あ〜、ナコルルに関する話題が。
Esamanさんが言ってたのは、このことでしょうか?
私もナコファンです。ナコルル連合にも加盟しています。
正直に告白しますが、私も「アイヌ差別をまるで認識してない
単なるゲームオタク」の一人です。
ところでmintaraにおける記事も拝見させていただきましたが
「何も知らない和人」としては一つだけ疑問がわきました。
「何も知らない」でナコルルを好きになって、どこが悪いの
でしょうか?
ゲーセンや家庭でナコルルを使っている者たちは、過去および
現在のアイヌ人に対する差別を反省しながらプレイしなければ
ならないのでしょうか?
私を筆頭に、ほとんどのナコファンはアイヌに対する『知識』
はありません。中にはアイヌが実在する民族であることすら
知らない者もいるかもしれません。
しかし、だからと言って闇雲に糾弾するのは・・・?
それでは、せっかくの『開きかけた扉』を自ら閉めてしまう
ことになりかねないと思うのですが、どうでしょうか?
http://moon.gaiax.com/home/ritsurinkan/
noto an mintaraの言い訳をします。
8/21の683の投稿では
黒羽勇志さんの「よくわかんないけど」という言い方が、
「ナコルルのかわいらしさはアイヌとは関係ないんだよ
過去にどういう差別があったとか、歴史がどうとか、
そういう話はかわいさを語るうえで邪魔だ。やめて。」
という比ゆ的な言い方をしているように見えたので
噛み付いてみただけです。
なお8/22、693の投稿で
「〜とか」で挙げたのは、ナコルルの魅力を
十分に堪能しちゃってる連中を指しています
「ナコ、いいよね。よく分かってるよ。かわいいよね。」
という人にもいろいろいて、
初代の衣装が一番ちんちくりんでそれが気に入っている人、
初代の設定資料集に掲載されていた何となく寂し気な
表情が気に入っている人、(タオルにプリントされて商品化)
チャムチャムより、絶対ナコルルのほうがいい人、
とにかくナコルルを真っ二つにしたい人、
(『天草降臨』ではナコルルに断末奥義を決めても
残酷な演出を見ることができません。ヒロインだからってズルい。)
さらには18禁的にナコルルを乱暴する人、
ナコルル、というよりむしろ声優のファンなどなど、多種多様です。
たしかにナコルルというものをよく分かっているのでしょうが、
アイヌがどうとかそういう民族的な問題を意識している人は
あまりいないのではないでしょうか。
まぁ「アイヌ」というよりむしろ「大自然のおしおき」なキャラクターなので
当たり前といえば当たり前なのですが。
私は和人です。
出掛けるとき、よくアイヌ模様のポシェット(?)
を肩から下げて歩いています。
先日、某日○谷公園でこんなことがありました。
友人と2人、公園内でお昼ごはんが食べられる所を探していると、
向こうから来た浮浪者風のおじさんが、すれ違い様、
「このイヌ」
とつぶやきました。
とりあえず目標にと向かっていたレストランまで行ってみたものの、
気に入らなかったので、すぐにUターンをし、元来た方へ戻ってきました。
すると、そのおじさんがどうやら待ち伏せしていたようで、
私が横を通りかかると、今度は、
「この馬鹿イヌ」
と言いました。
一度目にすれ違ったとき、思わず反応した私に、
友人はとても不思議そうな顔をしていました。
でも私はその時、まさか思い違いだろうと思いました。
公園内には犬の散歩をされている方もいるわけですから。
ただ、二度目には、事態を悟らざるをえなくなりました。
一応言っておきますが、私はいわゆる和人顔です。
これは私個人に対する差別というわけではありません。
でもさすがに帰りは、なかば反射的に、ポシェットをかばんの中に
仕舞ってきてしまいました。
すいません。皆さんへのレスを書いたのですが、
投稿しようとしたらエラーが起きてしまいました。
戻ってからもう一度送ろうとしたら、それまで書い
たものが消えてしまいました。
今日はちょっと疲れてしまって、これ以上起きてい
られません。後日必ず投稿しますので、それまでお
待ちください。ごめんなさい。
なぜ干渉したがるか?
それを「一部」と考えるから
アイヌを日本ってやつの「一部」に過ぎないと考えるから
「一部は大部分に組みこまれるもの、侵食されるものだ」
そんな考え方をしていてはダメ、
黒羽さんのおっしゃる「新しいアイヌ」も その「一部」としてしか
考えられてないように思ってしまいます。
なぜ今あるアイヌを 見ようとしないの
わたしは和人で、アイヌになれない、ならない、
アイヌではないから、アイヌを知らないから、
でも その存在を知ったし、今を見ようとしています。
同級生を死に追いやっておきながら、関係ないねと胸を張る状況
とりあえず お焼香はするけれど。
・・・そんなの、見過ごしてはおけないですから。
(わたしって何様?って感じですね 見過ごしてはおけない、だって)
昔ながらの、たいへん判りやすい、
学者さんたちやエコマニアにとって貴重な「民族」としての形態がなくなったといって、
いま生きている民族自身が滅ぶわけではない。
現に、ここに「アイヌ」は生きています。
私達は民族でないとしたら、なんなんでしょうか?
人種ですか? 宗教ですか? それとも地域性? 国籍? 政治結社? それとも、趣味?
冗談じゃない、俺達はれっきとした「アイヌ民族」ですよ。
北海道にいなくても、アイヌはアイヌだ、
都会の喧騒に揉まれ、普段大地やカムイのことを考えていなくても、アイヌはアイヌだ、
アイヌの血が薄いからなんだってんだ、アイヌはアイヌさ、
例え血が入ってなくても、アイヌとして育てられて、立派にエカシになった人もいるのさ、事実だぜ。
もっとも、インデアンやら自然と共にの生活に焦がれた和人が、
後からいくら勉強したってアイヌにゃなれんがね。
もっとも、本当に自然と共に生きたいなら、
先住民族に寄ってくるのではなく、近くの自然の身近にある田舎に移住すればいいんだがね。
アイヌの生き方ってのはエコロジィだそうだが、いまはそうでもないのよ。
それでも、アイヌなのさ。
差別の実態も知らん和人に、
「滅んだ」などといわれても、ここにいるぞと答えましょう。
勝手に殺すな、なんの権利があってそんなことを言うのか?
そして、「新しいアイヌを考えねば」などど高慢に言う和人には、
「そりゃ結構、だがそれは、俺達アイヌの考えること、和人に言うのが許されるセリフではない」
と答えましょう。
何故なら、その和人のほざく、
「滅んでしまった」という「民族性」とやらは、和人が滅ぼしたものだから。
略奪者である和人に許される行為はただ一つ、歴史上だけでなく、今この瞬間もなお、
「アイヌ民族」を犯しつづけている事を認め、
失ってしまったものを我々が自らの力で取り戻すのを、頭を垂れて援助することだけだ。
無論、アイヌの持つ世界に共感と理解を示す和人は、共に歩んでいい。
アイヌをただの珍しい見世物「アイヌ」としてではなく、
自身の和人の友人の如く、自然に普通に接することが出きる和人ならば、是非共に歩みたいな。
だがな、和人達よ、そうなったところで、
自分に等しくアイヌに関する権利があるなどと誤解する無かれ、
我々は、現実にいまも存在するアイヌ差別によって、アイヌに関する活動をすることを邪魔されているのだよ。
巷にいるアイヌの多くは、なにも興味が無くてアイヌ踊りの輪に入らないのではなく、
アイヌであると名乗るこには、既にマイナス要素が含まれるのだ。
俺がアイヌ語を父から教わらなかったのは、何も父が面倒だからだったのではなく、
それを教える事を、多くの和人の差別の目が止めさせたのだ。
その「断絶」を、差別者である和人は保証する義務がある。
そんな中で、この差別の存在を糾弾し告発する作業を「邪魔だ」などと切り捨てるのは、
差別に怯えるアイヌには、アイヌを名乗る資格はないと言っているのと同じ事だ。
和人は、どこまでアイヌを蔑みたいのか?
小田切秀禮さん、ここは誰でも飛び入り自由です、いろいろとお話下さい。
個人的には、あなたの視点にはやや幻想が入ってる気もしますが、それはまた後ほど。
まずやらねばならないことがございますので。
さて、黒羽勇志さん、ミンタラに書きこむ前に、その前文を見ていれば、
ここに書いたほうがいいことくらい判ると思いますがね、そろそろお分かり頂けませんか?
しかも、差別の話しをよくしていたのはここですから、あのレスは、
いずれにせよここでするのが妥当だったのではと思いますがね、とぼけているようにも見えかねませんが。
いえね、以前「全然わかりません」と嘘ぶいて平然と差別をして、「おや失敬」という人間がいましたので、
「わかんないんですよ」というのには厳しく接するようにしていますし、
それにもともと、誰でも判るように懇切丁寧に書いています。
さて、あなだが一体何を言っているのかわかんないんですが、
「学校で差別がある」と言っておいて、
「アイヌは古モンゴロイドで日本人が新モンゴロイドで系統が違う」と言って、
「それは差別ではなくいじめだ」と結論付けていますが、
一体どういう事がいいたいのでしょうか?
現実に、「アイヌ」である事が理由として差別が起こっているわけですから、それは差別ですよ。
それがただのい「じるめ」であると言いきれるのは、なんですか?
「言葉を大事」にしているなら、もうちょっと言っていることに一貫性を持たせてください。
「アイヌであるという事が原因として起こっているいじめ」だとしたら、それたただの差別です。
また「アイヌ」であるという状態は、必ずしも肉体的特徴・・・つまりは新だか古だかしりませんが、
「系統の違い」というものを伴うとはかぎりません。
経験談をお聞きしますと、
どうも微妙なものを見分ける観察眼がなさそうなあなたにはわからんでしょうが、
「アイヌ」として差別を受ける場合、必ずしも、顔・もしくは肉体が、
よく言われる「アイヌ的なもの」である必要性はないのです。
もっと簡単に言えば、見た目は全くアイヌでないアイヌも、差別は遜色なく受ける、というものです。
「アイヌは古モンゴロイド・・・」などという発想から見ますと、
「アイヌ差別は人種差別であって民族差別ではない」という意味かもしれんなとも思うのですが、それはある意味間違っています。
事実アイヌ差別の多くは肉体的特徴を「ネタ」とされがちですが、
そういうものが全く無い「アイヌ」でも、受ける差別は実際あまり遜色がありません。
「アイヌ」として差別されているのは、民族そのもの(つまり、アイヌそのもの)だ、というのが事実です。
また「アイヌは古モンゴロイド」などと判ったように安易に言いきっていますが、
もともと「アイヌ民族」というものには、いろんな顔がおり、「混血によって薄くなった」人もいますが、
もともとからして「かなり和人のような顔のアイヌ」も、沢山いるのです。
また逆として、日本人の中にも、アイヌと縁も縁もないにも関わらず、
一見アイヌのような雰囲気を持った人も、ごく稀にですが存在します、
が、彼らはアイヌではありません。
本来「民族」というものは、安易な人種による枠組みではなく、
帰属意識や生活文化、宗教、地域、人種、場合によってはそれらを超越した政治的な位置などを元に、
極めていろんなものをごちゃ混ぜにして成立しているものです。
ですから、あなたのいう、「アイヌはみんな古モンゴロイド」などと言いきる野蛮な姿勢は、
「インド人はみんなアーリア人」というが如き暴論です。
あえていうなれば、「アイヌとは、人種的には古モンゴロイド顔が凄く多い民族集団」と呼ぶべき存在であります。
「古モンゴロイド的」でないアイヌは、アイヌではないのですか?
アイヌとして差別は受けないのですか?
残念ですが、両親がアイヌに貰われて育った和人の子の「アイヌ」の子供も、
血統的には一滴もアイヌの血が入っていないにも関わらず、アイヌだといわれますよ。
例え血が和人でも、幼い頃からアイヌに育てられて自身がアイヌだと思っているならば、その人はアイヌです。
また同時に、アイヌとして育てられなくとも、血を受け継いでいれば、差別されようがされまいが、
アイヌ語が話せようが話せまいが、その人はアイヌです。
それが「アイヌ」ってものだ、それが「民族」ってものですよ、民族には、いろんなものが含まれるのですよ。
アイヌ民族やインディアンのように大地と共に生きていきたい。
これからの人生、これからの人間関係、
これから何をするか。
そういうものを考えると、過去のしがらみ、
と言えば良いのでしょうか、昔のことをすべて
流してしまって、新しく1から何もかもを作って
行こうという姿勢のほうが有意義であるように
見えることがあります。
新しい世界を創造し直して、
スタートラインを引き直して、
これからを考えることに全力を注ごう
と、確かにそうしたほうが
生産的かもしれません。
黒羽勇志さんの考えは優良なのかもしれません。
それこそを差別というのでしょうけれど、
なに、大事の前に小さな犠牲はつきものですうへへ。
ミニゲームが失敗したら、リセットするのが当たり前。
小成功ならやり直して当然。間違ってセーブしちゃったら
はじめからやり直す―特にRPGと呼ばれるゲームの話。
小成功や失敗があっても、受け入れなければならないのが現実。
近ごろの少年犯罪はやはりビデオゲーム的だなと感じるこのごろ。
ひとりよがりな補足・
ゲームの内容がどうこうと言ってるのではないですよ、
ゲームのプレイスタイルを言っているのです。
『ド●ポン』においては、大量に金を失って村を奪われた
あげく手柄を横取りされてもリセットは禁止、
それが分かっていない。・・・たとえが分かりにくい?
いいんですよ、ひとりよがりなんだから。
わかんない人は置いて行きましょう。
不愉快だなー、置いていかれるのは。
リセットしたいなーうへへ。
日本人は
西欧文明に追いつけ追い越せと夢中になって成功したかも知れない。
しかし『日本民族と言う形態』は変わってしまった。 だからといって
『(それが現実でも)滅んでしまった』とは言いたくない。それでは あまりに悲しい。
せめて『形だけでも』 残しておきたい、せめて『言葉だけでも』
せめて『文化だけでも』、せめて『国土だけでも』 という人達。
そこには「妥協」と「諦め」があるけれど、その段階で『自分と自己を差別している』
それでも「どうにかなるだろう」、「誰かが何とかするだろう」、「自分の責任ではない」
という「甘え」で 今日に到ったけれど、結果として「この世の環境状況を最悪」にしてしまった。
そのように導いたものが「他の民族」あるいは「国家など他の組織」だと思えば互いに争いになる。
現在も継続中の争いに捲き込まれて多くの大切な仲間や文化を失った人類。
『神佛』を知らず、それを配下にしようとする文明。それは まさに敵対行為です。
私は『人類の敵は人類』と教えられました。『人類は万類の敵』とも。
人類は本当の敵がどこに在るか、本当の味方とは何かを真剣に考えるべきです。
先ずは
自分の心の痛みを知って、そのことを考察し、原因を明らめ
、自分なりの打開策を見出して、それを持ち寄って論議する。
それが責任ある態度であり「大人というもの」でしょう。
『チャランケ』とは そういうものだと思っています。
今日では忘れ去られた「ご先祖の誠心誠意の生きざま、暮らし方」が あったに違いない。
でも
そう遠い昔のことでも ありません。誰でも生まれたときは純真無垢のまま。
泣いても笑っても真実真の表現。誰に迷惑をかける でもない。
親は喜んで世話をする。それは親子が他人ではないから。
そこに血のつながりが無くても子供は可愛い。大人は可愛がる。
そのような
親、大人同士は互いに尊敬し合う。 美しいものを見て育てば大人になれる。
誰でも「そのように生まれついているのだ」と思っています。
http://www.f3.dion.ne.jp/~sinrei/index.htm