コミュニケーションについて
VOL-3







 「ラポール」


相手になにかを変えてもらいたいけど、あんまりしつこく言いたくなくて、サラッとひとことですませることってありますね。でも、ほのめかしただけで理解してもらえるのは、相手がすでにわかっていたことだけです。相手にとってま新しいことは、心の中に鋳型がないので理解されにくく、スーっと素通りしてしまいます。

「1回いっただけで理解できるのが当然」と思っていると、関係性がこじれます。「言ったとおりにしないのはわざとだ」と勘違いして被害者意識になってしまったりします。「相手が態度をあらためるまで受け入れてやらない」と拒否すれば、ますますこじれます。

教える側のそういう態度は、学ぶ側にとっては意味不明の迫害として経験されます。自分がまったく理解していないことで罰を受けるのは、たとえばこんな体験になります。

<なぜか周りの人々が怒りっぽくてキレることが多い><なんか知らないけど無視される><ほかの人と扱いを差別されて、「あなたもあの人みたいにすれば受け入れてあげる」と言われる>など。

そういう体験をしても、人は素直に反省できるものじゃありません。「(自分の知っている範囲のやり方では)なにをしても受け入れてもらえなかった。存在自体を否定されているみたいだ。いいなりになれば受け入れられるとしても、こんなイジワルな人たちの仲間になりたくない」と思ったりします。何も変えずに心を閉ざして、被害者意識になるばかり。

人が変わるというのは、ハタからみれば、「当たり前のことをやっとやりはじめたのか」という程度にしか見えません。でも当人にしてみれば「まったく新しい領域に一歩踏み出した」のであって、すごいチャレンジなのです。そこをわかってあげるとスムーズにいきます。

ま新しいことを伝えるときに、ふたりの心をつなぐパイプがあるかどうか考えてみましょう。パイプがあれば新しい概念も入っていきます。パイプがなければ「馬の耳に念仏」です。

パイプというのは「わかりたい」と相手に思わせられることです。「今はよくわからないけど考えてみよう」「もし自分が間違えているなら変えてもいい」と思わせられることです。

では他人からなにか言われても「いいがかり」と思って反発せず、あるいは反発した後であっても「あの人の言ったことを考えてみよう」と思えるのはどういう時でしょうか。

わたし自身の場合は、たとえば、ちゃんと順序を追って筋のとおった話し方をされたとき、本質的に肯定されているとき、許されたとき。尊重されたとき。理解を示されたとき。大切に思われているのがわかるとき、相手を尊敬できるとき、などです。

自分が否定している相手に影響を与えられないのは、パイプがないからです。このパイプをラポール(信頼関係)といいます。