Esamanさんの投稿に、うちのHPのリンクが貼ってある。
ナコとかコミケ関係のページはないですよ。
>「自然と『アイヌ』であれる場所」
萱野茂さんの著書などで、アイヌの人たちは和人のててなし子(みなしご)を
引きとって、わけへだてなく育てていたということを知りました。アイヌにとって
和人はおのが土地を侵略してくるものだけれど、だからといって憎んでいるとか、
そういう負のイメージで対応しているのではないように感じました。
この日本という国では、アイヌや在日韓国人などに対する差別があります。
・・・別の「血」を差別しています。
この頃、「ハーフ」という言葉が差別用語として扱われるようになりましたね。
わたしとしては、その言葉が差別的要素を含んでいるとは思ってもみなかった。
でも、血が半分ずつ・・・そう考えること自体が差別的だったんでしょうか。
無意識のうちに差別をしていることって、かならずあるんです。知らないということは、
しかたがないことでは決してなくて、知っていかなきゃならないことだと思う。
うーん でも改めて差別用語として扱うようになると、ピリカリカちゃん・・・
リカちゃん人形のプロフィールはどうなってしまうんだろう? たしか、日本人の
ママとイギリス人(フランス人?)のパパの間に生まれた「ハーフ」ってことに
なってたと思うんですが
自然と「アイヌ」であれる場所。
そういう場所を、すべての人の心につくりたい。
キレイごとなんかじゃないですよね。
Esamanさんがいつも言っているように、
わたしたちの意識を変えていかなきゃ。・・・
http://www06.u-page.so-net.ne.jp/qc4/syk-a/
その職員さんに、
「適切な指導」とは一体なんなのかお教え頂きたいものです。
それにはまず、差別というものがどういうものか、よく知っていないとまずいと思いますが。
出きれば「指導によって回避できた事例」も教えてほしいものです。
実際は、目の前で起こっている差別を探知する力すらないのだと思うのですが。
いま自分が乗った満員電車の中に、痴漢の被害者が一人もいないんだって断言できますか?
誰も「この人チカンです」と言っていないからといって?
教室の中でしか知らぬ数十人の相手がやっていることを、どれだけ探知できるのでしょうかね?
子供の中にだって、「暗黙の了解」「それは教師のいるときに言う事ではない」くらい存在しますよ。
子供を人間扱いしていなんのかも知れませんね。
あと、「被差別意識を持っている」というよりは、「現実に被差別」なんですよ。
「私は差別をされていない」と主張したがるアイヌもいるようですが、
そういう人には、出きれば一緒に寄せ場で「アイヌ談義」をして欲しいものです。
場所によって、あるいは家庭環境によって、差別を激しく受ける場合と、
不思議なくらい全く受けない場合とがございます。
PS:
日常の中で展開される「いじめ」の生々しい記録として、
自殺した漫画家、山田花子の残した作品群はお勧めです。
一度読まれてはいかがでしょうか?
ご存知かどうか知りませんが、
被別体験のあるアイヌは、「アイヌ」という言葉自体を、反射的に恐怖しています。
北海道ウタリ協会という、北海道のアイヌしかは入れない組織があるのですが、
この会の名前をわかりやすくアイヌ協会にしようじゃないか、
という話しがちょっと前にあったのですが、多くのアイヌの反対にあい、出来ませんでした。
理由は、いわずもがな、です。
一見そういう怯えのないこの私でさえ、
車を運転中、突然視界に入ってきた巨大な「アイヌ」という看板に、
心臓が止まるかと思ったことがあります。
実際はなんの事はない、「アイス」という赤い文字の巨大な看板だったのですがね、
忘れもしません、奈良県での事です。
もう一つ、
北海道の友人がコンビニでバイト中、
ふと視線を下げたら、自分の真下に「アイヌ側」の文字が・・・
しばらくたって、目を開けて見なおしたら、
ただの「アイス側」、つまりアイスを入れる方を指示しただけの表示でした。
なぜこんなことを書くかと言うと、
そんなささないものでさえ、視界に飛び込んでくると、ビックリしてしまうほど、
被差別体験というのは身に染みているものなのです。
結構な数のアイヌが、自身がアイヌである事を親から知らされず、
物心ついたときに、突然差別(場合によっては親しい友人からの)によっ、
て自身がアイヌである事を知る、と言われています。
いじめだってそうですが、差別をしている多くの人間は、
自身が差別をしているとは気がついていない場合が多いものです。
痴漢や強姦の被害者が、実際に訴えているよりも数十倍、あるいは数百倍いるように、
いじめなり差別なりの実態を、所詮はただのサラリーマンである教師が掴むことが出きるとは思いません。
私は、自身の差別だけでなく、
おおくの「いじめ」の被害者の存在に気が付いている教師を一人も見たことがありません。
無邪気にいじめに加担している大馬鹿者や、バカ丸出しの無神経な「実態調査」によって、
勇気を持って告発した当人を自殺寸前に追いこんだ、死んだほうがいい糞野郎は何人も見ていますが。
そういう手合いは、HRなどで「君達は、いじめなんてしていないよね」などと、
いじめをしている奴らに面と向かって聞き、そ奴らの明るい答えを聞いて、
「いじめは存在しない、私の担当は、みんな仲が言いクラスです」
などと、凄惨な復習をされる告発者に全く気がつかず、上司に報告していたりするのです。
まったくもって、
「神よこの無知な罪深いものに、せめて安らかな死を、
この者は、ただ生きているだけで被害者を増やしているのです」という感じです。
差別なりいじめなり、する側というのは、本当に無神経で傲慢で、そして誰に媚びたらいいのかを
よく知っています。
絶対に不利にならない位置にいるからこそ、無茶も出来るんですよ。
そうでなかったら、そんなに無茶はせんもんです、人間賢いですからね。
DOTTIさん、ここの場所のように、見知らぬ人間が数多く除いている場所で、
被差別体験は、さすがに書くに耐えません、歯がゆい話しでしょうが、お許し下さい。
そして、自ら語らずとも、そういった目に会っているものは存在し、
「ハラを和って本当のことを」などと言ったところで、話す気にもならない状況は、
周囲の人間が作り上げていることにお気づき下さい。
長く詳しいレス、本当にありがとうございます。
おかげさまでアイヌ民族の被差別意識が、私が普段想像しているよりもっともっと
深いところまで達していると言う事が良くわかりました。
私は子育ての最中で(そろそろ終盤)いじめ問題に関心があり、前記したような経路で
ここに来ました。二つの掲示板の過去ログを一通り見た上で、こちらの掲示板のサブタイトルに
甘えて質問をさせて頂きました。その結果、多少なりとも不快な思いをさせてしまった事に
つきましてお詫び申し上げます。実を申せば、ここで質問をすると同時に北海道中部で
永年教職員をされている方にも同じような質問(学校でアイヌ民族がゆえにいじめられている事が有るのか否か?)をしました。その答えは「自分の身の回りではアイヌの子供だからと言って差別されたり、
いじめられているのは見た事が無い。しかし全く何処にも無いとは言いきれないのが辛いです」との事でした。
Esamanさんの答えとほぼ同じだった訳です。
もちろん教職員として「有る」とは言えなかったのかもしれませんが、「学校が適切な指導を
している場合、それらの問題は回避出来るのではないか」とも言っていました。
そうしてEsamanさんのレスの最後の一行「・・さすがに掲示板では・・」を見まして
私なりに「いじめは有る」と判断させて頂きました。
言うまでも無くアイヌの子達にとって「いじめ=差別」でしょうから
必然的に差別についての書き込み内容に移って行った訳です。
私自身、今まで被差別意識を持っている方と意見交換をした経験がありませんでしたので
「倭人嫌いさん」のカキコを含めて、すごく勉強させて頂きました。
もう一度、本当にありがとう御座いました。
いま投稿したら、DOTTIさんの投稿があのました。
確かにそのとおりでして、アイヌはアピールがヘタだ。
でも、一般にアピール以前に、自分がアイヌである事をどう捉えたらいいのかという事自体に、
大変不器用なんですよね。
ナコルルについては、確かに諸刃の刃だと思います。
たしかにカッコいいですし、マニアの方には大ウケですし、
コミケなどでにはいまだにナコルルのコスプレのねえちゃんが闊歩していますが、
彼・彼女達がアイヌがどんなものか知っているかというと・・・・
ううううむ、コタンの口笛が文化遺産に思えて来るゥ。
コミケで「アイヌって地方名?」なんて聞かれたときは、どうしようかと思ったわい。
もっとも、それが一番マシな質問だったんだが。
http://www06.u-page.so-net.ne.jp/qc4/syk-a/
DOTTIさん。
その「ひょっとしたら自分は差別していたかもしれない」という感覚、忘れないで下さい。
そういう感覚がないと、私達でさえ、つい差別はしてしまうものです。
さて、あなたの不安ですが、そのとおりだと思います。
あなたの書きこみの中には、おそらくは悪意はないでしょうが、
2、3、私の感覚からすると、「んん?」と思うものがありましたが、
「いい意味で」良識のある方とお見受けしていますので、大変な望みを持って対話を続けています。
あなたの最初の書きこみのは、大体はこういう意味でした。
「アイヌの差別についておしえてください」
こういう質問自体、そもそも大変無礼なものになりがちなのですが、あなたの書きこみは礼儀正しく、
自分が興味を持った理由をはっきりと書き、自身の体験談を交えて書き、
結局は質問をつっぱねている私に対し、自分の立場を認識した書きこみをし、対話の意志がある事を伝えてきています。
これは、あまり差別的な反応ではないと私は受け取っています。
そしてなにより、こういった「危険な話題」に問題意識を持っていたのかどうかまでは判りませんが、
最初から議論可能な掲示板に質問をしていること自体が大変評価できます。
ちょっと思い起こしてみましょう。
趣旨としてはあなたと同じ質問をしてきた人がいました。
「アイヌの差別についておしえてください」
趣旨はDOTTIさんと一緒なのですが、彼は自身の一方的な都合、
つまりは「学校の課題」で必要だという理由から質問をしてきています。
もっとも、DOTTIさんの「興味」も、十分過ぎるほど自分勝手なんですが、
少なくとも、責任の所在が自分自身に帰している事が大きく違うと思います。
また、
「学校の課題というなら、どの学校か教えろ(本当にそんな課題が出ているとしたら、それが既に差別です)」
という点に対しても、全く何処の学校かも言わず(せめてどの「学生」かくらい書いてほしいものです)、
自分自身の質問に対してしている「反省」にしても、結局は何を反省したのかわからず仕舞です。
もっとも、この人自身も、そういう無茶な課題を出してイキがっている「民族差別の専門家」の無垢な被害者かも知れず、
なんともいえないのですが・・・・
ですが、この質問者自身がそういった「専門家」でないという保証も無い訳でして、
やはり「なんだか変だ」という印象は拭えません。
それに、質問に失敗(あるいは成功)したら、それで興味が失せる、という場合も多分に有る訳ですし。
人間誰しも最初は何も知らないわけですから、知らずにしてしまう事は仕方がありません。
ですが、知らないからといって何でもやっていいかというと、そうではありません。
ですから、注意深く行動していただきたいものです。
私だってつい差別的な発想をすることあります。
大事なのは、そういう事自体を全くしないと思い込むことではなく、
誰だってついしてしまいかねないほど、微妙なもんだと言う事を忘れないことです。
PS:
もう一つの「んん?」は、コタンま口笛などを「アイヌをアピール」していた現象だと捉えていたことです。
ああいうのは、多くは和人の作り出したアイヌのイメージでして、アイヌがそれを望んでいるかと言うとそうではありません。
もっとも、観光地では、そういうイメージを武器とせざるおえない部分があるので、しゃあないんでしょうが。
http://www.horagai.com/www/salon/edit/ed2000b.htm#New
はじめまして♪>たかあきさん
mintaraの方のレスも含めてここに書きます。
私の一連の書き込みはアイヌの人達が差別されたりすることなく、誇りを持って生活出来るような
環境を作り上げるには、どうしたら良いのかを一緒に考えて行きたいと言うのが主旨です。
映画や歌謡曲ばかりではなく、ここのような掲示板や又現実世界でアイヌの人達と
和人が接触しようとすれば立場の違いや歴史的な面で色々な摩擦が起きてしまう可能性は
当然の事ながら有ると思います。「mintara」で、たかあきさんが言われたように
和人が作った映画や歌謡曲は、アイヌの人達からみれば確かに不満な点が多いかと思います。
でも、だからと言ってそれらの作品に対して過剰反応し糾弾していった場合
和人は新しい物を作れなくなってしまうでしょう。もちろんアイヌ自身が自分達を
アピールする事が上手ならば問題は有りませんが、私の見る限り残念ながらあまり上手とは言えないような気がします。
私は東京に来てから30年ちょっとになりますが、それから今までの間、アイヌ民族がらみで
耳に入ってきた事といえば「企業連続爆破事件に一部のアイヌ人が関係していたらしい」
「アイヌ民族出身人が国会議員に当選した」「早稲田にアイヌ料理の店レラ・チセが出来た」
と、まぁ、せいぜいこれぐらいです。多少なりともアイヌに関心がある私でさえこの程度です。
一般の人達にとっては、アイヌ民族の存在自体「?」の場合が多いかもしれません。
私が例に出した「コタンの口笛」は、文部省指定か何かで「学校引率」され、当時の子供達は
ほとんど見ていると思います。歌謡曲の「イオマンテの夜」は全国的にヒットしました。
そして、それらが消えた後は、一部の小説や漫画に登場する程度になってしまった。
かと言ってアイヌの人たちから全国的にアピール出来るようなものが産まれてこない。
結果的に「アイヌ民族の存在が埋もれてしまった。」そんな気さえするのです。
埋もれてしまえば、自分自身が誇りをもって生きて行くのは難しいと思います。
自分自身に誇りを持たなければ、いじめや差別を吹き飛ばす事は出来ないのではないでしょうか?
傷つく事を恐れ結果的に埋もれてしまっては、いつまで経っても差別やいじめは解消されないと
思います。
どうか「アイヌ民族の文化や知恵」を有効利用し存在を、もっともっとアピールして欲しいのです。
いきなり押しかけてきて、アイヌ民族の事情も良くわからないのにこんな意見を書いて
憤慨される方も居る事でしょう。でも私にして見れば拙いながらもエールのつもりで書きました。
ではでは♪m(__)m
たかあきさん、判りやすいご回答ありがとうございます。
私からいいたい事は、おおよそはこれで十分です。
私はアイヌで、あなたは和人です。
でも、アイヌだからって、いろいろとに質問されるのって、なんだか辺ですよね。
そりゃあ、アイヌって「状況」は、和人の方かするととても珍しいもんでしょうけど。
じゃあ、和人同士のように、御互いのあいだに何もないかのように接すればいいか?
まぁ、一緒にラーメン食ったり、ゲームやったりする分には、それでええでしょうけどね、
そういう場面では、「何もかわらない同じ人間」どうしですからねぇ。
そして、個人的に大変親しい関係であるならば、気にしなくてもいい場合も多いでしょうよ。
実際、私の友人でも、私がアイヌだと判っている人は1/3くらいですよ。
でもね、だからといって、私がアイヌでないわけでも、
親しい相手がアイヌになってしまったわけでも、ないのですよ。
まして、私が和人になってしまったわけではない。
「アイヌ」というのは、私という人間の帰属している政治的な位置であって、
私という人間の一部分でしかない。
あなたは、「日本人」が全てですか? そうではないですよね。
しかし「アイヌ」というのは、私のありとあらゆる日常の中に潜んでいる、
いつ襲ってくるかわからない危険でもあり、
そういった意味では、緊急の場合はそれが全て、ともいえます。
「襲ってくる」とは、簡単にいえば差別ですが。
「活動」においては、国内に「アイヌ」という異民族がいるという事を認識してもらうのがまず第一ですから、
おのずと「アイヌらしいもの」つまり、民族衣装とか、言語とか、歴史とか、を結構重視いたしまいす。
もちろん、我々アイヌは独自の文化と言語を持つ民族ですが、現実はそういったものを失っています。
「それどころではない」からですね。
我々の多くが、「アイヌ」であると指摘され、あるいは実感するのは、独自の文化を見つめる時ではなく、
いわれもない差別を受けたときだったりします。
勿論そうでない人もいますが。
でも「活動」の現場には、現実の一般のアイヌの世界よりも、
そういった意味での「負の感情の少ない」人の比率が多いような気がします。
そりゃうそうです、実際、厳しい現実に打ちひしがれた場合、それを跳ね返して立ちあがる人間よりも、
そのまま潰れたり、泣き寝入りしてしまう人間の方が多いものです。
職場におけるセクハラや、強姦や痴漢を訴える人間が少ないのも似たような理由でしょう。
「よくあるアイヌのイメージ」の中にも、アイヌを取り巻くもう一つの巨大な矛盾が潜んでいます。
実際問題、我々が差別される理由は「アイヌ」なのですが、
「アイヌらしいもの」として周囲から期待されるものである所の「アイヌの伝承文化」「アイヌ語」などは、
実際のアイヌの多くは身につけておりません。
「アイヌ」だと指摘されるのに、「アイヌらしくない」んですよ。
この「現実に差別があるにもかかわらず、誇るべき証が少ない」事は、
現実のアイヌの抱える大きな傷の一つであります。
この問題は、アイヌ自身を「消え行くもの」としての自認を強要するばかりか、
ヘタをするとそういったものを身につけているアイヌに、
身につけていないアイヌはアイヌではないという認識を持たせる温床だったりします。
でもねぇ、アイヌ語をしゃべれたとして、実際は差別の解消には繋がらないのですよ。
研究者とかにはもてはやされるでしょうが。
そして、アイヌ語を捨てたとしても、差別は無くなりません。
実は、文化の振興は、アイヌの厳しい現状の回復には、あまり関係がないのです。
「消え行く文化(民族ではない)」は保てるでしょうが。
「アイヌ」であるという事は、どういう事なのでしょうか?
答えは見つからないとしても、私は現実にアイヌなのです。
だからといって、アイヌである事を無視して、和人として話しをしたところで、むなしいだけです。
「すべての人と人は個人どうしの関係であって、和人とかアイヌとか、男とか女にこだわるのはおかしい」
これは現実に存在するあらゆる権力構造、差別構造を無視した、ただの自由という名の逃避であります。
私は、アイヌがアイヌである事を公言して、そういったあらゆる「期待・脅迫・圧迫」を感じずに、
誰にも道化をして媚びずに、自然と「アイヌ」であれる場所が欲しかった。
だから、この場所を作りました。
「大仰な民族の使命を背負ったアイヌ」でも「不当な差別を和人社会に訴えるアイヌ」でもなく、
ましてや「自然と共に生きる、素晴らしいアイヌ」でもなく、「ただの一介アイヌ」として、無理無く存在できるように。
>DOTTIさん
>私のような一般人がうかつにアイヌ民族の人達に話し掛ける事も出来なくなる
私が思うに「和人相手だったらそんなことは聞かない」という話題や質問をふらなければ
会話するのには問題がないと思います。
和人同士だってそんなに親しくない人にこみ入ったことは聞かないでしょう?
話しかける理由が「その人がアイヌだから」というならそこで終わってますが…。
あ、あと、職業や活動やってる人と素のアイヌで対応は違うと思った方がよろしいです。
しかしEsaman氏の痴漢の例えはわかりやすいですね。
>倭人嫌いさん
私もそうですが和人で「倭人」と言われてむっとくる人ってあまりいないと思うので
これは悪口としてはいまいちです。
歴史大好き親父(失礼)なんかは逆に喜ぶかもしれません。
それを見てほくそ笑むのも一つの方法ですがだとしたら陰鬱な趣味ですね。
あと、程度や内容の違いはあれど差別のない人種や国なんて無いと私は思う。
だから仕方ないって訳じゃないけどね。
「実際多くの場合って、あんまり身に憶えがないんでないの?
しかし、憶えが全くなくっても、差別をしてしまってることはあるわな。
へんにアイヌを特別視したり、懺悔したり、無神経な「質問」をしたり・・・
これらは既に差別の一端だ、悪気がない場合も多いだろうが。」
と有りますが、こうなってくると私のような一般人がうかつにアイヌ民族の
人達に話し掛ける事も出来なくなるような気がします。差別意識が無くても
結果的に差別している可能性が有ると思えば、言葉一つ一つに細心の注意をし
質問する際にも最大限の注意を払ってしなければならないのでしょうか?
もし仮にそうなれば、今まで意識していなかった差別と言う物を逆に意識する必要性が
出てくるのではないでしょうか?
今までのこの掲示板への私の書き込みが「差別」に該当していた可能性が有るかと思うと
ちょっと心配です。