広島フォーク村に関わった方で、後に何かの形で音楽産業に関わった方、もしくは現在でも
音楽活動をされている方のご紹介ページです。 在籍者名簿というわけではありません。
在籍されていた方は他にも設立時メンバーの「的場 民主」さんらをはじめ、アルバム「古い船をいま動かせる
のは古い水夫じゃないだろう」に参加されていました「宮城 由起夫」さん「白髭 健次」さん「友広
信夫」さんら
多数の中心的な方々がおられます。 ここでは名簿という形でまとめるわけにはいきませんでしたのでご了承ください。
出身アーティスト紹介(敬称略)
伊藤 明夫
広島フォーク村の村長であり、命名者である。
吉田拓郎のデビュー後上京しマネージャーとなる。その後泉谷しげる等のマネージャーも担当。
現在「及川光博」らが所属する‘マザーエンタープライズ’に経営参加し、統括部長として活躍中。
吉田 拓郎
1946年4月5日 鹿児島県大口市生れ。小学3年、広島に引っ越す。
広島県立皆実高校。「トーン・ダイヤモンズ」〜「プレイボーイズ」
広島商科大学。「ザ・バチェラーズ結成」
1966年 7月24日コロムビア・フォーク・コンテスト決勝全国大会出場。3位入賞
1967年 「ダウンタウンズ」結成。
第1回全国ライト・ミュージック・コンテスト中国地区優勝。
1968年 第2回全国ライト・ミュージック・コンテスト中国地区優勝。
11月 広島フォーク村設立に参加。メインアーティストとなる。
1970年 6月 1日 「イメージの詩/マーク2」プロデビュー(エレック)
1971年 8月 全日本中津川フォークジャンボリー、「人間なんて」2時間熱唱は伝説。
1972年 1月21日CBSソニーレコードに移籍。シングル「結婚しようよ」「旅の宿」大ヒット。
7月アルバム「元気です」13週間連続一位。
1973年 日本人初の全国ツアー形式コンサートを行う。
1974年 レコード大賞曲「襟裳岬」で作曲者賞受賞。
1975年 6月1日 小室等・井上陽水 ・泉谷しげると、フォーライフレコード設立。
8月2〜3日オールナイトコンサート「吉田拓郎・かぐや姫 inつま恋」開催。
1977年 原田 真二プロデュース等、裏方に回る。フォーライフレコード社長に就任。
1979年 7月26〜27オールナイトコンサート「吉田拓郎 in 篠島」開催。
79〜84までの6年間で10回の全国ツアー、6回の武道館公演、10枚のアルバム発表(Live含む)等、活動が活発化する。
ミュージシャンに専念するため社長を82年に退任する。
1985年7月27〜28オールナイトコンサート「ONE・LAST・NIGHT in つま恋」開催。このとき愛奴が再結成し3曲バックで演奏。
その後、休業。87年南こうせつ サマーピクニックで活動再開。翌88年よりツアー再開し今年(99)まで、10本のツアー活動。
89年3月には東京ドームライブ、94〜96年にはスーパーバンドを組み、3度救済コンサートを行う(普賢岳・奥尻島、島原、深江地区・阪神淡路)。
1998年〜2000年にかけて、LOVE2メンバーを中心としたバックバンドで3年連続ツアーが行われる。
2003年からは、総勢約25人規模のビッグバンドをバックに毎年ツアーを実施。
2006年 吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋 2006開催。秋には再びビッグバンドツアーが行われる。
※拓郎氏のことは書きだすとキリがないので、相当割愛させてもらいました。
蔭山 敬吾
1950年生まれ。5歳から23歳まで広島市在住。広島商科大学時代に広島フォーク村に参加。吉田拓郎らと音楽活動を行う。
イメージの詩のレコーディングでは、ベースを担当。
1972年、CBS・ソニーに入社。浜田省吾ほかの制作、大滝詠一、五輪真弓、尾崎豊ほかの宣伝を担当。
1989年、グレイスランドを設立。著書は『僕と息子はロックが大好き』『レコーディング・ディレクターの仕事』ほか。
企画・編集した本は『嗜癖の時代』『もしキリストがサラリーマンだったら』『「結晶知能」革命』『ひとり誰にも看取られず』ほか約80点。
30周年メモリアル・コンサートでは、総合プロデューサー&司会をつとめる。
グルックス〜愛奴 |
1968年 町支 寛二、山崎 貴生、高橋 信彦の3人でグルックス結成(修道高校1年)フォーク村参加。卓越したハ ーモニーは群を抜いていた。その高校生離れしたセンスは、フォーク村自主制作アルバム「古い船をいま 動かせるのは古い水夫じゃないだろう」収録のオリジナル曲「波よ消さないで」で、聴くことができる。 1970年 グルックス解散 1972年 もとグルックスの3人と青山 徹、浜田 省吾の5人で、「愛奴」が結成される。 1973年 天満屋百貨店屋上で広島初ライブ。 1974年 吉田 拓郎のバックバンドとして、春、秋と二度の全国ツアーに参加。両ツアー共「愛奴」のコーナーも 設けられる。 1975年 5月アルバム「愛奴」シングル「二人の夏」で CBS SONY からレコードデビュー。9月、浜田 省吾脱退。 1976年 9月に2枚目のアルバム「LOVE IN CITY」を発表。12月解散。 |
町支
寛二
1952年 5月5日広島県呉市生まれ牡牛座A型
1968年〜グルックス、1972〜愛奴(上記参照)
1977年以降、浜田 省吾のバックギターリストとして現在に至るまで活動を共にしている。
また、多くのアーティストのアレンジ・コーラス等のレコーディングサポートをしている。(尾崎 豊、小山卓治、
千葉美加、浅香唯、小泉今日子、村下孝蔵、吉田栄作、山根康広、朋友、橘いずみ、ハウンド・ドッグ、杏里、
などなど、他にもたくさん!)
1992年 シングル「さよなら紺色のうさぎ」でソロデビュー。9月 アルバム「僕を呼ぶ声」発売
1993年 アルバム「ひき潮」発売
1994年 脳腫瘍が発見され入院・手術。7月 退院。8月 名古屋から復活!
1995年 アルバム「Pinkのクジラ」発売
1997年 アルバム「the commitments of "217"」発売。このアルバムから、ソニー→クラウンレコードへ移籍。
1998年 ミニアルバム「Love and Mercy」発売
2002年 自らのレーベル Ardwolf を立ち上げミニアルバム「Ark」を発売。
2003年 kan-J セカンドアルバム「Separate Herart」を発売。
現在 SAX古村敏比古氏とのユニット「カンフル罪」で活動中
高橋 信彦
1968年〜グルックス、1972〜愛奴(上記参照)
1977年〜浜田省吾マネージャー。
1983年 「Road & Sky」設立。浜田 省吾、町支 寛二、スピッツ等、多くのミュージシャンをかかえる事務所の社長。
青山 徹
1953年4月11日生まれ
1972〜愛奴(上記参照)
愛奴解散後は、拓郎、原田真二、竹内まりやなどのステージサポートや、数百組にも及ぶ歌手のレコーディングに参加。
特に、79年〜88年の10年間の拓郎のライブやレコーディング参加により、拓郎ファンから圧倒的な指示を受けており、
そのギタープレイは伝説とまでなっている。
山崎 貴生〈劉 哲志〉
1968年〜グルックス、1972〜愛奴(上記参照)
愛奴解後は、ソロで音楽活動を始め、「南野陽子」「早見優」「伊藤つかさ」等に曲を提供するかたわら「香坂みゆき」「渋谷哲平」
「太川陽介」「早見優」等のサポートバンドでシンセサイザーとボーカルを担当する。
作曲、編曲の分野においても活動を展開し、テレビアニメの劇伴、主題歌等も数多く手がける。JASRAC正会員。
ボイストレーナーとしても、レコード会社や音楽事務所から多数の生徒を預かっている。門下に「グレートチキンパワーズ」
「浜本沙良」「矢尾一樹」「長沢美樹」等がいる。ボイスファクトリー・ミュージック・スクールを主宰。学校長を兼ねる。
〈劉 哲志〉の名で、ボイストレーナーをしている。(トイズ・ファクトリー)
河野 正則(通称:マックさん)
フォーク村設立時の“若年寄”。アルバム「古い船を〜」のジャケットの一番前に立っている人である。
収録曲の「ニワトリの小さな幸福」で一番大きな声で歌っている人。
1971年 グループ「難破船」でプロデビュー。 渋谷ジャンジャンで月3〜4回ライブを行う。
現在も広島で、音楽と関わり続けている。
岡崎 倫典
1954年、広島市生まれ。 袋町小学校、修道中・高校卒。
1669年広島フォーク村入門。立教大学在学中よりプロ活動を始める。
杉田 二郎、鈴木 康博、森山 良子、谷山 浩子、尾崎 豊、沢田 聖子、ふきのとう、沢田 知可子などの
レコーディングやコンサート・ツアーに参加。
1990年、自主製作でギター・インスト・アルバム「ベイサイド・リゾート」をリリース。
その後、ポニーキャニオンよりアルバム7枚がリリースされている。
1997年には台湾で、1998年には香港でもアルバム・リリース。
1994年、フジTV系ドラマ「若者のすべて」の音楽担当。
1996年から北海道富良野で数々のゲスト・アーチストを迎えて毎冬チャペル・コンサートを開催。
現在、日本TV系「遠きへ行きたい」の音楽担当。SEIKO「CREDOR」、中国地方では「デオデオ」のCMも
手掛けている。東京で「アコースティック・ギター・セミナー」を主宰。ギター雑誌への寄稿も数多い。
ギター・インストゥルメンタルの世界をより多くの人に伝えるべく、全国でライヴ・コンサートを展開中。
■アルバム (ポニーキャニオン)
'94「夢で逢いましょう」「Bayside Resort」「Bayside Resort」「marble」「marble」
'94「Bayside Resort」
'94「若者のすべて」
'95「marble」
'95「Acoustic Eve 〜The Songs For Couples〜」
上綱 克彦
1953年生 広島市出身 キーボードプレイヤー、作詞・作曲・編曲家
元、柳ジョージ&レイニーウッドのリーダー。「酔って候」「雨に泣いてる」がスマッシュヒット。
その後「微笑みの法則〜スマイル・オン・ミー〜」「フェンスの向こうのアメリカ」
「青い瞳のステラ〜1962年、夏〜」等のヒット曲を連発。
1979年リリースの4thアルバム「RAINYWOOD AVENUE」では、オリコン初登場1位を獲得。
萩原健一、甲斐バンド、クリエーション、山内テツ、つのだひろ、ストリート・スライダース、田中一郎、etc.数々の
コンサートツアーに参加。又、和田アキ子をはじめ、数々の歌手に曲を提供し、コマーシャルも数多く手掛けている。
柳ジョージ&レイニーウッド解散後、途中2年間北島音楽事務所に所属。現在フリーのソロミュージシャンとして、
石川文子(東芝EMI)の作、編曲、プロデュース。
柳葉敏郎のレコーディング演奏、曲提供。北京出身の歌姫 艾敬(アイ・ジン)のコンサート出演。
CDコミックドラマの音楽制作。CM作曲。etc…。幅広く活躍中。
故郷、広島に於いては広島の音楽文化に貢献の意味で、チャリティーコンサートの企画、プロデュース等を手掛けている。
代表曲:「青い瞳のステラ1962年夏…」「ヘイ・ダーリン」「プリズナー」(柳ジョージ&レイニーウッド)等
代表CM:CANON ONE CUP OZEKI BANK OF TOKYO 等
※2005年4月23日に神奈川県立県民ホールで、1日限定での復活ライブ
「柳ジョージ&レイニーウッド〜24年目の祭り〜」を行い、大盛況に終わる。
※2008年夏、再び「柳ジョージ&レイニーウッド」として、日本を代表する夏のロックイベント
「フジロックフェスティバル '08.」に登場する。
ミニバンド---------------井口
喜典・田辺 和博
1970年6月の旗揚げコンサートに「ナッズ」として参加したバンドのベースの井口
喜典とギターの田辺 和博の二人が、
その後、拓郎のバックとして70年に単発、71年には4月〜9月の5ヶ月間ミニバンドとしてバックをつとめる。
ライブ盤「オン・ステージともだち」にその模様が収められていることからファンからは大変親しまれているバンドである。
解散後の72年にもレコーディング参加している。その後井口 喜典は、「猫」に参加。
1992年には、拓郎の希望で再結成され、「X’mas Special 復活祭 ミニバンド」ツアーも実現している。
田辺 和博は現在結成30周年を迎える「アダルト・カンパニー」のギターリストとして、年間数本ライブをこなしている。
いちごの木-----佐野さんよりプロフィールを頂きましたので原文のまま掲載させて頂きます。
(1999年7月時点のプロフです)
■バンド名『いちごの木』 由来→元広島フォーク村の村長伊藤さんが命名。あまり気にならない
バンドということで、いちごは木にならないことから、いちごの木となりました。
■広島商科大学の2年生時代(1968年)、大学の屋上に橘燒}雄(きったかつねお)の呼びか
けでフォークソングをやりたい人達14〜15人が招集されました。その時のメンバーの中にワン
ダーフォーゲル部の谷川君も参加していました。その後何度か練習のようなテストのようなことを
するうちに6人に絞られました。それがいちごの木の前身である『ポピーシーズ6』です。それか
ら何度も練習をし歌っているうちに現在の最終メンバーである、橘燒}雄(部活なし)、久保脇昇
(ハンドボール部)、沖中英夫(ボート部)、佐野正幸(PR研究会)の4人で『いちごの木』が結
成されました。
■活動状況は、当時吉田拓郎さんや的場さんたちとやっていた広島フォーク村の関連コンサートを
中心に自分達の独演のコンサートも含み大竹や呉や広島の見真講堂や青少年センターなど、また、
各広島の大学の大学祭やあちこちに行ってやってました。4人で長らくやった後、女性2人(松田
優子、林竹洋子=現テレビ宣言の柏村さんの奥さん)を入れて『赤い鳥』のようなバンドに挑戦し
たこともありました。最後はもとの4人で『ブラザースフォア』のコピーを中心にオリジナルもや
ってました。その時のオリジナルの1曲が「れんげの歌」で広島フォーク村の自主制作レコード
「古い船を動かせるのは 古い水夫じゃないだろう」に録音されました。それから30年の時が流
れ、4人が仕事の関係で転勤などでまた広島に集ることになり、『いちごの木』が再開したので
す。50歳を過ぎそれぞれの仕事の世界で何か満たされない空白の部分を『いちごの木』は満たし
てくれたのです。おそらく今後60歳を過ぎても皆が元気で生きている限りバンドは活動を続ける
でしょう。還暦、古希、喜寿、傘寿と節目節目にコンサートを考えていますが、誰かメンバーの一
人でも死んで欠けたら、その時点で『いちごの木』は解散です。それまで楽しんで行こうと思いま
す。
■メンバー紹介
・橘燒}雄(きったかつねお) 楽器(6弦ギター・バンジョー) ボーカル(バス)担当 現在
カイロプラクティクス整体師自営
・久保脇昇(くぼわきのぼる) 楽器(ウッドベース・6弦ギター・レキントギター) ボーカル
(セカンドテナー)担当 現在会社員で営業
・沖中英夫(おきなかひでお) 楽器(6弦ギター・タンバリン) ボーカル(テナー)担当 現
在会社員で営業
・佐野正幸(さのまさゆき) 楽器(12弦ギター・ハーモニカ・ピアニカ) ボーカル(バリ
トン)担当 現在会社員で営業
伊庭 啓子
高校2年からフォーク村に参加。 特に作詩家として高い評価を得、拓郎の「結婚しようよ」のB面に収録されて
いる「ある雨の日の情景」は彼女の作詩でファンからも多くの指示を得る。 拓郎の73年発売の「伽草子」に
収録されている「春の風が吹いていたら」も彼女の作品で、自身も以前からフォーク村のライブで歌っていた。
あまり知られていないが、ラジオで何度か拓郎が歌ってた「風の子守歌」も彼女の作品である。
大久保 一久(通称:久保やん)
呉市出身
1971年 アマチュアグループ‘ににんがし’、自主制作レコード「知らない街で」を発表。
これは吉田拓郎にとって初めての他人への提供曲であった。レコーディングには、拓郎やミニバンドの二人も参加。
5千枚が、あっというまに売り切れた。
1974年 ‘猫’の後期に参加。
1975年 伊勢正三と‘風’を結成。2月デビューシングル「22才の別れ」が大ヒット。
アルバム7枚、シングル6枚を残し1979年惜しまれながら解散。今でもフォークファンの間で‘風’は
‘かぐや姫’に並ぶ、フォークグループのバイブルである。
その後、ソロアルバム3枚発表。DJ活動や全国ツアーも実施。
面谷 誠二
中学3年からフォーク村に参加。おそらく一期フォーク村メンバーで最年少と思われる。
高校卒業し上京。先輩の愛奴のメンバーと交流を持つ。 ネム音楽院で2年間学んだ後、ギタリストとして内藤やす子、
高田みずえ、石野真子などのバッキングを中心に音楽活動を開始。81年バーボン・レコードより、茂村泰彦とミスティー
ブロックの一員としてデビュー。LP1枚、シングル1枚リリース後脱退。高橋真梨子コンサート、高橋洋子、海援隊の
レコーディングに参加。83年より約4年間、長渕剛のコンサートにリードギターとして参加、レコーディングにも参加。
現在トイズミュージックスクール主宰。トイズオフィスのプロデューサーとしてとして活動中。
主なプロデュース作品 IWAO/HAPPY DAYなど、辛島美登里/GREENなど、 ブレッド&バター/「B.B.C.」ほか
IMEHA、E KOMO MAIのリーダーとして活動中。
著書には、「浜田省吾の音楽をめぐるぼくの追走ノート“ビッグボーイブルースが聞こえる”」(八曜社)
長渕剛との共著の「君はギターの弦を切ったことがあるか」(八曜社)
「ゲーリー・ムーアギターコピー集」(全音社)などがある。
ジャム&コッペ・・・浜崎倫子&中村英子
広島大学でグループを結成され1970年キリンビールのフォークオーディションに入賞。
その年、広島フォーク村の東京厚生年金における旗揚げコンサートにも参加。
同じ1970年の吉田拓郎の3枚の朝日ソノラマ「真夏の青春」ソノシートの後、10月号・11月号にジャム&コッペが登場。
11月号収録の2曲「水色の貝殻」「教えて」は、吉田拓郎が補作。ベースは井口喜典、ギターはMACこと河野 正則が録音に参加。
↓第2期広島フォーク村↓
河原 敬二郎(村長)
1971年 広島フォークタウン入会 沖本幸也らと、Gっぽぽたますスタート。サイドギターコーラス担当。
1973年 ライトミュージックコンテスト出場。部門別総合優勝。
1973年 大学入試に重なり解散。
1974年 フォークバンド‘独身貴族’結成。ステージ、ラジオ、ツアー等中国地方中心に活動。
1977年 人気はあるものの、コミックバンドの色が強くなり音楽的な行き違い等により解散。
本格的ディスコ、インデペンデントハウス広島オープンに伴い、DJとして勤める。
西日本で初めてのディスコDJとして注目を集める。
春には、原田真二のプロとして上京するための出発コンサートをプロデュース。
1978年 RCCテレビ制作大野氏より、新星広島フォーク村の話を持ちかけられる。この時、伊藤明夫氏、
井口喜典氏に相談。昔のフォークタウンメンバーと独身貴族のメンバー、洒洛、
BOO、浅井正樹らと、小数メンバーで第2期の広島フォーク村スタート。
洒洛-------石澤 良一・鉄森 利実・井田 達成・木村 利治
1977年 9月 広島市「日立ファミリーホール」にてコンサートデビュー
1978年 「文化放送他主催 第10回全日本アマチュアフォークコンテスト」全国大会 「あともどり」で銅賞
初のソロコンサート(5/13)をカワイ広島ショップ ホールにて行う
第二期広島フォーク村参加。広島フォーク村旗揚げコンサート(7/12)出演
1979年 「フォーライフレコード オーディション」中四国大会 グランプリ受賞
洒洛コンサートツアー「Yours Ever」(12/13呉市民会館、12/14岩国市民会館、12/20広島見真講堂)
シングルレコード「聞かせてよ春は好きかい/信夜曲」発表
年間6本のソロコンサートを広島市中心に行う
1980年 「第19回ポプコン」つま恋本選会 「愛よ舞い上がれ」で入賞
「文化放送他主催 第12回全日本アマチュアフォークコンテスト」中四国大会「気まぐれ風」でグランプリ
洒洛コンサートツアー「Natural Heart'80」 (9/20広島市青少年センター、9/29福山市民会館)
1981年 「Beginning」洒洛コンサート(1/23広島郵便貯金会館)
1990年 ファーストアルバム「洒洛スペシャル」発表
1992年 結成15周年コンサート(9/27ヤマハ広島支店ホール)
1993年 「Never Old,Eever New」コンサート(9/25広島市青少年センター)
1994年 毎月1回 「アコースティック フューチャー」コンサートを主催
1995年 アマチュアのオムニバスCD「アコースティック フューチャー1」発表 以後毎年1枚発表する
1996年 結成20周年コンサート(東区民文化センター)
1997年 セカンドアルバム「TOWA」発表
1999年 「広島フォーク村30周年コンサート」出演
村下 孝蔵
1953年 2月28日、熊本県出身
1972年(頃?)広島に引っ越す。ピアノの調律師をする傍ら、自主製作アルバムのレコーディングをする。
1979年 CBSソニーオーディションにて最優秀アーティストに選ばれる
1980年 「月あかり」で、デビュー
1982年 「ゆうこ」ヒット
1983年 「初恋」・「踊り子」大ヒット
毎年ツアーを続け、年一枚のペースでアルバムを発表。根強いファンをもつ確立した地位を持つ。
1999年 6月20日七夕コンサートリハーサル中に倒れ、6月24日高血圧性脳内出血のため死去。
9月 遺作となるアルバム「同窓会」発売。