シンプルには
成長期には肝要なフンベツも これを言語で操ると フンベツのブンベツという
言葉の遊びになり勝ちで、この内なる過剰な分別が差別そのもの。
ちなみに人は無分別(の智慧)によって 内なる調和を果たして完熟する。
こうなるのは、つまり「遊び方が下手」または「分業」によって 人格形成が
損なわれる ― そのような文化の有り方が問題の原因です。
アイヌやアメリカインデアン、インディオにしても日々の生活が大自然と
密着していた頃は「フルに頭を使って誠実に生きていた」と思うのです。
真剣でなければ命に関わったからです。しかし、搾取支配の存在が民衆に
まで広がり、拡大した。 同時に余暇が無駄時間になり
、マイナス思考が拡大した。これが世界の先進国一般の現象です。
冗長だけど、それを端的に指摘しているのが以下の一文。
『浄土真宗本願寺派 東海教区仏青連盟 (YBA-Tohkai)』 http://www2.big.or.jp/~yba/index.html から 拾いました。
/真剣に考えよう/討論会・座談会の記録/発言することから始めよう/
討論会・座談会の記録 から『不思議な枕』
大阪の古典落語で(最近は使われない)古い枕の話があります。
会場内が ざわざわしている場合、落語家に注目を集める手法のようです。
(はっきりものを言うより、ぼそぼそと――)
「人間は生まれながらに 二つの道がある。 男に生れるか女に生れるか。
男に生れたら どっちゅうことないけど、女に生れたら また二つの道がある。
結婚するか せえへんか。
結婚したら どっちゅうことないけど、せえへんかったら また二つの道がある。
遊ぶか遊ばへんか。
遊んだら どっちゅうことないけど、遊ばへんかったら また二つの道がある。
長生きするか せえへんか。
長生きなら どっちゅうことないけど、長生きせえへんかったら また二つの道があ
る。 見守られて死ぬか せえへんか。
見守られたら どっちゅうことないけど、見守られなんだら また二つの道がある。
地獄行くか極楽行くか。
極楽なら どっちゅうことないけど、地獄に行ったら また二つの道がある。
人間に生まれ変わるか かわらんか。
人間に生まれ変わったら どっちゅうことないけど、せえへんかったら また二つの道
がある。 植物に生まれ変わるか動物か。
動物やったら どっちゅうことないけど、植物やったら また二つの道がある。
花を咲かすか咲かさへんか。
咲かせたら どっちゅうことないけど、咲かせなんだら また二つの道がある。
踏まれるか踏まれへんか。
踏まれなんだらやったら どっちゅうことないけど、踏まれたら また二つの道があ
る。
こんなんが延々と続きます。これをやると「何かいな」と、皆が注目をするんで
す。この後、紙になったりしまして、「コピー用紙だったら どっちゅうことないけ
ど、トイレットペーパーやったら また二つの道がある。尻を拭かれるか拭かれない
か」などと続きます。
これは注目を引きつける古典的な手法ですが、「男に生れるか女に生れるか」
「地獄に生れるか極楽に生れるか」「長生きするかせえへんか」「結婚するかせえへん
か」など、今の風潮の中では良くないんですね。落語から始まった言葉も意味の深さ
を皆が考えはじめていまして、これに噛み付く人が大分あるのが現実です。中には訴
える人も過去には居ました。ですからもう14〜15年は聞かれません。特にテレビ
やラジオでは一切聞けません。
区別していたのに それが差別になっていたのか、区別と差別の境目がよく分から
なくなってきた、というのがほとんどです。
_______
この問題の解決の糸口が文化、文明の側から得られるとは思えない。
その意味合いから アイヌが倭人の振る舞いを真似るのでなく、
『人の本来の生き方を示し、示唆する』のが本道だと思っています。
・・・・・・・ 一地球人より。
http://www.f3.dion.ne.jp/~sinrei/index.htm
私の書きこみ内容が「決してその人たちと比べて「マシ」という状態にはならないでほしいです」
と言うような感想を持たれたのでしたら、それは私の文章が稚拙なゆえです。ごめんなさい。
私が書いたのは「いじめ社会の大きな要素」としての「差別主義者」の存在と多く見かける特徴および
それらの人達が及ぼすであろう弊害を書いてみたわけですが、もしこれが「決して・・・」
と受けとめられるのでしたら、「例を出して説明する」と言う事がなかなか難しくなりそうですね。
今回のカキコには触れてませんでしたがEsamanさんが言われている「無意識の差別」や
「無言の差別主義者」も多くいるわけです。
「多少マシな差別主義者」にしかならない気がします。」←この点につきましては
当然の事ながら十分に注意しなければなりません。(私も子も)
ですから「差別主義者」及び「多少マシな差別主義者」にならないために
将来「差別の無い社会」を作る担い手としての子供たちに
どのようにアイヌ民族のことを話したらよいのかをお尋ねしていた訳です。
もちろん教える側の私が良くわかっていなければ無理ですから、アイヌ民族も和人も来ている
この掲示板で広くお尋ねしているのです。
どうぞよろしくお願い致します。m(__)m
こんにちは。
DOTTIさんの投稿について、思ったことがありますのでカキコいたします。
自分とは違う(違っていてほしい)人間を引き合いに出すとき、この場合「差別主義者」
ですが、決してその人たちと比べて「マシ」という状態にはならないでほしいです。結局、
ひどい差別主義者がいるから、自分たちは「多少マシな差別主義者」にしかならない気がします。
DOTTIさんがお子さんを育てる場合、純粋に子どもたちを、相対的な人間としてではなく
絶対的な人間(唯一ヒトリとしての人間)として育てることが大事じゃないですか? 人間関係を
絶て、という意味じゃないですよ。人と比べることに躍起にならない、そういう人間でありたい
ですね。
こんな話を、少々・・・。
アレルギー(アトピー)を持っていて、体が痛くてしかたがないときに、周りの人に「もっと
(全身)かぶれて、重度が高い人だっているだろ。それに比べればおまえはマシなほうだよ」と
言われるとします。
卵巣をひとつなくして、病気の再発を恐れて悩んでいるときに、周りの人に「世の中には子ど
もを産めない人もいるだろ。おまえはまだ可能性あるじゃないか、そんなに悩んだりするんじゃ
ないよ」と言われるとします。
ほかにも例はありますが・・・。
慰めや、いたわりの言葉だとしても「マシだ」と思うように仕向ける言葉は、エタやヒニン(←今や使用禁止の言葉になっている)を見て暮らす農民という、そういうシステムに組みこまれる
ようなものなんですよ。ヘンな安心感を持つだけのものです。なんの解決にもならない。
まぁ病気に関していえば、程度の差こそはあれ、同じ病気なんですよね。程度の差こそはあれ、
同じく苦しんでいるのです。そこに、そういう苦しみを知らない人に、そういうことを言われると・・・ひどく落ちこんでしまいます。
こういうケースもあるということを、心の片隅にでも留めておいてください。
「差別主義者」とでも言いましょうか、この世の中には必ず、好んで差別言葉を吐いたり
する人が存在しますよね。10人に一人なのか50人に一人なのか、割合は良くわかりませんが
普段生活している中でよく見かけます。
で、それらの人達を観察しますと、仕事の面で言うと
「業者いじめをする」「上司に陰口を言うくせに当人の前では猫かぶりが上手」「部下の前では尊大な態度をとる」「自分の意見が絶対正しいと思っている為、少し批判されるだけでムキになる」
「自分の事を大きく見せようとする」等などの事が、極端とも言えるほどの形で現れます。
そうして、かなりの確率で「本当は気が小さい」人です。
これらの人達は、自分以外のあらゆる物に対して差別発言をします。
「宗教」「民族」「職業」「職種」等など見境が無いです。
常套句は「〇〇のくせに!」です。これらの人達の言動に影響されて新たに差別意識を持ち
自分の近くの被差別対象者に対して「差別」をするようになる可能性もあります。
私は自分の子をこのような人間にしたくないので
その為に皆さんの意見を広くお聞きしたいと思っています。
引き続き れんです。
下の投稿、おもにいわゆる「子ども」(小学生くらいまでの)に限定して書いちゃいました。
あるていど大きくなってる子どもに教えるとしたら、たぶん、その子たちは自分で考える道を
知ってるでしょう。そのぶん、うかつなことは言えないでしょうね。
どっちにしても、親と子どもが、親・子の区別なく、同じように考えていけるようにしたら、
いいんじゃないでしょうか。
DOTTIさん こんばんは。
これから子を持つことになるであろう(産めたらいいけど)立場から、ひとつの意見として
レスいたします。(ちなみに、わたしは和人です。いちおう、女です。)
・子どもにアイヌの存在を教えたほうが良いのか?
・・・教えたほうがイイのではないでしょうか? というより、作為的に教えたり教えなかっ
たり、というのはあまり好ましくないのでは。しぜんに知っていくもんだと思いますよ。白い
キャンバスを持った子どもには、ありのままの事実を教えるのがいいんではないかと思います。
・歴史や文化などを含めて詳しく教えたほうが良いのか?
・・・んー、、、アイヌの歴史や文化を教えてくのは悪くないと思いますが、和人として
(日本人として)、日本の歴史や文化も同じくらい教えたほうがよいかと思います。加えて、
世界史とかも。アイヌに偏ることなく教えられるものは教えて、その知識のなかから子どもに
考えていく道を示してみるのがいいんじゃないですか? 親として、子どもにすべてを
与えるのは難しいですし、かならず偏りが出ちゃうと思います。わたしは、わたしの子どもに
情報を鵜呑みにするような人に成長してほしくないですから。
・差別問題を含めて教えたほうが良いのか? 差別意識を発生させないためには〜?
・・・教え方によると思いますよ。どんな差別があるのかを知るのは、大事だと思います。
現実にある差別を、自分には関係ないこと・・・そう思わせない教え方がよいかと。「世の中に
はこういう差別があるんだよ」「ふ〜ん」、これでは教えた意味がありません。ってか、教えら
れていません。
教える立場になるDOTTIさんや、わたしにも、差別に対するしっかりした知識があるとは
限らないですし。。。
それに、無垢な子どもは差別をしない、とは言いきれないですもんね。いちばんコワイのが
無意識のうちの差別ですよ。差別意識を発生させるとか、させないとかは、ふだんの子どもを
取り囲む環境の影響のほうが大でしょう。親のいうことをよく聞く子どももいるでしょうが、
たいがいは友達などと感化し合うもんだと思います。
だから・・・なんというか、「ええ環境」をつくることが大切やと思います。とかいって、
「あそこの子どもは差別をするから、うちの子どもを近付かせないほうがいい」・・・こんな
ことを考えたりしたら、その時点でもう「差別」を発生させてますよね。
子どもという存在に、規制を設けないこと、かな。子どもって、何も教えなくてもどんどん
学んでいくもの。いいことも、悪いことも。悪いことを覚えてきたら、それを叱ってやれる
親になれたらいいですよね。(叱る前に、ほんとに悪いことなのか見極める力を養わなければ
ならないですね。)
差別がない世界。
人間って、誰もがべつべつに異なって生まれてくるのだから、その差異を消すことはできない
と思います。みんなが同じで生まれてくるのなら、そして同じに成長していくのなら、差別は
なくなるかもしれないですね。
違うからこそ、「違い」を深く考えていくことはできると思います。
うーん、乱文でごめんなさい。
続きという訳ではないですが・・
今、ここのHPで一番聞きたい事は(今までのレスやカキコを熟読した上で)、
子を持つ和人の親として、
・子供にアイヌの存在を教えた方が良いのか?
・教える場合、歴史や文化などを含めて詳しく教えた方が良いのか?
・教える場合、差別問題を含めて教えた方が良いのか?
特に差別問題を含めて話した場合、
無垢な子供に、新たに差別意識というものを発生させてしまう可能性は無いのか?
・差別問題を話す時、差別意識を発生させない為にはどのような話し方が望ましいのか?
差別が無い世の中にして行く為に、ぜひ御意見をぜひお聞かせ願いたいのです。
Esamanさん>
「アイヌのことを理解したい、援助したいという和人の方は、ヘタをするとアイヌの為ではなく、
同化政策への加担をしてしまう可能性があります。」
終戦後すでに半世紀以上経過しているのに、未だにアイヌ差別が深刻な状況で残っている
という事については私も多少なりとも知識はありました。それと同時に
「差別解消に為にアイヌ民族はいったい何をしているのか?」と歯がゆい想いもしていました。
確かにEsamanさんが繰り返し言われている「アイヌの置かれている難しい状況」については
わかりますが、差別している側の「差別解消論」などは空論になりやすく、またEsamanさんが
危惧する「同化政策への加担をしてしまう」事になりかねません。
だからこそ差別されているアイヌ民族自身が差別を無くするのにはどうしたら良いのかを
考え、提案し、そして要求するべきは要求し、自らの意識を変える必要がある部分については
前向きに変え(アイヌ民族同士の意思の統一または歩みより)強く和人社会に訴えて行かなくては
いつまで経っても原状のままでしょう。
今「いじめ問題」や「差別問題」に関して「農耕民族の弊害」を言う人がいます。
平均化する事が良しとされ個性を疎んじる農耕民族思想(たとえば村八分など)が
全ての「差別意識の発生源」と考え、それらを解消して行く為には狩猟民族や海洋民族(漁師)の
生活感や知恵が必要だろうと言っておりました。
あ、時間が来たのでまた。m(__)m
DOTTIさん、こんばんは、お仕事お疲れサマです。
遅れましたが、返事です。
これまたよく言われる事ですね、
「結局アイヌの方々は、和人相手に何をしてほしいのか」
・・・・
そりゃあ、我々が失ったものは山ほどあり、それを失った原因というのは殆ど全てが和人の侵略で、
和人であるという事は、それだけで我々の先祖の遺体の上に生活している、と言えばそうですが・・・・
といいましても現実には、北海道を返せ、とは言えない状況になっていますし、
我々の奪われた言葉と文化を返せ、と言おうとしましても、実際に我々が使っているのは既に日本語です。
それに、奪われたものであるのは確かなのですが、今更藁葺き屋根で生活するのは、中々難しいです。
・・・・これがすなわち、「同化政策」というものの実態です。
ただ排除するのではなく、反撃を出来ないように、簡単に権利追及を出来ないように、
アイヌの一部を和人と結び付けつつ、アイヌを日本人と「同化」しつつ、
かついつまでも「劣等な存在としてのアイヌ」として扱う。
(この劣等感には、「近代化に乗り遅れた劣等人種」や「民族としての文化を失ってしまった民族」というのも含まれます、
実はどちらもアイヌ自身のせいではないのですが、そう思わされる構造があります)
誰に規制をされるのでもなく、本当に対等で自由な生活の中で、ただの選択の結果として、
「近代化」というものが緩やかに行われたのならば、何も目くじら立てることではありません、
そんなものは、日本の普通の農村歌舞伎などでも起こっていることだ。
でも、実際はそうではなかったのです。
我々の多くは、従来のアイヌスタイルを捨てて、日本人化するように、
そうすれば、差別はなくなり対等に扱われるという「幻想」を持たされて、
そして、抵抗する人間はいろいろな手で消されて、現在にいたります。
現在、我々は「アイヌらしさ」というのをかなり大幅に失っています。
人によっては、差別されるまで、自分がアイヌでと気が付かなかった人もいるほどだ。
「やべぇ、俺アイヌかもしんない」
私友人の一人は、始めて「雲行きがあやしい」と思ったときに、そういう感想をもったそうです。
・・・・同化などしたところで、差別はなくならないんですよ。
アイヌをバカにする奴らは、アイヌ語をしゃべるからするのでしょうか?
それとも、アイヌの文化が劣等だから?
実際の多くの差別者は、アイヌが何かもよくは知りませんよ。
・・・よく言われる、アイヌが差別されるのは、人種が違うからだ、
だから混血すれば差別は減るし、いつかなくなる。
だから、「多少バカでもいいから、シャモを貰いな、産まれてくる子供の為に」。
・・・・・本当にそうでしょうか?
アイヌの血が一滴も入っていない、「貰われ子」であるアイヌの子供、
つまりは、全く持ってアイヌらしくない人も、等しく「アイヌ」として差別されます。
差別する側の多くは、見た目がアイヌっぽいかどうかなんて、大した問題にしていない場合も多いのです。
・・・・・話しが大幅にそれていますが、
いまお話したのは、非常にややこしいアイヌの置かれている現状です。
我々は、失った物はおおいのですが、だからといって、判りやすい敵はおりません。
これが「同化」というものです。
侵略者である「和人」とは、昔のように単純な外部からの侵略者ではなく、
既にアイヌの内側の問題になっているのです。
政府には、失ったのを返せと要求していますが、
彼らは文化だけは、アイヌだけではなく、等しく日本国民全体に向けて「振興」しています。
確かに、今にも消えつつあるアイヌ語や伝統文化は、いますぐ保存すべきです。
ですが、それは誰の為になのでしょうか?
過去の侵略の経緯などなかったかのように、
あっけらかんと「民族の誇りの源泉としての文化」を振興する姿勢は、
まるで、「文化を失ったアイヌはアイヌでない」といっているように思えます。
・・・・このような状況下の中では、
アイヌのことを理解したい、援助したいという和人の方は、ヘタをするとアイヌの為ではなく、
同化政策への加担をしてしまう可能性があります。
せめて、この歯がゆい現状を理解下さい。
私達は、既にかなり同化の進んだ状況で、でもアイヌとして生きています。
そして、せめて、等のアイヌが悲しむような差別をしないようにお気をつけ下さい。
「アイヌの文化ってすばらしいですね」確かにそれは事実です。
ですが、現実のアイヌの存在は儚くも脆く、そういう投げかけを受けると、哀しくなるアイヌも多いのです。
それが、現実です。
Esamanさん>
「いじめだってそうですが、差別をしている多くの人間は、
自身が差別をしているとは気がついていない場合が多いものです」
確かに今までのEsamanさんの話しを聞きますとそうなんでしょうね。
質問を受けてくれた教職員のかたも私も似たような者でしょう。
私の経験した事ですが、勤務先に出入りしている運送会社のドライバーが聾唖者の方でした。
その人は顔つきもやさしく物腰静かで、しかも真面目に良く仕事をするので
仲間内でもすごく評判が良かったです。ところがちょっと不思議な事が有りまして、と言いますのは
真夏でも長袖のシャツを着ていて決して腕まくりなどしないのです。
多少手話の知識があった私は結構仲良くなっていたので、その訳を聞いてみたところ
「健常者になめられたくない!」から「全身に刺青を入れている」のだそうです。
もちろん〇くざや、そのような組織に入って居た事は一度もありません。
聾唖者の人達は外見は健常者と変わらない為、健常者が聾唖者を見てもわからず
話しかけたりし、それに対して聾唖者は返事が出来ずトラブルになってしまう事も
多くあると思います。私達健常者からにして見れば何の差別意識も持っていないつもりでも
その人からすれば「どうしようもなく腹立たしく又やりきれない想いを何度も何度も
飲みこんで来た」事でしょうね。
だからこそ強烈な痛みに耐えて全身いれずみなどしたのでしょう。
Esamanさんの書きこんでいる内容を読むと「存在その物がすでに被差別」とも受けとめられるような
部分が多いような気がします。そうして、私のような「差別に鈍感な」者に
差別があることを教えてくれました。ただ少々気がかりな点は、一連の(過去ログを含め)
Esamanさんのカキコを拝見しても、「それではどうしたら差別が無くなる社会に出きるのか」
また、「和人としてアイヌ差別問題についてどうして欲しいのか?」と言ったような
意見をほとんど見かけません。
その点につきましてお考えがあるようでしたら、ぜひお聞かせして貰いたいと思っています。
・・今日から仕事が始まりますので、また夜にでもお邪魔致します・・・
ではでは。m(__)m