彫刻って熊のじゃないよね 投稿者:たかあき  投稿日:01月11日(火)10時32分57秒 wwwcs1.sys.hokudai.ac.jp

小鳥さん、その木彫りについての話ってどんな土地で聞いたか知りたいです。
彫刻の大先生って用語に何かピンとこない私。
商売がらみの話は色んなものがからんでるから複雑だよね。
北海道の木彫りだからってアイヌとは関係ないものや
和人が適当にまねしたアイヌ風のものが多いし。店や土地にもよるか。

北海道のどんなところでなにを見たのか、他にも色々聞かせてください。


出歯亀ちゃん ごっこ 投稿者:小鳥  投稿日:01月10日(月)15時26分19秒 kobe3-31.m.nttpc.ne.jp

<<・・・・閉話運動?>>
          んんん?塀輪運動・・・?

<<私は、自分も虫も風も等しい存在であり、
自分がこの世界を認知出来るよう、全てのものは存在する。
さながら、他人の心がわからなくても、その人の心があるように。
というような事を、アイヌの価値観という説明はなく父から聞き、世界をよく見る事によって獲得した。>>

じーん。なんか素敵なお父さんだなぁ・・・。
個人的には、風や虫けらには、とてもかなわないと思い知らされたけど。

<<> それは責任転嫁とか放棄とは全く違う。人間的な感情という器には限りがある。>悲惨をリアルに受け止めてしまったら、人は発狂するしかないだろう。

どんな悲惨なものを見ても、よく観察してしまう私は、
ひょっとしたらもう既に発狂しているのかも知れないな。>>

人間の感情とやらが「有限」だというのが、もし一般的な認識だとしたら、
感情は、そもそも喜怒哀楽なんていう四字熟語では表すことが
不可能な「無限」のものであると思っている私は奇人だろう。

発狂は、感情の引き起こす作用の「一つ」かもしれないが、
人間はプログラムされたパブロフの犬ではないから、悲惨を
受け止めることの行く末は、必ずしも常に発狂とは限らないのでは。

惨事を繰り返し体験した上で、麻痺して無感覚になる者も、
受け止めた上で力強く立ち上がる者も、グッと深く冷静になる者も、
ひたすら逃げる人たちも、静かに黙り込む者も、心と目を閉じるものも、
崩れる者も、その他いろいろいるであろう。人間には、
それなりのコーピング能力があるわけだし。

中には、更なる惨事を求める中毒者もいたりするし、
惨事あるごとにバッチリ儲ける人たちもいる。
ここまで、来るとやはり発狂しているのでは、と思われる人もいる
かもしれないが、案外、本人たちは余裕で冗談ばかり飛ばしていたり
することもある。まぁ、それは、発狂を越えた不気味な状態かもしれないが。
狂うとは、そもそもどういうことなのかな?

まぁ、どうでもいいけれど、「人は発狂するしかない」などと一般的に
断定するジャーナリストの気がしれない。(記者個人あるいは
取材対象が発狂するしかなかったというのなら別だが。)
いや、報道がワイドショー化して久しいわけだから、事実よりも、
なんとなくの「感覚」が読み手に受けるモードなのかもしれないが。
それは、シュプレヒコールというより感覚や思い込みに
走らされた手抜き分析や場合によっては、やらせとも思われる。
(最も、社会的事実と真実の間には、これまた大きな溝があったりするが)

もちろん、頭の中だけでなく感性までが、まるでプログラムされて
いくかのような流行的な風潮を助長し、時には集団ハイプを煽動する
結果となるものに「一部の」ジャーナリストの跡もあったりもするが、
こうした行動にはシュプレヒコール的な要素があるか もね。
なんとない感覚論との区別はきっとたいしたことがないんだろう。
言論の自由を阻害する気はないし、何を書いても当人の自由だし、
世間は、そんな簡単には躍らされないと思うけれど、
(いや、時と場合によっては、そうでもないから困るのだが)
ただ、個人的には鵜呑みにしたくないタイプの記事なのである。

もちろん、鋭いジャーナリストも世にはいるし、出歯亀野郎は、
なにもジャーナリストに限った現象ではない。ある意味では、
人間は、皆、出歯亀的要素を備えている。「異質との接触」は
人間「史」以来の現象で、我々の生活から切り離せない。

たまたまいる社会環境の中で人工的に作られた常識基準によって、
それは、健全たる好奇心や未知への冒険として奨励されることも
あれば、罪として弾圧されることもある。「未知との遭遇」なんて
いうが、覗かれる(除かれる)側としては、未知もへったくれもない。
世の常識とは、恐ろしい。ただ、除かれた上に覗かれることを
うざったがる人々は自分の周りの仲間を含めて少なくないにも関わらず、
逆にまるで無視されることもたまらないと来る。
あっ、長くなるからやめておこう。

そーいえば初めての北海道は印象的。ただ、木彫り好きな小鳥としては、
現在、アイヌ彫刻の大先生と呼ばれている人たちは、
アイヌでないと聞き、なんか残念。本当なのかな?

「お嬢ちゃん、どうしたんだね?今は、木彫りを彫れるアイヌの職人さん
なんていないよぉ。カルチャー教室開いている人はいるけどね、ぐわっはっはっは!」って
なことを数箇所で言われました。本当なのかな?
なぁーんか、いろんな疑問が残ったねぇ。


おおっとヤマミチ 投稿者:oripakEsaman  投稿日:01月09日(日)17時04分54秒 ppp01058.nagoya.alles.or.jp

ジャーナリストとは、つまる所、
社会の偏見を代表する出歯亀野郎の事である。

もっとも、彼らはなんでも解ると思い込まされている情報化社会の中で、
自分の解らないものに、ただそれだけで不安を覚える人々から、
切に必要とされているのだが。

闇の恐い子供は、たとえホラ話しでも、お話をしてもらえればよく眠れるのだ。

>ジャーナリズムに勘は必要だけど、この人のコラムは、どうも感覚ばかりに
>走らされているようで・・・?

・・・・閉話運動?
これは感覚というよりはシュプレヒコールでは?

> アイヌのアシリ・レラさんにお会いした時に、彼女から、表現は全く違うけれど同じ意味だと感じられることを教わった。 

アリシ・レラさんというのは、ヒッピーに人気のある、あの山道さんの事です。
がんばっとられますねぇ。

> アシリ・レラさんは生まれた時から「自分と神は対等に存在する」という、
>アイヌの教えの中で育ち、その教えを受け継いだまま現代教育を受けた。
>彼女は法律知識も科学知識も持っており、本を書く言語能力もある。そして、それらの知識と
>「カムイ」は彼女の脳の中で共存できるのだ。 

私は、自分も虫も風も等しい存在であり、
自分がこの世界を認知出来るよう、全てのものは存在する。
さながら、他人の心がわからなくても、その人の心があるように。

というような事を、アイヌの価値観という説明はなく父から聞き、
世界をよく見る事によって獲得した。

同時にまた、世界をよく見るという事と、いろんな本があった家庭環境によって、
かなり幼い頃から、科学と意識せずに遺伝子と生命集団について観察したり、
いろんな事をやってみたりしていた、無論、学校はいい加減であったが(苦笑)。

法律も経理も音楽も芸術も、はたまた動物実験の現場や認知心理学の被験者
になってみたり、禅寺で瞑想したり、モスクで学んだりもしてみた。

それらの一見すると相反する経験と知識は、脳の中で共存しているのではなく、
まったく同じ一つの答えにたどり着く為の欠片にすぎない。
簡単にいうと、全て同じものという事だ。

さながら、心と体の境界が、互いに混ざり合い溶け合っているように。

> アシリ・レラさんもまた「個を越えたもうひとつの価値」を持っており、
>そこに自分を投げ出し委ねる術を知っている。
>なぜ彼女が今もなお残るアイヌ民族迫害の現実を乗り越えて、この日本の、
>そして世界のすべての人の自由と平和のために行動できるのか・
>その理由はたぶん「悲惨な歴史を個人で引き受けない」からなのかもしれない。 

俺は、情報としても経験としても、中々の「シャモ体験」を持っているが、
だからって、目の前にアイヌってなんだって踊りでできた、
自分がシャモと呼ばれている事すら知らない奴をいじめて満足する程、
屈折してはいない。

アイヌの誰がシャモの誰に殺されようと、
別にその事で、関係ないシャモを憎む事は出来ない。

むしろ、そういった事件の原因となっている壁を認識する事が大事である。
目の前の人間と仲良くする事によって、越えたような気になるのではなく。

> それは責任転嫁とか放棄とは全く違う。人間的な感情という器には限りがある。
>悲惨をリアルに受け止めてしまったら、人は発狂するしかないだろう。

どんな悲惨なものを見ても、よく観察してしまう私は、
ひょっとしたらもう既に発狂しているのかも知れないな。

俺の日課は、道端で轢かれている動物を埋葬する事だったりする訳だし。
その死体の写真を撮る事はもちろんあるが、毎回ではない。

> 私は悲惨な事件についてときどきコメントするが、そういう時、読者から
>「あなたも自分が被害者だったらそんなエラそうな事を言えないでしょう」という厳しいご意見をもらう。それはたぶん、私が「悲惨」から距離を置きながら、
>でもアシリ・レラさん達のように「悲しみとして受け止める」には至っていないので、そうに見えるのだと思う。 」」

ただ「そうかそうか」と受け入れているだけで、
原因の分析なくして解決はありえない。
個人の資質以上に、そういった問題を発生される構造がそこにあるのだ。

だからといって、適当なコメントも同情も白々しいのだが。
ダイエットが難しいように、それはヒステリックになるとさらに悪化する。
下っ腹の脂肪は中々落ちてくれないのだ。


引用 投稿者:小鳥  投稿日:01月09日(日)15時12分04秒 kobe3-21.m.nttpc.ne.jp

平和運動についての意味不明なコラムを読んでいたら、アイヌの引用がありました。
ジャーナリズムに勘は必要だけど、この人のコラムは、どうも感覚ばかりに
走らされているようで・・・?


以下の文は http://journal.jp.msn.com/worldreport.asp?id=000104randy&vf=1
悲しみのための装置 2000年1月4日  田口ランディ著 からの抜粋です。

「「・・・前略・・・●失われたもうひとつの価値 

 アイヌのアシリ・レラさんにお会いした時に、彼女から、表現は全く違うけれど同じ意味だと
感じられることを教わった。 

 アシリ・レラさんは生まれた時から「自分と神は対等に存在する」という、
アイヌの教えの中で育ち、その教えを受け継いだまま現代教育を受けた。
彼女は法律知識も科学知識も持っており、本を書く言語能力もある。そして、それらの知識と
「カムイ」は彼女の脳の中で共存できるのだ。 

 アシリ・レラさんもまた「個を越えたもうひとつの価値」を持っており、
そこに自分を投げ出し委ねる術を知っている。なぜ彼女が今もなお残るアイヌ民族迫害の
現実を乗り越えて、この日本の、そして世界のすべての人の自由と平和のために行動できるのか、
その理由はたぶん「悲惨な歴史を個人で引き受けない」からなのかもしれない。 

 それは責任転嫁とか放棄とは全く違う。人間的な感情という器には限りがある。
悲惨をリアルに受け止めてしまったら、人は発狂するしかないだろう。だから彼女たちは、
器を捨てて、別の価値観、世界観に自分を委ねるのだ。もしかしたら、神や宗教は、
そのように人を解放する装置なのかもしれない。 

 とはいえ、私はいまだにその「装置」の使い方がわからない。わからないので
右往左往しながらそれを探しているとも言える。 

 私は悲惨な事件についてときどきコメントするが、そういう時、読者から
「あなたも自分が被害者だったらそんなエラそうな事を言えないでしょう」という厳しい
ご意見をもらう。それはたぶん、私が「悲惨」から距離を置きながら、
でもアシリ・レラさん達のように「悲しみとして受け止める」には至っていないので、
エラそうに見えるのだと思う。 」」




アイヌとは何か? 投稿者:oripakEsaman  投稿日:01月08日(土)16時49分25秒 ppp01029.nagoya.alles.or.jp

最近MLが活発になってきて、こっちの方がおろそかになってます。
別にここは俺の講釈部屋でも質問部屋でもないので、
俺不在でも、それぞれ好きにやってて貰えばいいんですけども。

さて、しばらく溜まってた、いろんなものへの感想を

:たかあきさんは書きました。
>日本人から見たら韓国人はガイコクの人だけどアイヌはアイヌっていう
>ガイジンともまた違った別の世界の人に思われていると思うんだ。

その通りです。
いわゆるガイジンというのは、その異質な民族性と人種的違いを
一緒にしてしまって簡単にくくれるからいいんですが、
(実際はそうでもないのですが、日本人の基準からすると本当に些細な違いです)
アイヌの場合はちょっと違います。

いろんな経緯があって、
人によっては遺伝子的側面の人種は、その他の日本人とまったく変わらん人もいるし、
じゃあ文化的・意識的側面の民族から割り切れるかというと、
これまた(自主的、強制的、不可抗力の違いは別として)結果として日本人に
なってしまっている部分も多いのです。

じゃあ取り戻せばいいじゃん、という訳にもいきません。
そのへんの価値観は人によってえらく違うのです。

文化的なものをアイヌとして取り戻したいのか、
文化はともかくアイヌ同士で集まっていたいのか、
それとも、アイヌは忘れて日本人としてい生きるのか、
日本人としてのアイヌになるのか。
はたまた、結果として日本人である事は容認しつつ、アイヌでいるのか。
それとも失われた文化は捨て、新しいアイヌを探すのか。

それぞれ人によって違いますし、
また最も重要でありながら、一番曖昧になっている部分でもあります。

それらの多様性と、マスコミや活動家の思惑、
観光地の作り出すイメージや、アイヌマニアの思い描く幻想、
アイデンティティの薄さを補って欲しい民族フェチや、
無理してアイヌらしさを誇張するようなアイヌの活動家などの影響によって、
2重3重の誤解と偏見と、勝手な期待というか思い込みの対象にされているのです。

これは、以前シャムさんが書かれていた
「アイヌに関する活動をやってい人達のするアイヌ差別とは何か」
に対する一つの答えでもあります。
何もバカにするだけが差別的待遇ではないのです。

また、そのアイヌとは何かという事に際しての曖昧さが元となって、
アイヌの内側もいろんな問題を抱えています。
(というか宗教ではないので、帰属意識というものはそもそも曖昧なものなんですが)
元々アイヌも単一民族ではなく、また単一人種でもなかった訳です。
さながら、日本の山奥の盆踊りが川筋ごとに違うように。
それぞれの民族や地域への帰属意識も、色々と交錯しているのです。

>あとね、産まれてきた子供は両方の陣営に属することができるかもしれない。

経験から言いますと、そうは簡単にはいかんのです。

アイヌの社会は非常に地縁血縁が大事な社会ですから。
親が親戚付き合いとかをあまりしていないと、いろいろと大変です。
(アイヌである事を隠している人にはよくある話しです)

また、(誇るかどうかは別として)アイヌだと公言するアイヌと、
アイヌである事を隠すアイヌの間にもやはり溝はあり、
それもまた話しをややこしくする原因でもあります。

簡単に言えば、日本の田舎社会の抱える諸問題が、
そのまま吹き出ているといってもいいでしょう。

なんだか取り留めもなくなりましたが、とりあえずはここなへんで。


義妹 投稿者:ストームキャット  投稿日:01月04日(火)23時45分27秒 krym4DS13.fks.mesh.ad.jp

あ、いけねぇ。一つ言い忘れてた!
えっとね、俺は福島県に住んでるんだけど、弟夫婦は東京に住む
ことになるんだ。
弟が某機関誌の国際部の記者やってるから、イナカじゃ仕事が・・・
つまり、義妹にとっては両方の親族から遠く離れるということで
そこは心配なんだ。
時には夫婦喧嘩もするだろうし、似ているとはいえやはり
違いがある異国だし。
俺に出来ることは・・・悲しいことに思い付かないんだ。
もちろん妹に対して、出来る限りのことはする。
ただ、その『出来ること』はいったいなにか?
答えは、やはり見えないよ。
いまの俺に出来るのは、妹が『日本に来て良かった』と
幸せに暮らすことを祈ることだけなんだよ。
情けないけどさ。これが現実・・・

http://www5a.biglobe.ne.jp/~stormcat/


国際結婚 投稿者:たかあき  投稿日:01月02日(日)15時19分23秒 cs51102.ppp.infoweb.ne.jp

韓国人×日本人と日本人×アイヌの違いってやっぱりあるような気がするなあ。
日本人から見たら韓国人はガイコクの人だけどアイヌはアイヌっていう
ガイジンともまた違った別の世界の人に思われていると思うんだ。
アイヌと日本人が別のものだということをわかっていなくても困るし
そこにとらわれすぎても困るし…また本人がよきゃいいってもんじゃないから難しい。

あとね、産まれてきた子供は両方の陣営に属することができるかもしれない。
でもお嫁さんはあくまでも「誰それの嫁」という事実を通して初めて
日本社会に認められるんじゃないだろうか。
下手をしたら子供も日本人になって自分だけが取り残されてしまう。
是非義妹さんを愛しんであげて下さい。
きっと彼女も子供も考えることがあるだろうから。


質問です。 投稿者:シャム  投稿日:12月26日(日)21時21分05秒 p24-dn01iiyama.nagano.ocn.ne.jp

sampeをご覧の皆さんはじめまして。シャムともうします。こっちに書き込めるよう
になってうれしいです。管理人さんご苦労さまでした。
それで、Esamanさん、早速質問なんですけど、
>「アイヌの事を何か!」といってる人達からも(かえって?)、 
熱烈な差別を受ける事もあるからやってられない。mintaraより
これはどのような差別なのでしょう?私ももしかしたらやっているかもしれない
ですね。ただ自覚がないだけで、、、怖いですね、、
 


ふーむ 投稿者:ストームキャット  投稿日:12月24日(金)00時18分47秒 krym2DS05.fks.mesh.ad.jp

結婚の例え話なんだけど、俺の弟は韓国人と結婚したんだ。
とりあえず彼女が日本に来ることになるんだけど
生まれてくる子供は何人になるのか・・・わからないね。
実際に生まれてみないことには解らないが
両親にとっては孫であり、俺にとってはおいっ子であり
それ以外のなにものでもなく、そこには民族という概念など
存在しないだろうな。
彼女に対してすら、言葉が通じず弟の通訳を要するにもかかわらず
韓民族という認識はなく、あくまでも義理の妹だもんね。

そういや結婚式の時、日本からの招待客が彼女の御両親に対して
こんなスピーチをしてたんだ。
『娘さんは日本人と結婚します。でも、こう思って下さい。
自分には韓国語がちょっとヘタな息子がいるんだ、と』

もちろん異民族という認識ゆえの言葉であるんだけど
なんかいいよな、この言葉。
彼女の御両親も、穏やかな笑みを浮かべながら頷いてたよ。

結局さ、本来は民族問題なんて各自が置かれている状況によって
どうにでもなってしまう程度のものなんだ。

その程度のものだからこそ、普段の生活の中において
意識していないからこそ、社会情勢や政治が関わると一気に
イデオロギーと変化するんだよ。

ちっ、今日は気合いが入らない・・・

たかあきさん>
それは予想通りの返答ですなんですけど・・・

追記
ここに書き込む人、誰もURLを貼らんな。
みんなHPを持ってないとは考えられんのだが・・・