復活!CP/M ワンボードマイコンでCP/Mを!
CP/MがTK−80互換のワンボードマイコンの上で復活します
ND80ZVとMYCPU80の上でCP/Mが走ります!
[第271回]
●Y氏の部屋とIMSAI8080
このところY様からご発注いただいた開発コードE−80プロジェクトについて書いております。
ここはND80ZV(ND80Z3.5)にCP/Mを移植するという部屋ではないのか。
テーマから逸脱しておるではないか。
などとおしかりを頂戴してしまうかもしれません。
私も、できれば別のテーマとして整理して書こうと思ったこともあるのですけれど、よくよく考えてみますと、それもなかなかにむつかしいのですよねえ。
実のところ、それほどテーマから逸脱しているわけでもないのです。
そもそもY様から「CP/Mが走るミニコンの製作」を依頼されたことが、当テーマでの連載が始まるきっかけになったのでありますから、Y様からのご依頼がなければ、当テーマも存在しなかったわけです。
このあたりの事情につきましては[第1回]からお読みいただきますとご理解いただけると思います。
実際のところ、最初にY様からご依頼いただいた「CP/Mミニコンの製作」というテーマがあって、そこに便乗するかたちで「ND80ZV(ND80Z3.5)でCP/Mを」というテーマでの記事がある、ということがご理解いただけると思います。
そういうわけでありますので、いずれ時期がきましたら、内容を整理しまして、ND80ZV(ND80Z3.5)用のCP/M記事と、E−80プロジェクトの記事との二本立てとして整理することも考えております。
それまでは、今しばらく現状の体裁にてお付き合いをお願いいたします。
さて。
[第269回]でお見せしましたE−80ボードのブロック図ではただの四角でしかあらわされていませんが、実は「フロントパネル」がCP/Mと並んで当プロジェクトの二本柱ともいうべき重要な役割を担っています。
もちろんND80ZV(ND80Z3.5)にはフロントパネルはありません。
それこそE−80ミニコンの大きな特徴であり、またそこにこそY様のこだわりもあるのです。
まだE−80ミニコンは試作の段階で、完成写真はお見せすることはできませんが、単に機能があるだけではなく、外観にもY様の強いこだわりがあふれています。
なかなか魅力的な外観になろうかと思います。
前回の仕様書にも少し書いてありますが、E−80のフロントパネルの機能、外観はIMSAI8080を模しております。
当然説明の流れといたしまして、IMSAI8080につきましてもふれていかなくてはなりませんでしょう。
実は私はIMSAI8080については雑誌で見たていどの記憶しかありません。
その昔アメリカで一世を風靡した草分け的存在の8ビットミニコンだったのだそうです。
ところがY様はその当時まだ学生だったころに、そのIMSAI8080を所有されていたとのことです。
そのY様からは、IMSAI8080についてのご説明や当時の貴重な写真などをたくさんメールにて送っていただいております。
当時としてもおそらくマニア雑誌を飾るにふさわしい写真の数々と思いますが、時代を経た今日ではまさに貴重な資料というべきでありましょう。
実はこのメールをいただきましたのは、もうかれこれ半年ほども前のことでした。
その写真とメールに書かれておりました詳しい説明文を拝見しまして、これはこのままでマニア雑誌の記事になるほどの内容で、これを私ひとりのものにするのはあまりに勿体無いと感じ入りましたので、Y様に当ホームページでの公開の許可をお願いしました。
Y様からはすぐにメールで快諾いただきましたが、当時は私自身がCP/M互換DOSの開発に取り組んで苦闘しておりましたときで、なかなか公開するいいタイミングがなく、今日まできてしまいました。
ちょうどお話の流れとしまして、これからいよいよE−80ミニコンの実際の姿といいますか、その特徴についての説明にとりかかるところにさしかかってきましたので、よい機会だと思います。
当時を知る人は勿論のこと、初めて知る人にとりましても興味深いものがあると思います。
以下、写真とともにいただきましたメールにつきましても、そのままここに転載させていただきました。
有限会社中日電工
菱田 照久 様
いつもお世話になっております。
以前にIMSAI8080の写真をお送りするとお話した分の写真が出てきましたので添付してお送りします。
私が高校生から大学1年位のころの子供部屋「たのしい実験室」の写真です。
興味の対象がアマチュア無線からマイコンへ急展開したころです。
部屋の中の無線機は片付けられて、マイコン関係の機器が増えています。
自作マイコンは1975年位、IMSAI8080は1978年頃の撮影です。
写真01 1975年〜76年当時のY氏の実験室の写真
この写真が手元にある写真で一番古いころを写した写真です。
自作マイコンは1975年位、IMSAI8080は1978年の撮影です。
モトローラ社が開発した8bitマイクロプロセッサMC6800を利用してミニコンスタイルのマイコンを自作しました。
写真右奥にあるのがMC6800を利用した自作マイコンです。
1975年頃からトランジスタ技術誌やインターフェイス誌にマイクロプロセッサを利用した自作記事が登場し始めました。
これらののマイコン製作記事を参考にして1975から76年頃にこの自作マイコンを製作しました。
日本初のマイコン専門雑誌I/Oが創刊されたのが1976年10月でした。
趣味のアマチュア無線用にラジオテレタイプという5bitの文字コードを短波帯で送受信する文字通信(RTTY:ラジオテレタイプ)の送受信にこの自作マイコンを利用しました。
6800のアセンブラでシリアル送信された5bitの文字コードを受信して表示するデコードプログラムと、キーボードから入力された文字を5bitの文字コードに変換してシリアル送信するプログラムを制作して利用していました。
写真右上に在るのはアマチュア無線用の短波帯トランシーバーで米国ドレーク社のTR−3です。
ドレーク社の無線機は当時のアマチュア無線家の憧れの的で、当時の国産乗用車ぐらいの値段でした。
貧乏学生がこの無線機を入手できたのは、この少し前に秋葉原のアマチュア無線機器販売店が火事になり、水を被った無線機がジャンクで投売りされたためです。
投売り日の朝に始発電車に乗って秋葉原へ買いに行き8千円で購入しました。
写真中央にあるのは、テレビ電話機のジャンクです。(1973年頃入手)
大阪万博EXPO’70の電気通信館(電電公社館)で人気だった未来の電話機「テレビ電話機」です。
昔なのでCCDは無く、映像撮影は真空管の一種である撮像管(ビジコン管)を利用しています。
表示部は、ライン入力付きのモニターTVとして活用しました。
写真中央の大きな機械は、富士通製のコンソールタイプライター「データーライター」です。
当時のマイコンによく使われたテレタイプ社のコンソールタイプライター「ASR−33」が1秒間に10文字の印字と紙テープパンチができましたが、「データライター」は、1秒間に20文字の印字と紙テープパンチ/リードができました。
紙テープの読み取りは、細いピン8本を弱い力で紙テープに刺して、穴が空いているかどうかを機械的に読み取る方式です。
1秒間に20バイトの分の紙テープパンチとリードができるのは当時としては高速でした。
キーボードも全てメカ式です。キーを押すとシャフトが回転してギヤやカム、クラッチが動いてガャシ!ガシャ!と大きな音をたてて入力します。
この大きなコンソールタイプライターにはICなどは1個も入っていません。
モーター、クラッチ、シャフト、カム、歯車、電磁石(ソレノイド)の塊です。
下部には大量のリレーが動作していて制御タイミングを生成しています。
キャビネットを開けると第二次大戦中の暗号解読器のようです。
コンソールタイプライターの横には紙テープパンチャーとリーダーが装備していました。
写真02
コンソールタイプライターの横にある紙テープパンチャーとリーダーとは別に外部にも増設用の紙テープパンチャー1台とリーダー1台を接続しています。
合計4台は、当時としては重装備です。
この当時は、外部記憶は紙テープしかありませんので、プログラムのたびに紙テープを大量に消費します。
紙テープの山の左奥に予備の紙テープロールが積んであるのはそのためです。
アセンブラソース、バイナリダンプ、BASICなどで紙テープを色分けしていました。
紙テープの山の一番手前でちゃんと巻いてある青色の紙テープは、ビルゲイツ氏がMITS社へ売り込んで同社から最初のプログラムとして発売されたAltairBASICのインタプリタ本体がパンチされた紙テープです。
これは後のマイクロソフトBASICとなりました。マイクロソフト社にとっては記念碑的紙テープです。
紙テープの山の右奥に埋もれているのは、UNIVAC社のCRTコンソールです。
大型コンピューターのUNIVACシリーズのコンソールに使われてた端末のジャンクです。
ベクターグラフィック式で画面に横幅132文字表示できました。
当時のマイコンのキャラクターディスプレィが横32文字が標準でしたから大変高性能でした。
[菱田注記]ベクタグラフィックというのはドットマトリクス表示とは違い、ブラウン管に当てる電子銃の方向を上下左右に制御して文字を一筆書きのようにして表示する方式で、実はたまたま仕事の関係で、1977年頃しばらく日本UNIVACの名古屋支社に出入りしていたときに、この実物を見たことを記憶しています。
初めて見たその不思議な表示を非常に奇異なものに感じたことを覚えています。
その他、NCR社のカードリーダーも在りました。
カードリーダーと言っても、ICカードではなく、IBM式の80カラム穿孔カード(IBMパンチカード)の読み取り機です。
当時の大学の大型コンピュータセンターでは、パンチカードにFORTRANなどのプログラムを、カード1枚に1行づつ書き込んで(パンチして)、パンチカードの束を大型コンピュータセンターへ持ち込んでバッチ処理を依頼するのが大型コンピュータセンターの標準的利用方法でした。
さすがにIBMパンチカードに穴を開ける穿孔機(コンソールタイプライターより大きな機械)は、私の実験室に仕入れられませんでした。
大学のコンピューターセンターにある穿孔機室(パンチ室と呼ばれた)にある穿孔機で、コッソリ自分用のプログラムを打ち込んで、持ち帰ったIBMパンチカードを自宅の実験室にあるNCR社製のカードリーダーで読み込むことができました。
21世紀の現在では、紙テープもIBMパンチカードもコンピュータ博物館に行かないと見ることができません。
[菱田注記]1975年ころ当時勤めていた会社で私も仕事をそっちのけにして、自分用のFORTRANプログラムをパンチカードに打ち込んで、業務に割り込んで強引に会社のコンピュータに読み込ませて実行させたりしていました。
たしか富士通のFACOM230−45とかという機種だったように記憶しています(当時レンタル料が月額100万円だったと聞きました)。
写真右側にキーボードのジャンクが2台転がっているのは、キーボード+ビデオディスプレーターミナルを自作しようとして集めていたものです。作りかけのアルミケースも見えます。
写真03
当時は、外部記憶は紙テープしかありませんので、プログラムのたびに紙テープをタ大量に消費します。
写真04
この自作マイコンには「SID6800」と命名しました。
イギリスのSF TV番組「謎の円盤UFO」に登場した「コンピュータ衛星:SID」に影響されました。
日本に入荷した最初の6800を購入して制作したと思います。
CPUチップのパッケージには。「XC6800」と刻印してありました。
今思うと「エンジニアリングサンプル」(正式版が出る前の評価用)ES版だったかもしれません。
8080ではなく6800を選択したのは、ミニコンの命令体型と同じような洗練された命令体型を6800が持っていたからです。
8080は、4004の時に電卓用に開発された命令体型を引きずっていて、命令体型がコンピュータ的に見えなかったのが利用しなかった理由です。
6800の内部レジスタと命令体系は完璧にDEC社のミニコンを意識していました。
以前から、初期のミニコンであるHITAC−10を利用していたので、コンソールパネルをどうしてもミニコンスタイルにすることにこだわってデザインしました。
下部の制御スイッチは電球内蔵の自照式でステイタス表示を兼ねていました。
一生懸命作りましたが、今見るとやはり子供の作品です。
写真05
1978年に入手したIMSAI8080です。
キットでしたが簡単に作れました。
実物は、写真のイメージよりはるかにデカイくて重いです。アメリカンなマイコンです。
コンソールパネルにアドレスの自動インクリメント機能があり、手動でのメモリーの読み出しや書き込みが簡単でした。
さすがメーカー品です。
写真06
このIMSAI8080は、しばらくの間は、BASICだけで動かしていました。
当時の米国で流行りだした8インチフロッピーディスクとCP/Mの運用は、日本では夢のそのまた夢のような話でした。
8インチフロッピーディスクドライブの新品は当時40万円ぐらいしたと思います。
8インチフロッピーディスクのデュアルドライブは100万円ぐらいしました。
2012年の100万円ではありません。1977年の100万円ですから現在の価値観では300万円ぐらいと思います。
しかし、運良くジャンクで8インチフロッピーディスクのデュアルドライブをケース電源付きで入手できました。
念願の8インチフロッピーディスクドライブのジャンクを入手したので、CP/Mの標準的なFDインターフェイスボードであったターベル社のボードキットを購入して組み立てました。
入手した8インチフロッピーディスクドライブは日本のYEデータ社のものでしたが、米国のフロッピーディスクドライブメーカーであるシュガート社のコピー品でしたので、シュガート社のフロッピーディスクドライブ用に設計されたターベル社のFDインターフェイスボードに接続できました。
これで夢のCP/Mが動くようになりました。
写真右側のキャビネットは、内田洋行のミニコン USACシリーズのジャンクで、手前のキャビネットを開けると、光方式の紙テープリーダーがあります。
光線の透過/不透過で紙テープに穴として記録されたビットパターンを読み取ります。
当然機械式より高速で、1秒間に50から100バイト程度の読み取り速度で、当時としては最も高速な紙テープ入力機器でした。
この光方式の紙テープリーダーの制御はi8008で行っていました。
写真07
自作マイコン「SID6800」のパネル部分です。
コンソールパネルを当時のミニコンに似せてデザインしました。
元々ラジオ製作でアルミケースの加工にはなれていましたが、アドレススイッチや、データスイッチの取り付け加工には苦労しました。
下部の制御スイッチは電球内蔵の自照式でステイタス表示を兼ねていました。
写真右下でHALT状態を示すランプが点灯しています。
写真08
IMSAI8080と、自作マイコン「SID6800」のツーショットです。
写真09
自作マイコン「SID6800」の電源スイッチ部分です。
ミニコンに憧れて「キースイッチ」を付けました。
キーを差し込んでひねると電源が入ります。
当時のミニコンの電源には、「キースイッチ」が付いているのがお約束でした。
写真10
自作マイコン「SID6800」の背面です。
背面のデザインも当時のミニコン風にしています。
内部は56ピンのユニバーサル基板を8枚ほど実装しています。
配線はワイヤリングで手配線です。基板間のバスラインもワイヤリングで配線しました。
基板の電源はS−100バスと同じオンボードレギュレーター方式で、+8Vと+−16Vをバスラインから供給しています。
基板上の三端子レギュレーターで+5V、+−12Vに安定化しています。
モニターにはモトローラ社がサンプル提供していたMIKBUGという512バイトのモニターが入ったマスクROM(ROMチップは1Kbyte)を利用しています。
MIKBUGは、コンソールタイプライターを利用して、操作と、紙テープでプログラムのロードと出力ができるシンプルなモニタプログラムです。ソフトウエアインタラプトを利用して簡単なデバッグもできました。
写真11
コンソールタイプライターの印字部分です。
このとおりメカの塊です。
印字するとガチャガチャガチャと大きな音がでます。
コンソールタイプライターの前に座ると普通の会話が不可能なぐらい大きな音です。
1秒間に20文字印字しますので、1秒間に20発撃てる機関銃のようなものです。
この自宅の実験室には、この他、測定器なども大量に揃っていました。
近所にあるくず鉄屋さん(今で言う産業廃棄物業者)が電電公社(今のNTT)の廃棄資材専門のくず鉄屋さんでした。
当時の日本の最先端であった電電公社の研究所から廃棄された測定器や通信機器、電算機器がくず鉄屋さんに山積みになっていました。
廃棄といってもゴミではなく、その日まで使っていた機材がそのまま運び出されてきていました。
殆ど全ての機材が動作しました。
くず鉄屋の親父さんのご好意で、当時のくず鉄の相場である 1トン=1万円 (1Kg=100円)で廃棄された機材を売ってもらうことができました。
これは凄まじかったです。当時の秋葉原のジャンク屋をすべて手中にしたようなものです。
しかも1Kg=100円で買えます。
当時数百万円したテクトロニクス社のシンクロスコープは重さ20Kgでしたので2千円で売ってもらえました。
スペクトラムアナライザも同様でした。
ミニコンのジャンクから、テレタイプまで1Kg=100円で買えました。
同じものをコンピュータ関係の中古屋さんで買えば数十万円しました。
UマチックVTR、TVカメラから業務用の無線送信機、受信機まで何でも手に入りました。
貧乏学生のお小遣いでも大手企業の研究所のような設備を揃えることができました。
おかげで、私の実験室の床が抜けそうにになりました。
一応学校には通いましたが、それ以外の時間は勉強そっちのけで、自分の実験室で業務用の機器の理解と改造、部品取りのための分解、そして、その部品を使って自分なりの機器の自作に明け暮れました。
学校の成績は最低でしたが不況でも食べてこれた技術者としての知識と経験を得ることができました。
くず鉄屋の親父さんに今でも感謝しています。
昔の写真をみて、懐かしく説明文が長文になってしまいました。
以上、よろしくお願いいたします。
ワンボードマイコンでCP/Mを![第271回]
2012.12.19upload
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