昭和56年4月18日に高崎市城山土地区画整理事業の換地処分の公告及 び群馬県告示第296号により正式に城山町が誕生しました。 城山町は、高崎市の南端に位置し、関東平野の端になる観音山丘陵の一角 にあります。この地は、第三紀中新世の地層でかっては海中に没していて、今 でもその当時の化石等が採取されます。 文化的には、上毛三碑のうち金井沢の碑・山の上の碑などが近くに点在し、古 来より文化が及んでいてその歴史も長いものがあります。また山名城址・根小 屋城址・寺尾中城址・茶臼山城址など戦国時代までの山城の址も多く、興味深 い文化遺産に囲まれています。 この地から関越自動車道建設のために土砂を採取しその跡地を宅地として造 成し新しい町を造り、自然環境に恵まれた町ができあがりました。現在高崎市 で恵まれた自然が残されているのは、この観音山丘陵が唯一の場所です。 当地は、上信越自動車道の藤岡インタ−や吉井インタ−にも近く、上越新幹線 の中継地としての高崎駅へも車で10分程でいくことができます。 大変交通の利便性にも優れている所です。 また上信電鉄の根小屋駅へは、歩いていける距離にあり、新幹線では、味わえ ない電車の旅もたのしむことができます。 しかし、埼玉県境から前橋インタ−チェンジまでの間約15.2kmの盛土材 約700万m3の土砂をこの地から調達したわけですから、一方では、大切な自然 の犠牲の上に町が作られているということも、わすれては、いけないことです。 工事概要は、土取り工事に先立ち保安林の保護等環境保全に努め大きな沢に 土砂流出防止の砂防堰堤を設け、昭和54年に企業局が住宅団地造成工事に 着手した丘陵地を円錐台状に土取りした跡地に、道路等の施設を整備し、宅地 には、良質土を盛って面積面積約31haを造成した。 区画道路は、交通事故を考慮して、交差点が、主として丁字路になるよう整備を はかった。 上水道は県道藤岡線に埋設されている市上水道管より分岐し、主要地方道 高崎吉井線に主管を布設したが、この団地は、高い位置にあるため、団地の 中山峠側取り付け道路起点部にポンプ基地を設けて団地中央部の山の中腹 に設置した配水池へ揚水し、ここから自然流下方式で各戸に給水している。 下水は下水管路で集水し市営阿久津処理場で一括処理している。 また東京ガスが集団供給システムで都市ガスを各戸へ供給している。 こうしてその他の付帯設備も備わって標高約140mの丘陵地に緑豊かな 住宅団地が誕生したのである。 幸いにも周りを豊かな自然で囲まれた城山に住むことできた住民にとっては、 このままの自然を長く後世に残してつたえていくことが義務であります。 一部城山町10年のあゆみ(10周年記念誌)より |
城山地区の江戸時代における山林原野は、徳川幕府の領地であったものを、天明2年(1782)高崎城主 松平右京太夫がこれを分領し、同7年代官の根岸肥前守の旗下に属し、完成5年(1793)久保田佐渡守 の旗下となり、明治元年を迎えた。 その後廃藩により、山林の所属は、官にものとなり官林となった。 当時の山林の状況を高崎営林署の「施業案説明書」で見ると次のような記述がある。
また、隣の赤岩山には、史跡根小屋城があり、団地の北方にあるアスレチックスの東側には、平地を 一望できる山があり、昔ここに山城があって茶臼山城といわれ、地元ではこの付近一帯を 「城山(じょうやま)」と呼び親しんでいた。 土地区画整理事業施行に伴い造成された住宅団地の町名を、地元区長、区画整理事業者、その他関 係者が協議し、前述のような歴史のあることや地元の要望をも尊重して「城山(しろやま)」と名付 けられる事となった。 城山町10年のあゆみ(10周年記念誌)より |
・世帯数 平成4年9月現在で、一丁目654世帯、二丁目213世帯、合計867世帯となっています。 ・住民数 平成4年9月現在で、一丁目2,243名(一戸建て1,016名、県住1,227名)、二丁目 771名となっています。 |
SINCE 1997.12.29
平成9年12月 城山小学校の紹介
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