が、実際の「じぶん」より小さいことが、謎を生んでいるんだと思います。

「じぶん」と感じる部分が、実際の「じぶん」より小さいとは、どういういことでしょうか。

たとえば、夢で怖い人に追いかけられたとします。夢のなかでは、追いかけられているのが「じぶん」で、追いかけるてくるのが「他人」と感じます。


でも、その夢全体が、自分のこころの中にあります。だから、追いかけているのも「じぶん」です。自分の一部が、自分の一部を襲っているのです。




「夢の中の他人」が自分なら、「思い出の中の他人」はどうでしょうか。目をつぶっていても、目をあけたままでも、やはり自分のこころにいる人です。自分の心を構成している一部であることにかわりありません。こころに残る他人のイメージは、じぶんの一部になってしまうのです。

わたしたちが何気なく「じぶん」というとき、おおきな世界に生きる小さな主人公のことをさしています。翻弄されながら、ひたむきに生きている「小さな自分」です。その「小さな自分」だけが「じぶん」と思っていて、世界のイメージは「じぶんではない」と思っています。

「小さな自分」は、だれかと比較して優越感や劣等感を感じるかもしれません。他人の幸せを見て、すなおに祝福できなかったり、昔じぶんをいじめた同級生や家族や親戚を恨んでいるかもしれません。誰かが言ったひどい意見を、くりかえし思い出して心の中で反論するかもしれません。夢の中でも、怪獣や虫に襲われ、怖い思いをするかもしれません。じぶんは、世の中という荒波にもまれている小船のように感じるかもしれません。こんな心象風景は誰もが体験したことかもしれません。

でも、ほんとうは「じぶん」の大きさはすごく大きいです。自分と他人と世界のイメージを合計したものです。他人や世界のイメージは、「じぶん」と認識していない、コントロールしていない自分の部分です。だれにでも、耕されていない国土がまだたくさん残っています。

世界や他人のイメージが、自分の一部なら、分離感は幻想です。ライバル意識は、自分の一部との対立です。恨んでいる相手は、自分の中に住んでいます。夢の中の虫も、うけいれたくない自分の一部です。小船を襲う荒波も、自分を邪魔する自分の力なのです。

実際の世界がぜんぶ夢まぼろしと、わたしが思っているわけではありません。けれど、くりかえし思いうかべる世界や他人は、自分の中にあります。年中会う人も、自分の一部になっていきます。

こころの中に住んでいる人を、手術のように切りとることはできません。リストラしても離婚しても、イメージは残ることがあります。こころの中で起きている戦いは、勧善懲悪では解決しません。イメージの中で戦っていると、結果的に、自分全体の力を奪います。肝臓が腎臓をやっつけたら、肝臓も弱ってしまうのと似ています。世界や他人のイメージと戦っていたら、自力の100%はでません。

実際の世界が競争社会でも、こころの中まで競争すれば、自力のすべてを発揮できないので、勝負以前の問題です。実際の世界が悪くても、世界観が悪いと、行動をおこす前にうちのめされて内部崩壊してしまいます。

こういうことを考えると、宗教家や精神世界の人が言うように、「和解すること」、「与えること」、「許すこと」、「被害者をつくららず共に栄える道を選ぶこと」がとても大切だと思います。

耕されていない国土まで考えてみれば、つまり世界観や他人のイメージまでふくめれば、「外側にいる人は自分の鏡」というのもうなずけます。「こころに不思議な創造の能力がある」というのが本当でなくても、実力が出せるかどうかで、現実はおおきく変わります。そしてこころの安らぎには、とても深くかかわっています。