Mikiさん、早速のご返答ありがとうございます。 「人が人を、差別するのは相手より、優位を誇りたいだけ。 人が人と争うのは、利益のため。 ・・・歴史は語る。争いの原因。差別の原因。」 おっしゃる通りですが、私はこの「優位」と「利益」に集約されている 極めて一般的な説明には、満足できないのですよ。 更に我慢できないのは、歴史学者や政治学者が「優位性」や「利益」を理論化し、 権力者が差別・残虐行為や戦争(人殺し)を政策手段として「正当化」するために、 その理論化された優位性や利益(国益)が今日でも繰り返し、当り前のように戦略的に 国策として利用されていることです。 「小鳥さんは、解りませんか?心の扉を開けば解るはずです。」 心を開きましょうとは、私も日常的にさんざん繰り返し言ってきていることですが、 心を開けば「解る」ことに即つながるとは思っていません。せいぜいヒントを得る程度で、 深い理解に至るには、それなりの修行なり、日常的な経験なり、洞察力が不可欠だと思います。 「意図的に傷つけ合うのでは無くて、自分たちの優位 私利私欲、損得勘定があるからこそ、争うのです。」 優位・私利私欲・損得勘定などの意識的・無意識的「計算」に 基づいた行為が、口論で済んでいるならともかく、「命をかける」までの争いに至るには、 ほとんどの場合「意図的」経緯があるものと思われます。 戦略は意図的に練るものです。武器は空から降って来るものではなく、 かき集めるものです。争いは、勝手に始まるものではありません。 そこには、意図があります。 でも、意図があるからこそ、意図的に防ぐことも出来るはずなのです。 「過去は、変えられませんが、未来はいつもその手の中に 有ると思います。」 だからこそ、だからこそ、私は問いたいのです。 果たして、我々は「どれだけ」歴史から学んでいるのかを。 未来が手中にあるにも限らず、そして、人類は長い歴史を「既に」経てきたにも関わらず、 なぜ、21世紀を目前にした今日でも、同じ間違えが繰り返されているのかを。 前にも書いたとおり、なぜ、歴史の「暗さ・醜さ・悲劇」が繰り返されるのかを。 みんな、醜いってわかっているのに。 協力・協調・相互信頼という方法で相互「利益」が成就されていくwin−winの 歴史もあるにも関わらず、「利益」が差別や争いに直結する win―lose あるいは、zero−sumの論理から人は抜け出せないのか。 「歴史を通して学ぶべき事は、多いと私は思いますが、どうでしょうか?」 歴史に学ぶことが多いのには、全く同感です。 ただ、歴史だけを見ていては、差別や争いについては 解明できないとも思います。だから、あえて、 「どれだけ」教えてくれるのでしょうかと言ったのです。 更に強調したかったのは、歴史を学ぶ際の姿勢の大切さです。 歴史は多くの場合に、勝者によって書かれています。 勝者の論理で説明が展開され、勝者の論理が正論として 語り継がれることが多いのが悲しい現状です。 従って、読み方と読むものによっては、学ぶどころか、 どんどん目隠しをされる場合があります。 弱者から見れば、生存かけた精一杯の「保身」であっても、 「優位性」とか「利益」という言葉に片づけられしまうことがあります。 双方の戦いには、意図と動機において、格段の差があるにしても。 まぁ、保身も広く言えば「利益」ですが、同じ言葉を使っていても意味が違います。 わたしには、まだ、わからないことだらけなのです。 まだまだ、読みが浅いもので。 「歴史が語る人間の本質」ということですが、 それが、人間だといわれてしまえば、 何も言えないのですが。 と、前に書いたことをあえて、繰り返します。 その本質とどう付き合うのか、どう付き合えば、流血を 防ぐことができるのか・・・理解したいのです。 なぜ流血につながるのかという教訓を乗り越えて。 運命や必然や偶然に任せきれない現象に直面したときに、(それも運命でしょうが) 「歴史」で対処しきれない現実に生きあがいている中で 歴史の「暗い」教訓、(いや、「呪縛」といった方がいいでしょう) 歴史の「暗い」呪縛からは、それを噛み締めながらも、 解放されることを切に望むから。