布施一雄君の思い出


南雲哲夫 平成9年12月15日

 布施君の想い出について一言書かせていただきます
 そういえば、私の所に営業できた人は、彼しか記憶にないです。(スキ−に来た友人は、大勢います。)
 六日町役場に勤め、その配属が、水道課であることを人づてに聞かれたのであろうか、ある日、ひょっこりと、営業に来たと言って顔を見せてくれました。それが、確か現在の役場庁舎建築中で、水道課は、浄水場の中のポンプ室に移転していた時で、そこに訪れてくれました。
 今から21年前のことです。遠いところ来てくれたのでしたが、その日の内に帰られました。
 御冥福をお祈りいたします。


小板橋 武 平成9年12月20日
 私にとっての布施一雄
 布施一雄・・・・・・・・・芸能人みたいな名前を聞いた瞬間、そして容貌とのギャップに驚いた瞬間、自己紹介の時に2度もクラス中を沸かせたのは、布施だけでした。歓声の中で、布施は、申し訳なさそうに笑っているように見えました。
 私が倉賀野の悪口を言うと「そんなこと言ってもな・・・・・・・・」と、布施は倉賀野住民を代表して申し訳なさそうに弁解をし、私が政府の悪口を言うと「そんなこと言ってもな・・・・・・・・」と、政府の支持者を代表して申し訳なさそうに弁解をし、私がカツどんの悪口を言うと「そんなこと言ってもな・・・・・・・・」と布施はカツどんファンを代表して申し訳なさそうに弁解をしました。
 別に布施を責めて言った訳でもなく、ただ会話の流れの中で軽く同意を得たかっただけなのですが、いつも布施の役割は代弁者でした。
 そんなに多くのものを背負っていては、疲れてしまうだろう、一緒に悪口を言ったり、開き直ったりしてしまえばいいのに、「そんなこと言ってもな・・・・・・・・」といつものパタ−ンの返事を返す布施でした。
 私が布施に最後に会ったのは、亡くなる3ヶ月程前でした。群馬県の建設業と設計業と測量業の技術協議の場に、私は、測量業を、布施は、設計業の代表で出席していました。建設業者からの細かい指摘や注文に、私は、「そんな低レベルの測量業者はいません。もしいたなら使わなければ良い。」と開き直りの答えをしましたが、布施は、学生時代そのままに、設計業界を代表して丁寧に答えていました。
 会議の終了後、布施は、「忙しいだろうが、そろそろ歳なんだから体には、十分注意してな」と、私の健康を心配してくれました。
 いろんなものを背負いすぎていたから早く逝ってしまった。
 いろんなものを背負ってくれたから皆に愛されて、それぞれの心の中にいつまでも生きている。
 それが布施一雄だと思います。


塚本晋也 平成10年1月11日
 布施君の想い出
 いま改めて振り返ってみると、学生時代に布施君に遊んでもらった記憶は、あまりありません。マ−ジャンをやるときも、(小生は、布施君の後ろで、布施君の盲牌の妙技を見ていたし)、パチンコをやるときも、(小生は、布施君のいきつけの高崎のパチンコ屋が良くでると聞かされていたし)、今思い出しましたが僕たちの時代は、まだ玉を込めながら打つ台も残っていた時代なので、布施君がパチンコの打ち方を得意そうに話していたような気がします。
 何でも一生懸命やるおもしろいやつだなと思っていました。
 結局遊んでもらえるようになったのは、小生が、高崎に帰ってきてからです。遊んでもらうだけでなく布施君が亡くなる直前まで仕事では、お世話になりっぱなしでした。
 半分冗談で良く 「おれも独立したら一緒に仕事やろうな」 といっていたことが昨日みたいです。
 「お互い仕事のしすぎには、気を付けようよ、息抜きに趣味をもたなきゃ」 と結局自分のことは、棚に上げて人の心配ばかりしていたような気がします
 亡くなる少し前でしたが、布施君の親父さんも具合が悪くて、彼も何日か夜中の2時ぐらいまで看病して大変そうでした。
 仕事も相変わらず忙しいかったのに、いつも世話をしている奥さんばかりに押しつけないように負担にならないように自分もしなければと思っていたようです。
 毎年、いつものつり仲間と新潟の海へ釣りに行ったあとで、小生の家へ来ては、釣り自慢をして帰るのですが、その年は、天候がわるく 「生まれてから、船酔いしたことがないのに、はじめて酔ってしまった」 といっていました。今にして思えば、やはり少し体の具合が悪かったのかもしれません。
 毎年の忘年会の幹事も、だれもやらないんだからといいながら、いつもやな顔せずに、引き受けてくれました。布施君が居なくなってから幹事をする人間が居ないので、ここのところ忘年会もやらなくなってしまいました。
 「こんど小生の子供もつれて諏訪湖にわかさぎ釣りに行こう」と約束してくれたのも実現できず残念でした。
 仕事でも遊びでもなんでも一生懸命やる布施君のあまりにも突然の逝去は、われわれ同級生に対しての警告だったのかな。
 布施君の一生懸命さは、忘れません。



田部井初廣 平成10年01月13日

 布施への弔文
 なつかし布施、君が逝きもう二年の歳月が、経過したなど月並みだけれどもいまだ信じられない気持ちです。
 卒業してから私は、主に東北地方で働いている為、同級生(同窓生)との交流もほとんどない状態がつづいています〜残念ながら。
 そんななかで、君は、私の節目節目に(困難な時)さりげなくきづかう電話をくれました、君には、言ったことはなかったけれども、何度も勇気づけられ感謝しています。特に家庭問題(お決まりの嫁と姑の戦争!)では、君に助言され助かりました。
 今、君ののことを思い出すと、なぜか君の笑顔と笑い声です、サ−ビス精神(気配り)旺盛だったんだな(けっこう疲れていたのかなあ)と感慨を新たにします。
 そういえば、お互いにまだ若さのなごりがあった十年前の夏山形県の朝日村で会いましたね、君が奥さんの実家に行く途中、私の所(トンネル工事の事務所)に来てくれました、息子さんが大きくなったので驚きました。〜赤ちゃんのときに会っただけだったので〜
 君の親御さんの訃報が届きました、ただただ残念です。


脇山 清一 平成10年1月23日
 布施一雄君のご冥福を祈って
 平成8年1月27日夜、群馬高専土木工学科の宇津木先生からの電話で突然の訃報を知り、あまりにも急な知らせなので、しばし言葉が出ない程驚き、「何故」、「信じられない」、と目の前が真っ暗になりました。というのは、つい一ヶ月程前、電話で、今年こそは、念願の宮城県海岸での海釣りが実現できそうだと、非常に楽しみにしている様子で、普段と変わりない元気な声で話をしたばかりでしたから。
 早速奥さんに電話をしましたら、主人は、釣り仲間と新年会をやって、12時過ぎに、いつもと何等変わりなく帰宅して間もなく、急に様子がおかしくなったので、救急車を呼び、人工呼吸等あらゆる手を施したが、ついに帰らぬ人となったとの事でした。
 さて、私は頼まれて彼の仲人をした関係もあり、布施家とは、親密な付き合いをしていました。
 約10年程前、彼が奥さんとお揃いで、山形県の奥さんの実家を訪れた帰り、わざわざ遠回りして拙宅を訪れ、高崎で釣った鮎を冷凍にして土産に持って来られた事がありました。その時是非一泊して一緒に海釣りをやろうと勧めましたが、休暇の関係で実現できなかったので、何れ機会を見つけて、是非先生の手ほどきを受けたいと、その時約束をしました。
 その約束が今回実現しそうだというので、彼の喜びは一層大きかったので、電話でのはずんだ声だったのでしょう。
 彼は、昭和47年3月卒業と同時に、日本上下水道設計株式会社に入社しましたが、頭の回転が非常に速く且つ礼儀正しい性格なので、上司の信頼も厚く、東京都福生市の下水道の設計等も手懸け、将来を嘱望されておりましたが、人一倍親孝行な一人息子の彼は御両親の面倒をみるため日本上下水道設計株式会社を依願退職して、群馬県にUタ−ンし彼のライフワ−クの上下水道の設計を主要業務としている前橋市の都市開発設計株式会社に転職し、榛名湖畔の特環公共下水道の設計等、数々の設計に携わり、会社の重鎮となっておりました。
 人生80年の長寿社会、なぜこんなに早く黄泉の道に先立たれるとは、今譬えようのない無情と寂寥感におそわれています。
 幽明界を異にした今、ありし日の貴君を偲びつつ、つつしんでご冥福をお祈りいたします。


小林 清 平成10年1月29日
 布施一雄くんとの出会い
 昭和42年4月、入学記念写真の撮影の場面、ぞろぞろとみんなの後について校舎から出て来た私は、思いがけず声を掛けられた。「おい、俺達は後ろだ」。みると背の高いヤツが二人いる。
 一人は松木君だ。彼は知っている。入学式の時から目立っていた。いや既に入学試験の時に顔は覚えていた。
 「おめぇたちゃ、中学の時から指定席はこっちだろうが」と言って、後ろの方に連れていくのである。そして私に構わず、松木君に「おめぇが一番か」と背比べをしている。そして私には「おめぇも俺よりでかいなぁ」と言いながら順番に並べたのである。
 これが布施君と会話をした最初である。田舎の中学出身の無口で人見知りをする私は、物おじしない布施君をうらやましく思ったものである。
 今も写真を見ると、級友達の最後列に緊張した表情の私に並んで余裕たっぷりの表情の布施君がいる。
 合掌



佐藤 蕃 平成10年1月30日
 布施君のご逝去を悼んで
 布施君が逝去されて早2年になりますが、未だ信じられない様な気がして居ります。
 彼の勤務先が、新前橋近くの都市開発設計(株)で、私の住まいが前箱田町でしたので良く会社の前を通っていて、会社でどんな仕事をしているんだろうか、何階にいるんだろうか等思い乍ら前を通っていたものでした。そしてたまに路上で会うのですが、例の細い目で飄々として、暫し言葉を交したものでした。
 元気でやっているんだなあと思い、他の6期生の諸君も夫れぞれの職場で建斗しているだろうと思っていた次第です。
 在学中布施君は学級40名中の長老で(4月生れ)2Cの時だったか学級委員長に推され、例の飄々としてあまりこだわらない性格で学級委員長をつとめていましたね。そして5Cになり卒業研究が始まって彼は、脇山先生の衛生工学を選び熱心にやって居りました、丁度私の担当科目の構造力学の講義が終わって教官室に引き揚げる途中、事務室前の廊下で、向こうからやって来る布施君に会いましたが、彼曰く「卒研の実験をやっていました。研究指導担当の脇山先生に申し訳ないので」と云うので、同君の単刀直入、正直な一言に私も唯一言「そうか」と云ってすれ違ったのでした。それ丈け布施君は、卒業研究に打ち込んでいたんですね。そのことは、結構なことではある、と考えたものでした。
 社会に出て技術者として研鑽・経験を積みこれからと云う時、45才の若さで妻子を残し一生を終えたことは、返す返すも残念なことです。彼は、あの世で御自分の家庭と同期の諸君のことを見守っていることと思います。
 同期の諸君も人生これからですから技術者としての研鑽・活躍は勿論、矢張り自己の体調にはよくよく御留意のうえ、早く逝った布施君の分をも御建斗するよう願う次第です。
 奥様にとっては真に悲痛の極みであられることと思いますが、幸い御子息信幸君がいますので布施君に似た大らかな元気な子になることでしょう。信幸君は、お二人の生命の延長だと思います。
 私も40過ぎの2人の息子がいるんですが、2人の息子は、人格は別でも自分の生命の延長であると常々考えて居り、元気に生きていく様見守っている次第です。

今回6期生において布施君の追悼文集を出されると云うことで、元担任教官としてはるか南九州より追悼の思いを述べさせて頂き、布施君の御冥福と奥様、御子息のこれからの御建斗を祈り上げる次第です。


龍井 幸夫 平成10年02月09日
 布施君と特段近しく親交を結ばさせていただいていなかったこともあり、とくに記憶に残る思い出が浮かびませんが、あの柔和そうな細い目の笑顔が改めて瞼に浮かびます。
 三回忌にあたり、改めて布施君のご冥福をお祈り申し上げるとともに、奥様をはじめとするご家族の方々に「がんばって下さい!」と励ましの言葉をおくりたいと思います。    


林 進造 平成10年02月10日
 布施君へ
 君とは、出席順が私の次という事もあり、非常に親しい友人と思っている私にとってあまりにも近く感じられ、水や空気のような存在であったように思われてなりません。3ヶ月又は、1年振りに君に電話しても私は、君がいっしょに仕事をしているような錯覚で、つい最近起きた出来事でも平気で話をしました。
 又、私が社員旅行かなにかで水上に行った時、いつものとおり1年振りにもかかわらず、「今水上にいるんだ」と電話をしたら、君は、「帰り道にうまいそば屋があるんだ」と言って、そのそば屋でまっていてくれた事があった。
 私は君に対して非常にあつかましく無礼な男であると思って反省している。
 最近良く考えてみると、君は私のことをいろいろ知っているのに私は、君の事を良くは知らない。
 現在、対外的、社内的、家庭的に主たる立場になった私にとって君が私に接してくれた態度が、1番大切な事としてだったと鈍感な私でも判って来ました。
 最近、いい酒をみつけました。後何年先になるか判らないが、その酒をもって行くから楽しみに待っていて下さい。

 追伸) 酒を飲みたいからと言って私を早く呼ばないで下さい。


田島 孝二 平成10年02月12日
 布施君のご冥福を祈ります。
 長く、遠く離れていた私にとっても、彼の死は、意外であり、悲しく残念であります。
 つい最近、同郷の石井清司君を通じて、高専時代の仲間のことを伝え聞き、そのうち会えるかとおもっていたところ、塚本君から思いもかけず電話をいただき、いよいよ二十五年ぶりに皆さんとお会いできるかと、楽しみにしている次第です。
 二十歳を過ぎてこれまで、石井君はじめ、同郷の人間とも高専時代の仲間とも、全く隔絶して生きてきてしまいました。「二十歳の原点」という言葉があったかと思いますが、私の場合も、その後の十年くらいは、あの頃の残像の中に生きていた、と言っても過言ではないように思われます。皆さんも、多かれ少なかれ、訳の分からぬ二十代を過ごされたのではないか、と思います。
 両親の死もあり、思うように行かぬ人生の重い扉とでも言いましょうか、泥土の中をさまよい歩いたとでもいいましょうか、とにかく、そんな重い心で、皆さんとお会いするなどという気持ちにはなかなかなれなかったのは事実です。
 しかし、三十過ぎに、このままでは本当に人生の放浪者になってしまいそうな気になり、(そんな生き方も一つの生き方ですが、私には、そうすることができるほどの真の強い意志がやはりない)幸い、子供達に勉強を教えることは好きでもあり、また、自分にできることはそれくらいかとの思いもあり、学習塾の会社に就職しました。そこで四年、そして三十五のとき、教室を買い取る形で受け継ぎ、現在に至っているといっ
たわけです。
 高専時代を懐かしむ思いも手伝って、「鴻志寮」から名をいただき、「鴻志塾」とつけています。
最後に、再び、布施君のご冥福を祈ります。           田島孝二


島崎 邦夫 平成10年02月16日
 布施君を悼んで
 今、布施君の年賀状を手にしています。
「疲れたビ−、年のせいかなナ」などと書いてあるのを見て、会えば、「適当にやっているんサ−」と言っていた。
 仕事にも無理をしていたんだろうと思う。真面目の君だから人付き合いもとても大切にしていたし、最近は、好きな釣りもなかなかいけないとこぼしていたっけ。私の仕事の中で、君のかかわった仕事の報告書を目にする事があり、その時いつも笑顔をたやさなかった君の明るい姿がうかんで来ます。
 合掌 


大島 明 平成10年02月16日
 布施君の思い出
 布施君が、天国へ行ってしまってから、2年が過ぎた。今だに、亡くなったということが信じられないくらいだ。
 布施君をはじめ私たちは、高専で5年間いっしょに机を並べて勉強した。だから高専時代の思い出もあるが、しかし、布施君とは学校時代より卒業後の思い出の方が多い。それは、大部分が卒業後県外で生活している中で、布施君も私も群馬県で就職して、つきあいがあったからかもしれない。
 布施君は、仕事の関係で県庁へ打ち合わせに来ることがあったが、そういう時は、よく私の所へ顔を見せてくれた。そして、高専の同期生の近況を教えてくれた。さすがに、布施君は同級生との交流が多いから、情報が豊富だった。また、若くして、会社から信頼されて部下を持つポストに就いたので、会社の話の中にも、仕事に対する責任感と積極性が感じられた。
 そして私事だが、私の結婚披露宴の司会を頼んだところ、快く引き受けてくれ、当日もうまく進行してくれた。彼は、人前での大役にも慣れていて、そつなくこなした。頼んでおいてよかったとつくづく思う。
 布施君の良さは、やはり、友人に対する気配り、世話好きだと思う。同期の中に布施君のような人がいたから、クラス会や情報網がうまく働いたと思う。卒業後、特にその点を実感した。
 同級生が早く亡くなってしまうのは、本当にさびしい。しかし、布施君は、いまでも、私や同級生の心の中にある。
 布施君ありがとう。              高専同期生  大島 明より 


嶋村 和男 平成10年02月16日
 布施君の突然の訃報から2年が過ぎ、社内でも我々と同年代の人達が時折亡くなるニュ−スが飛び込んできます。考えて見れば、もう若くないんですね。もうすぐ50才です。無理をせず、人生を楽しみながら行きたいものですね。

 布施君とは、学生時代から遊び仲間であり、良い事も悪い事も(それほどわるくないかな?・・・。精々麻雀やパチンコ程度)たくさん付き合って頂きました。
 社会人になってからも、布施君とは、年に2回位上野駅の改札でばったり出くわす事がありました。お互いに出張の帰りで、方向が逆なので改札出口の喫茶店で僅かな時を過ごしました。又、仕事の上でも、私は現在、建設会社に於いて積算業務を行っている関係上よく、布施君の会社に電話して資料を送って頂きました。今はそれができません。
 その後は、コンサル関係の情報を得たいときは、関東測量の島崎さんにお世話になっています。島崎さんには、是非とも元気で長生きしてほしいものです。

 世の中、ゼネコンに取って厳しい状況となっております。仕事は減るし、株価は下がるし、今年も明るい材料は、見当たりません。官庁関係の皆さん。ゼネコンをあまりいじめないようお願いいたします。積算も現場条件に見合った内容となるようチェックしてあげて下さい。又、適切な設計変更も宜しくお願い致します。
              1998.2.10   嶋村和男


須永 文代 平成10年02月19日
 布施君を偲んで
 布施君との出会いは、高専に入学してからだが、二人の出席番号が離れていたことと、私が寮に入ったことによって寮生との付き合いの方が忙しく、自宅通学生との接触は後回しになったため親しくなったのは、入学後しばらくたってからだと思う。背が高く色の黒いずいぶん老けた(自分が幼かった?)男という印象だった。
 測量の実習のときは、まじめな大島・須藤(章)・高橋(勉)君などに任せて、相撲を取ったり中学時代の同級女性の話をしたり、多感な年頃の疑問など町ば育ちの彼に色々耳打ちされた記憶が、30年たった今でも昨日の様に思い出される。
 口ではいい加減なことを言っても、やることをやっているまじめ人間という彼の性格を納得するまで、かなり時間がかかったのも、彼の口上手な、おだて上手な、一同を飽きさせない気配り上手にのせられたせいだと思う。
 彼岸に行っても、れいの笑顔で冗談を行っている布施君を想い、健康に注意し彼の分まで長生きしたいと思う。


碓井 勝也 平成10年02月20日
 こんにちは碓井です
 布施君の思い出、あの訃報を聞いたときに思い出したのは人なっつこい顔と、あの声、あの鼻眼鏡。
 妙に良く覚えているのが”かあちゃん、今日体育だったんで一本つけてくれや!疲れちゃたい!”って家で言うんだ、と語っていた場面です。
 どこで、どんな場面だったか忘れてしっまたけれど、呆れた奴だ!?と私は感じていたのだからきっと2−3年生ぐらいの時だったのかなあ?あんなひょうきんな良い奴が何でこんなに簡単に逝ってしまったのか!
 あまりに早すぎた別れに、改めて残念と思うと同時に、ご遺族の皆様には強く生きて欲しいと心より念じます。
 布施君のご冥福をお祈りいたします


布施 安子 平成10年03月02日
 ようやく寒さもやわらいでまいりました。
 このたびは、このような、お心のこもった追悼集を作っていただきまして、誠にありがとうございました。
 なんとお礼を申し上げればよいのか、ただただ感謝の気持ちで一杯です。早速主人の仏前に供えさせていただきました。
 きっと喜んでいることと思います。厚く御礼申し上げます。
 主人のことをこんなにも大切に想っていてくださったことが、本当にうれしく、またありがたく、そして私と子供までも温かく見守っていて下さる人々がいるんだと改めて感じ入り、胸が熱くなってしまいました。
 頑張らなくちゃ−と新たな勇気をいただいた気がします。お忙しいのに貴重な時間を割って作っていただいたと思うと、本当に頭が下がります。
 高専時代の5年間は、主人にとりまして、本当にいい思い出が一杯だった様で、一番に、よい友達に恵まれたことだとよく話しておりました。学園祭の他に2度ほど連れていってもらいましたが、とても楽しそうに、当時のことを話してくれたのを思い出します。卒業後もいろいろな形でお友達の方々と親交いただいている様子にいつもうらやましく思って見ておりました。子供にも友達は、大切にするようによく話していたようです。
 文章をお寄せ下さった先生方やお友達の皆様お一人お一人に厚くお礼を申し上げたいと思います。皆様には、十分にお体を大切にしていただいて、いつまでもいい友達付き合いをしていっていただきたいと思います。それと、より一層の御活躍を願っております。