昔、○○メーリングリスト、という所で、全く似たような傾向の話をした。
ちにょうど、ストネコ氏の投稿を見て、読み返してみた。
あまりにも似たような話なので、
自分の書いたものならば、その権利が帰属するのは自分と考えるていいと思うので、
自分の投稿部分だけひっぱって来ようと思う。
*:この前の投稿。
話としては、車椅子の人がいて、それを自主的に助けた青年がいたという話がある。
むしろそれは当然のことだけども、しばらくアメリカに住んでいる人が、
アメリカにしばらく住んでいると、こういった光景に疑問が出で来ることがある、
といったような投稿をした。
以下はその投稿への私の返信である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
まぁよくある話しだ。
20年以上先住民族やっていると、また違った視点が生まれたりする。
俺が思ったシナリオはこうだ。
1:
車イスが不便なのは確かに事実で、それは社会の悪意でも、
善意の不足でもなく単なる事実だと思うが、車イスの人間は、
不便なら不便なりに、車イスライフを好きに生きる権利がある。
2:
困っている車イスの人が助けて欲しければ、助けるのは当然だろう。
特に自分のフトコロに被害がない程度の話しならなおさらの話しだ。
問題は、その人が本当に助けて欲しいかである。
3:
人の迷惑にならない程度であれば、その人にはその人の好きなように、
回り道をしたり、だらけたり、不便さを味わう権利がある。
もっとも、そんなものいらんから助けてというなら助ければいいし、
脱輪か何かして道をふさいでいたのなら、まぁ勝手に助けてもいいだろう。
4:
困っている人が助けて欲しいなら、助けるのは当然だ。
そいつはきっといい事をしたんだろう。
しかし、いいことをしたと思っているそいつは、
果たして本当の事を語っているだろうか?
本当は助けを必要としていない人に、勝手に手助けをして、
いい事をしたと思っているのではなかろうか?
無論、言ってる事が全て本当なら問題はないが、
善行をする人は、得てして自分を過剰に英雄にしやすい。
たしかに、最初はいらんと思っていた人だって、
結果として助かったと思っているかもしれんし、
助ける事自体は別に悪い事ではない。
しかし、「進んで介助」に回る前に、「助けがいりますか」と一言欲しい。
しているならいい。
だが、ここはボランティアな方々が、以外と見落としがちな部分である事は確かだ。
目が見えないからといって、普段歩きなれた横断歩道を、
いきなり何の予告もなく手を取られて渡らせられた時の、
感謝せねばならないという無力感。
俺は視覚障害がある訳ではないが、何故かその気持ちはよく解る。
最も、その点を十分に考慮されているのなら、何の問題もないのだが。
やはり「いい事をして感謝された」話しを、どうも素直に信用出来ない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
まぁ、当然のことだ。
この俺の答えは、その投稿者の意図通りの答えだったらしい。
この視点からすると、そこのダダッ子がいうところの。
>>見知らぬ人の行為(好意)は、身障者にとっては迷惑以外の何物でもなかったという事になるわけです。
>再び同じような状況にでくわしたとき、その「見知らぬ人」はどうすべきか?
>やはり同じ事をするんでしょうね。
>たとえ罵声をあびせられたとしても、仕方ないわな。
これは最悪だ、この発想こそ、ただの善意のおしつけだ。
なんという偽善者もいたものか!
どんな「いいこと」であれ、その行為に移る前に一言、
「お手伝いしましょうか?」と、何故本人に聞かん?
おまえ、「障害者」を人間扱いしてないだろう?
たとえ「身に憶え」がないとしても、いま、人間扱いしていなかった。
全ての「障害者」が、自分の身を守れないほど脆弱だと誰が決めた?
自分の意志を表明出来ないほど、意志が弱いと、誰が決めた?
現に、平気で外をうろついているのに?
そいつにとっては、おまえより通りなれた道かもしれんぞ。
もし困っているとしてもだ、
よほど周囲に迷惑かけていないか、よほどせっぱつまった危険がないかぎり、
全ての人間には、自分の力で「こまった状況」を存分に生きる権利がある。
全ての患者に、医者の延命治療を拒否して死を選ぶ権利があるように、
自分の生き方を、自分で決める権利がある。
よほど周囲の人に迷惑をかけないかぎり、よっぽど差し迫った危険にさらされていない限りな。
身勝手に手助けする前に、一言、聞け。
介助なり手助けなり、相手のある話なんだぞ、それが一方通行でどうする?
障害者も、おまえと同じ人間なんだぞ、一体何考えてやがるんだ。
またお邪魔します(もう何度出入りしている事か・・)
さて、今回の書きこみは「和人=殺戮者」とのEsaman氏の言に対して
今現在の私の捉え方と言うか、考えを述べようと思ってます。
「今更何を言うのか?」と思われる人も多いとは思いますが、最近になって
色々と見えて来た物も有ります。まだ理解が不十分な点は有ろうかと思いますが
その点につきましては後ほど指摘などをして頂ければ幸いです。
そもそも差別とは何だろう?
差別って、結局は被差別者の存在を否定しようとしてる行為
(過去の同化政策はもちろん現在も続いている差別も含めて)
なのではないか?。そうだとするならば、私が過去に頑強に否定しようとしていた
「和人=殺戮者=存在が許されない者」と、同じではないか?
片方は加害者として、もう片方は被害者として。
そうして私は殺戮者という言を拒否し、この場を去る事が出来るが、
被差別者は拒否のしようも無く、ただ差別を受けている(逃げられない避けられない)。
状況に毎日毎日途切れる事無く置かれていると言う事なのか。
差別者とは何だろう?
たまたま和人として産まれただけで、何故に差別者と呼ばれてしまうのだろう?
確かに被差別者側から見れば集団として和人は差別者なのだろう。
「自分は差別などしない。した事も無ければする気も無い」と、いくら言った所で
所詮、自分は決して差別される事が無い高見に居て、いつ何時、自分達の都合で
差別を始めるかも知れない和人など、被差別者側から見たら、
今現在、差別行為をしている者達とさほどの変わりは無い存在に違いない。
「殺戮者=本来ならば存在を許されない者」で有る事を自覚し、その立場にならなければ
「被差別者=存在を否定されている人達」の事など解り様も無い。中途半端に
知ったつもり解っているつもりで差別を語る者なぞ片腹痛いと言う事か。
「差別を語る語らないに係らず和人で有るをもって殺戮者集団の一員」
と定義されても仕方が無い現実が有る。と言う事なのですね。
今まで、このサイトには何度も出入りしていますが私は、かなりの強心臓なので
特に「勇気」など必要としませんでした。が、今回に限って言えば
少しばかりの勇気を持って書き込んでいます。正直言いまして、
私の過去ログを読み返して見ますと、実に無神経な部分が目に付きます。
まことに赤面ものです。さぞかしEsaman氏を始め、心有る人達は
憤慨した場面も有るのでしょうね。
上記の文章のほとんどは過去にEsaman氏が、何度も何度も私に
言い続けてきた事です。今、しみじみと自分の至らなさ、自覚の無さを反省しております。
よくぞまぁ、私のような頑固親父に多くの人達が丁寧に返事をして下さったのかと
むしろ感心すると同時に、改めて感謝致します。有難う御座いました。
Esamanさん龍淑さんをはじめ他の皆様方、
今までの数々の非礼、真に申し訳有りませんでした。深くお詫びを申し上げます。
更に、ここでの経験を私個人が理解した。で終わらせるのは
せっかく皆さんが教えて下さった事を無駄にしてしまうような気がします。
もし「やって見ろ」と言われるのでしたら
「アイヌ民族の存在を知ってもらうHP」でも作ろうかと考えております。
もちろん私はまだまだ差別問題をテーマに出来るほどの者では無い事を
承知しております。
以上、私の書き込みに対して御意見などが御座いましたら忌憚無くお願い致します。
セコイ私だけど、もう一言。
無邪気な大人がつい発してしまう差別の言葉。悪意をもってする奴もいる。
この話相手がまだ何も知らない子供であったりすることが多い。
これが差別が根強く残る最大の原因ではないか。
私も子供時代、全く知らない大人からよく聞かされたもんだ。
時には親からもさらっと聞かされたこともある。
これって大変な問題じゃないか?
その大人個人については無邪気でたいした問題ではないのかもしれないが、
その些細な差別が大変な差別を生み出す基じゃないのか?
やはり私達はこの些細な差別にも十分な注意を払っておかねばならないのでは?
言ってしまったことの言い訳はしたくないけど、
やはりちいさな差別でも人権問題にかかわるものは見逃すわけにはいかない。
ましてやあからさまな醜い差別は憎むべきだろう。(軽蔑とはちがうのかな?)
(偽善と言われようと、うぬぼれと言われようと)
>ストネコさん
>「見知らぬ人」は投稿者に近づく電動車(おそらくセニアカー)から守るべく、
>それこそ『純粋な親切心』によってそういう行動に出た。
>しかし、当人にとっては「マヒした側を触られただけで動けなくなり恐い」ということで、
>見知らぬ人の行為(好意)は、身障者にとっては迷惑以外の何物でもなかったという事になるわけです。
文面だけの状況判断から私なりの見解。
たとえその身障者にとって迷惑以外の何物でもなかたとしても、
再び同じような状況にでくわしたとき、その「見知らぬ人」はどうすべきか?
やはり同じ事をするんでしょうね。
たとえ罵声をあびせられたとしても、仕方ないわな。
タイトル:「親切」が身障者にはつらいことも
身障者である投稿者が、歩道を歩いていた時に突然後ろから見知らぬ人に腕を引っ張られたという出来事。
「見知らぬ人」は投稿者に近づく電動車(おそらくセニアカー)から守るべく、それこそ『純粋な親切心』によってそういう行動に出た。しかし、当人にとっては「マヒした側を触られただけで動けなくなり恐い」ということで、見知らぬ人の行為(好意)は、身障者にとっては迷惑以外の何物でもなかったという事になるわけです。
私も仕事上で似たような経験(もちろん、今回の話における見知らぬ人と同じ立場)があるのですが、この事例を差別に置き換えて考えてみると、披差別者の視点が分かる・・・ような気がするんだけど、違うのかな?
ところで私の最近の記事を読んで「いい子ぶってる」とか「Esamanさんの機嫌を取っている」と思っているロムラーもおられるかもしれませんね。
言っときますけど私は決して披差別者を『理解』しているわけではないし、同時に差別者としての視点から抜け出していない。生まれ育った立場によって育まれた観点を、そうたやすく変えることなんて出来やしない。
ただ、日常生活(仕事、家族など)において自分がその立場に置かれたら?と想像して、思ったことや自分が経験したことをそのまま発言しているだけです。
私のサイトに差別問題を取り上げたら、という意見もありましたが、それは出来ません。今の状態でそれをやったら、それこそ新聞投書と同じような事態を引き起こすことになるでしょう。
>私は、差別をする人間には、本当に善良な人間もいれば、悪気をもってしている人間もいる。
>時には、本当に相手にとっていいことだと思って、心からの善意で、差別かましている人間もい>る。
>そこまで、我々の巻き込まれている、差別構造というのは深刻なのだ。
なんとなく判ったような気がするが、この心からの善意で差別かましている人間って
ひょっとしたらあなた自身のことかな?
あなたたちの気持ちがほんの少しわかったような気がする。
こんな解釈をする私ってやっぱり「オオバカヤロー」なのか。
だれかが言ってたけど、もっとのたうちまわるほど苦しまねばならないのか・・・。
さまざまな集いに集いたる人
加わらぬ者を心の隅にて
見下したり
活動に携わるゆえ
我ら外の者よりは優る
とうぬぼれり
なるほど、あなたがおっしゃりたいことはよく判った(つもり)。
私みたいな人間が最悪の部類なんですね。
私が今まで言ってきたことが、みんな私自身にあてはまることなんですね。
もういちど考え直してみましょう(自分なりに)。
私は、差別をする人間には、本当に善良な人間もいれば、悪気をもってしている人間もいる。
時には、本当に相手にとっていいことだと思って、心からの善意で、差別かましている人間もいる。
そこまで、我々の巻き込まれている、差別構造というのは深刻なのだ。
(アイヌは、大小あらゆる差別の中でも特級クラスのの民族差別の被差別者として、和人は差別者として)
だから、差別者側・多数者側の人間は、
いかに人格が優れているとか、いいこころをもっているかとは殆ど関係なく、
差別を『してしまう』のだ。
悪気をもって差別している奴らは、ある意味まだ軽傷、
自分が積極的に悪いことしていると、やはり何処かで自覚しているから。
もっとも、沢山いると本当に物理的に殺しにかかることがあるので、問題だが。
無邪気な発送で差別『してしまった』人々も、まだ十分望みが有る。
ただ顔がそっちに向いていないだけで、声を上げられて気が付く勇気があれば、すぐなおる。
しかし、数が多いので、それが『普通で当然』と思っているのし、何か変わったことが起きると、
『相手が特殊だから』という発想をしたがるので、なかなか気が付けない。
最悪なのは、自分は差別者でない信じるために、差別のない社会を、というポーズをとりたいヤツ。
本当は、ただ自分達も構造的に差別者側に立っていて、逃げられないという事実から逃避するために、
よりわかりやすく、幼稚な認識で批判が可能で、程度の低くみる事の可能な人々(前出のタイプ)、
を『よりダメなヤツラ』とくくることによって、自分達はそうではない、という自覚を得ようとするハイエナ。
セコイったらありゃしない。
その行為自体が既に差別である事に、どうして気が付けないのだろうか?
>差別をするような人間が素晴らしい心を持っているだって? いい大人が?。
私は、こんなことは言っていない。
差別してしまう事には、素晴らしい心を持っているかは関係がない、と言っている。
君は、くだらん言い換えして、何をまたあらたにくくりたいのかね?
それは、自分の立場からの逃げでないのかね?
『自分もそうかもしれない』と本気で思っている相手の愚考を、安易に軽蔑できるとは思えない。
だから、私はストネコ氏の無邪気な発言を批判してボロクソ言っても、軽蔑はしなかった。
それは、明日の私の姿、昨日の私の姿だから。
民族差別と学歴差別は、同列に扱えるほどのものではないし、学歴差別はむしろされる側なんだが、
ああいう『無邪気な』差別や断定は、私も日常沢山している。
それを、コタマような第一級の変質者と一緒にしないでほしいものだ、あれは差別の話というよりは、
一般的な差別者からは想像もつかないようなサイコストーカーの変態趣味と重篤な犯罪が、
差別構造によって社会的に容認されてしまった事件、と考えるべきである。
さすがに、あそこまで私は熱狂的に変質行為は出来ないし、そんなヤツがそうそういるとは思えないし、
いましている話とは根本的に違う、ありゃあ、差別者以前に異常者だ。
あんな優秀な変質者と、アイヌに絡んでくるただの酔っ払いとかチンピラを一緒にしては、いくらなんでもカワイソウだ。
あんなの引き合いに出して煙幕につかわないと、自分の軽蔑の根拠も出てこんとは、ひどいものだ。
無邪気であるという事は、『いい大人』であるからなくなる、という問題ではない。
それは、問題に対して心が向いていないから出切ることであって、大人だって老人だってする。
誰だって、よくしらないことに関して、無邪気に無責任にバカな断定をする。
本当に問題と向き合えれば、無邪気な態度は途端に消えて無くなる。
そうなったら、くだらん軽蔑などしているひまは無いはずだ。
問題を軽視しているから、無邪気に無神経になれるのだよ。
軽蔑と軽視、「相手にしない」という点では一緒。
つうか、軽蔑のほうが「よぶんな事」をしているだけ、よりダメ。
というか、ヘタに大人なほうが、全く知らない未知の世界に対する勇気が無いから、
『自分のしっている世界』に固執して、もっと手ひどい『無邪気な暴虐』をやらかす。
むしろ、過去のストネコ氏の発言は、『極めて一般的ないい大人』らしいといえた。
子供は、自分のしらない世界に、もっと謙虚で真摯なものだ。
というか、大人は自分が、自分のしらない世界と接触していることに、気が付く力がにぶくなっている。
そして、異質に出会ったとき、自分を守るために、
『相手が特殊』であるという事にして閉じ込めて、必死に逃げようとする。
いったい、何におびえているのだろうね?
誰かがいったように、自覚するだけなら全然ダダなのに、それすらしない。
差別を語るためにまた差別して、そいつは一体何物になれるのだろう?
どうも「自分はマシ」という呪文を繰り返しているように見える。
セコイもんだ。
私が「差別をする奴は知性が低く自己中心的だ」って言ってるのは
あからさまに人を差別的言動でもって攻撃する人のことを言ってるわけで
あなたがよく口にする、いわゆる「オオバカヤロー」ってことです。
一見善良な人が悪げもなく無意識に差別することがあることぐらい十二分に認識しています。
でも無意識の差別ってのも相手にとっては結構ひどい差別だけどね。
全く無邪気な幼児が言ってるならともかく、いい大人がそれをやってるのは、
善良でも無邪気でもないと思いますけど。
>どんなに立派な教育者だって、差別をする。
>どんなに素晴らしい心をもった人も、差別をする。
>気が付く力がないから、そういう視点をしらないから、差別される立場ではないから。
>だから、気が付けない。
なにを言ってるんでしょうか?
今の世の中、差別構造を知らないような教育者がりっぱであるはずが無い。
差別をするような人間が素晴らしい心を持っているだって? いい大人が?。
何の過失も無い相手に対して、その心を踏みにじり容赦なく攻撃をしかけるような人間を軽蔑してどこが悪い?
前にも言いましたが差別と軽蔑は違いますよ。
今の総理大臣(差別とは趣が違うけど)だって、児玉教授だって軽蔑に値するんじゃない?
軽蔑という攻撃によってその人が真に自覚したとき、逆に尊敬に変わるってことも十分あるんじゃない?
>うながすって事は、あなたは「より意識の高い人」なんだよね?
>でも、俺は君のいままでの書き込みから、
>そういった意識の高さ、理解しようとする意思はあまり感じたことがないな。
相手に自覚を求めるってことは、自分も今以上に自覚しなけりゃいけないってことにつながるんですよ。
だからいつも「自分を含めて」って言ってるでしょ。
自覚が早い人もいれば遅い人もいるし、出来ないもいる人し、しない人もいるわけでしょ。
あなたから見れば私は全然自覚できない部類に入るんでしょうね。
それはそれでよし。別にあなたのお気に入りになろうとしてるわけでもないし。
自分の感性を信じるしかないもんね。
オカチャンさんよ、非常に残念なことだが、あなたの行っていることがわくわからない。
>人を差別する人はえてして知性(知能ではない)が低く自己中心的であり、
>ある一面で大変な弱み(その人の内面で)を持っていることが多いような気がします。
>私は、あからさまに差別言動をする人を軽蔑します。
>無意識の差別をする人(自分もそうかも知れない)には自覚を促します。
これって、「差別をする奴は知性が低く自己中心的だ」と書いてあるように見えるのだが、
俺は何かを読み違えているのかな?
それ以前に、知性の高低って、そそもそどういうものなのかな?
俺は、その言葉や発想から、とんでもない差別のにおいを感じるのだが。
自覚をうながすといっても、どううながすの?
うながすって事は、あなたは「より意識の高い人」なんだよね?
でも、俺は君のいままでの書き込みから、
そういった意識の高さ、理解しようとする意思はあまり感じたことがないな。
むしろ、その逆。
だれでもしてしまう差別を、たまたま「してしまった」人間を軽蔑したりして、
なにかをくくることで、楽して自分が意識が高いことにしてしまおうというセコイ意思を感じる。
本当に傷つく差別をされたら、「軽蔑」などという「よぶんなこと」をする暇もないのに。
差別者を軽蔑して、何になる?
そして、また自分も差別をするのか?
向上心は、向上したくても出来ない、する気もない人に対する侮蔑と一体である。
差別するものを軽蔑して、それで?
俺は以前ストネコが随分軽率で無邪気なことを言っていたとき、
こいつははバカだと思っていたし、事実公言していたが、軽蔑はしていなかった。
知性が低いとも、内面に問題を抱えているとも思っていなかった。
むしろ、その逆。
あまり内面に暗い問題がないから、無邪気に振舞えるのだろう、悪気はないが、足を踏んでいるのだろう。
それは、確かにマヌケでオバカという意味ではどうしようもないが、だからといって、
「あのブドウはすっぱい、だから食べてもムダ」的に「軽蔑」しておしまいというのは、
ただの負け惜しみ、自分を護るために相手を侮蔑する、セコイ壁作りだと思った。
だから、「わざわざ」文句を言った。
軽蔑して合理化ではなく、不幸率で「やってもムダ」と言われるバカな事をした。
それが彼の心に届いたのかどうかはまったく分からないが、彼はいまは、随分と変わった。
差別をする人間にも、自分が差別をしていることに気がつく力があるのだ。
それに必要なのは、知性でも同情心でもない、まして論ずる力でも、人を関心させる奇麗事でもない。
ちょっと、足元からの声に耳を傾ける勇気と心があればいい。
差別を人間は、内面に問題を抱えている?
なにを言っている?
むしろ、ストネコ氏のような「無邪気な」事をする人間は、ある意味健全だ、差別しててもな。
内面に問題があるのは、むしろ、わかったような事を口にして、人を感心させる奇麗事を言って、
二言目には「みなさん意見を」といい、自分の話しが出でこないような奴だ。
いったい、何をいい子ぶっているのか?
知らずに被差別者を踏んでとおる奴よりは、被差別者の存在に気が付いて、
奇麗事をかさに来て、陰湿にいじくりまわしに来る連中の方が、よほど心にセコくて暗い闇がある。
あなたは、一体何をわかっているのだろう?
>オカチャンさんよ、差別者は知性に欠けるとのことですが、知性に欠けているのはあなたでは?
確かに私は知性が低いと思いますよ。皆さんのように言葉をよく知りませんから。
ただ知性が低いひとが差別をするとはいってませんし、
大学教授であろうと、総理大臣であろうと、そういうことをする人を、知性が高いとは思いません。
>人間は、そもそも皆平等にはけっして産まれないぞ、そんな事もわからんか?
わかってますよ。だから平等でなければならないわけでしょ?。
「部落」という言葉、確かに地方によって温度差があるような気がします。
確かに、関西のほうですと、関東に比べ圧倒的に差別も酷く、「腫れ物感」は強いように思いますが、
一方山間部や東北や北海道では、自分達の住んでいる土地を、平気で「部落」と呼んだりしているのはよくある事ですね。
その場合の「部落」ってのは、殆ど「集落」という意味の場合もあり、よくわかりません。
いまでも、アイヌの多く住んでいる地域は、アイヌ部落と呼ばれている場合があります。
この言葉は、結構アイヌも平気で使う言葉です。
北海道や東北には関西に見られる部落差別はない、といわれがちですが、
どうも実際はそうでもないよういです。
しかし、関西ほど明確で露骨でないのも事実のようです。
ストネコ氏の友人が「田舎モノ差別」の対象として、「だから部落の人は」と言った場合も十分考えられます。
もしそうだとすると、それは深刻さからいえば、いわゆる部落差別とは一線を隔ものです。
差別は差別ですが。
従って、ストネコ氏が、開放同盟の人々が訴える「部落差別をめぐる問題」の当事者かどうかは、はっきりいって私にはわかりません。
ですが、アイヌの子にも自身がアイヌで有る事を知らなかったり、
差別に本当に合ったことがなかったり、鈍感さ故に、おもいっきり差別されていても、
気が付かなかったりする事例がある事からも、予断は許されぬ問題かと思います。
というか、その「鈍感さ」こそがおおいなる問題なのです。
徹底した差別というのは、被害者にまでも、差別をあたりまえの日常の一部として、
慣れさせてしまう恐ろしさがあります。
そして、私はここで何度も言っていますが、
差別というのは既に構造として社会に深く組みこまれているものであり、
人格者であるとか、知性があるとか、やさしい心持っているとか、そういったものとは関係無く、
「ごく自然」に、「やってしまう」ものになっている事そのものが問題であるのです。
どんなに立派な教育者だって、差別をする。
どんなに素晴らしい心をもった人も、差別をする。
気が付く力がないから、そういう視点をしらないから、差別される立場ではないから。
だから、気が付けない。
これは、知性とか能力の問題ではありません。
オカチャンさんよ、差別者は知性に欠けるとのことですが、知性に欠けているのはあなたでは?
ならば、暫く前のストネコ氏は、確かに手ひどい差別者でしたが、
彼は知性に欠けていたのですか?
人格にそんなに問題があったのでしょうか?
どちらでもないと思います。
ストネコ氏は、差別を平気でしていた頃も、それに気がつき始めたときも、
別に知性も道徳も、いまのストネコ氏と大差ないと思います。
ただ、昔はちょっと無神経だっただけ。
差別者に知性がないなら、自身の差別に気が付いた人は、その時点で知性を持った事になるのですか?
そんなわけは無いでしょうに、それはただ事実に気が付いただけで、対した事ではない。
差別をするのは知性がないからではなく、差別をしてもなんとも思わない立場にいるから、
平然と人を踏みつけて、何も反撃されない、死体も見ない、安全地帯にいるからだ。
どんなに手ひどい差別者にも、自身の力で、自分のしている事に気が付く力がある。
だが勇気が無い、セコイ、だから気が付けない、気が付きたくない。
ストネコ氏は得に知性が優れていたわけでも劣っていたわけでもなく、
ただ自分とは立場の違う視点に触れたとき、自身がどう写っているか気が付く勇気と心があっただけ。
それは、知性の程度などというバカげたものではない。
そもそも、そういう発想自体が差別的だ。
まさか、自分は差別者でない、「知性ある」存在だとでも?
人間は、そもそも皆平等にはけっして産まれないぞ、そんな事もわからんか?
生まれでたいして自分が困ってないやつ、困っている事実から目をそらしたいヤツは、
産まれながらにして平等だという事にしといたほうが、楽なのは解るが。
そういうの、アイヌにもいるからなぁ。
>ストネコさんへ
大変難しい問題を投げかけられましたが、私なりに一言レスします。
>しかしなんだ。私が『部落民の子』だったとしたら、無意識の差別をしながらも、実は自身が差別され
>ているという事にまったく気がついていないという、単なる大馬鹿者になってしまうではないか。
これは、あなたにとっては今後の人生観を変えてしまうような大事件なのかもしれませんね。
あなたは今後、人権問題に関しては真面目に考えざるを得ないでしょう。
部落差別の起因についてはヤフーなんかで検索すればわかるでしょうし、親に直接聞くのもいいでしょう。
自分で調べるのがいいと思います。
それからのことは、またここで話し合えばいいんじゃないでしょうか。
>私は披差別者ではない、普通の人だ・・・と思いたい気持ちもあるのだが・・・自分が何物か分からな
>くなってきたよ。
あなたは本掲示板にて過去の自身の態度を真摯に反省し謝罪をなさっていますが、
これはまだ、あなたの中に差別心が根強く残っている証拠といえるでしょう。
この世の中、全て「普通の人=平等」ですよ。
尊敬、軽蔑(差別と軽蔑は違う)、裕福、貧困、優秀、愚鈍、健常者、非健常者の違いは有りますが、
すべて価値観、特性の違いにすぎず、何人も平等であります。
人を差別する人はえてして知性(知能ではない)が低く自己中心的であり、
ある一面で大変な弱み(その人の内面で)を持っていることが多いような気がします。
私は、あからさまに差別言動をする人を軽蔑します。
無意識の差別をする人(自分もそうかも知れない)には自覚を促します。
ストネコさん、あなたがたとえ『部落民の子』であっても何にも悲観することはありません。
(何にも悲観する事実、根拠は無いのですから)
ただ、今までの自分については人として大いに反省すべきでしょう。
あなたは社会、政治等の矛盾、非条理に対して真面目に考え、告発をなさっています。
人権問題にもいっそうの理解をもってそうされるように期待します。
昨日の私の記事については、少々唐突な感じになってしまったので、補足の書き込みをします。
これは母親の出身地に由来することなので、まずはそちらの説明から・・・
母の実家は福島県会津地方、新潟街道(国道49号)から横に入り、いくつかの集落(当地でいう部落)を通過した場所にある、たんぼに囲まれた農家の集落。隣村との堺に位置する。関係ないと思うが、ばあちゃんの実家は只見川という昔は橋がなかった大河の向こうの山沿いにある、それこそ寒村という名が相応しい所。一度だけ泊まった事があるが、それこそ御先祖様(幽霊)が出てきそうで恐かった(というか実際夜中に何かが近づいて立っている気配を感じて死ぬほど恐かった)
前回の記事の通り、私にとって『部落』とは『集落』という意味の単語にすぎなかった。それが少し違うのかと感じたのは、20年ほど前、群馬県出身の友人とテレビニュースを見ていた時のこと。画面で農家の人が何か言っていたら、友人がこう言った「これだから部落は」と。
その瞬間、少々違和感を感じた。もし農家の発言に対して反発するのならば「これだから農家は」と言うはず。なぜ「部落」という言葉がそこで出てくるのだ?しかし、画面に映っている景色は母親の実家がある『部落』とまったく同じ、いわば私の故郷そのものの景色。なんかヘンな感じもするが、きっと彼は農家という意味で部落と言ったのだろう。だって確かに『部落』だから。気にする事ではない。
それからだいぶ後になって、とある話を耳にした。母親の実家がある町出身で、今は亡き某大物歌手が、デビュー当時は『部落出身』ということで、地元でリサイタルを出来なかったという話。
これには少々驚いた。だって、みんな部落。それに部落差別というものは今では関西だけの話で、当地では遥か昔の出来事であるはずの部落差別が、母が若かった頃に存在していたということになる。もし事実なら『部落』とは一体なんなんだと思った。
でも他人事。なにしろ自分自身は差別をした憶えはないし差別された憶えもない。あくまでも過ぎ去った昔の話と結論づけた。
ところが最近のこと、とある某大手掲示板(そう、あそこです)に入り込んだ時、「群馬県某市における部落差別」といった記事をみつけた。ふーん、現在の部落差別って関西だけじゃなかったのか・・・あ!
その時、20年近く前の群馬県出身の友人の発言を思い出した。あの時彼が言っていた『部落』とは私にとっての部落ではなく、差別に基づくそういう意味での『部落』だったのか?
あいつはとってもいいヤツだ。今は数年に一度しか会わないが会えば毎日顔をあわせているようにバカ話をして酒を酌み交わす間柄だ。あいつに差別心なんかあるはずが・・・
私は、世に言う、そういう意味での『部落』の子なのか?来年には四十路突入なんだけど、今だかつて差別された記憶なんて皆無だよ。単なる思い過ごし、勘違いなのかもしれん。でも私は今まで十数回も引っ越ししているから、その地の本当の姿を見ていなかったのかも知れない。たまたま差別の場面に出くわさなかっただけなのかも知れない。
あんがい会社はしっかりと私の血筋を調べて、給与とかに影響していたりしてね。考えてみりゃ、なんだか社内資格の昇格が遅いしぃ。もっとも私は上司にさんざん反発した『前科』があるからそのせいだろうけどね。
しかしなんだ。私が『部落民の子』だったとしたら、無意識の差別をしながらも、実は自身が差別されているという事にまったく気がついていないという、単なる大馬鹿者になってしまうではないか。いくらなんでも、それは嫌だ。
私は披差別者ではない、普通の人だ・・・と思いたい気持ちもあるのだが・・・自分が何物か分からなくなってきたよ。
まいったね。あはは・・・
http://moon.gaiax.com/home/ritsurinkan
実を言うとストネコは『部落民』の血筋であったりします。
もっとも『部落』という言葉は、当地においては『集落』
という意味で日常あたりまえに使用されているんだけど。
特に会津(母は会津出身)においては、市街地から抜けた
道路の案内板に「**部落入り口」と、そこかしこに
記載されている。
他県においてはどうか知らないけど、当地においては
単なる案内板だ。それを見て特に考えることはない。
なぜなら『部落』とは自分が住んでいる(または生まれた)
地区を指す行政区域の名称にすぎないからね。
しかし同じ『部落』という言葉も、地域が違ければ
特に西に行けば行くほど、その意味が違うようだ。
同じ『日本人』なのに、どうして解釈が違うのだ?
なぜ差別されるのだ?
誰か分かりやすく答えてよ。
まあ、我々東北人が何も知らない田舎者ゆえの認識不足だと
言われれば、返す言葉はないけれど。
http://moon.gaiax.com/home/ritsurinkan
おれはアイヌとして、人間としてまともに扱われることを求める。
その「まともな扱い」とは・・・・
「日本人の亜種のアイヌ」でも、
「自然と共に生きる絶滅危惧種のアイヌ」でも、
「太鼓の昔からの伝統を継承する偉大なアイヌ」でも、
「人類学上・遺伝学上の貴重な資料のアイヌ」でも、
「自分達に代わってエコエコな行き方をしてくれる、ありがたい都合の良いアイヌ」でも、
「頭の悪いマジョリティの免罪の為に、意味不明の義務を背負わされるアイヌ」でも、
「アイヌの世界を紹介する義務を、アイヌであるというだけで背負わされるアイヌ」でも、
「珍獣アイヌ」でもなく、
「ただのアイヌ」として、アイヌであるという事によって何も義務を背負わされることなく、
アイヌであるというだけで、差別の目、奇異の目、無責任な好奇心の目で見られることなく、
「ただのアイヌ」として、
アイヌであるだけの、普通の人間としてあつかわれるとを求める。
私は、ただアイヌであるというだけで、差別されないことはもとより、
アイヌであるというだけで、好奇の目にはさらされない権利があり、
また物見高い和人に、意味不明の説明義務を背負わされない権利もある。
が、現実には、アイヌといっただけで、とんでもないことになる。
それは、積極的にバカにする差別だけでない。
「アイヌってい素晴らしい」という持ち上げ差別もあるし、
何もしらない、理解も出来ないと言うのも、既に私が自然にアイヌである事への障害である。
中には、そんなアイヌを取り巻く状況を、アイヌ自身の責任にする為に執拗に差別の原因を、
根拠の無い義務を背負わすことによって成し遂げようと言うストーカーまで出る始末だ。
何故は私や多くのアイヌは、もっと気軽アイヌになれないのか?
それが許されない状況をつくっているのは、「一部の」得にアイヌを適ししている和人ではなく、
マジョリティであるところの、無意識な和人、アイヌが何かもしらない、
ただの和人の意識の低さが、構造的に差別を作り出していることを告発する。
だが、私の求めるのは謝罪でも賠償でもない。
むしろ、もうそんなウワベものでは誤魔化されない。
いま、あなたがしている無意識の差別と偏見を止めること。
アイヌをアイヌの世界に閉じ込め、自分とは関係が無いとくくってしまうこと。
そして、それこそが最大級の徹底差別・存在自体の否定である事に気が付くことを求める。
そしてこれは、これを見て、人事だとおもっているおまえに言っているのだ。
俺も言葉の由来は知らないけども、境遇はかなり似通っていることはしっている。
だが、部落出身であるということは、異民族という事はちょっと異なるから、
部落出身者に聞いてみんとわからんかもしれん。
でも、
「日本人として平等に扱え」と、
「日本国内にいる異民族として認め、異民族である事の自由を認めた上で、人間として平等に扱え」
とは、ちょっと文脈がちがうかもしれんが、求めている権利の根本は一緒だと思う。
何民族であれ、何地域であれ、何部落の出身であれ、人間としては平等であるべきだ。
だがそれは、「違いを無視し、なにもなかったかのように振舞う」という事とはちよっちちがう。
むしろ、違いを認識することから、平等であるための調整と告発は出発する。
何故かといえば、そもそも人間は産まれながらにして平等ではないから。
そして、部落出身者とアイヌは、共に日本人よりも辛い立場にいる。
そのことに対する「開放を求める」という点では、両者とも求めるものはおなじ。
部落の人は、おそらく同じ人間として(彼らは、多くの日本人と、言葉も人種も民族もなにも違わない)、
アイヌは、同化して日本に媚びるアイヌではなく、日本に侵略されて奪われてしまってはいるが、
独自の価値観を持つアイヌ民族の一員として、同じ人間として扱かわれる社会を求めている。
もっとも、そういった差別的な境遇にない同胞も時にはいるが(アイヌの場合、得に文化という巧みな逃げ水が有る)、
けっして多くは無いし、
そういう「負い目や暗さ、いわれない差別による心の傷」などのない人達を持ち上げて、
「ニンゲンは平等だ」とやらかすのは、ただの差別の上塗りなのだが(文化のみ振興は、この危険高し)。
http://www.alles.or.jp/~tariq/
それはともかく・・・
はたと思ったことがあります。
よく『同和問題』という言葉を見受けるんですけど
『同和』という言葉って、ようするに「一緒になろう」
という意味なんですかね?
だとすると『同化』と同じでは?
『同和』という言葉の由来がわからないので、あくまでも
個人的推憶ですけど・・・
つうか、この場合、あの書きこみをした当人が本当に、
「宗教に直接関わっているであろう者」かどうかが問題なのでは?
また、偏見と差別の原因となるかどうかは、そう呼ばれた連中自身が一番発言権があると思うが、
いままでのを見るに、どうも独り言ばかりのようだから、余り期待できんね。
個人的には、ああいう一人言をさも解ったかのように書きこめてしまうやつなんざ、
どうにでもなれと思うがね。
そもそも宗教屋なり宗教家なり、人種や民族と違って、差別や偏見がイヤなら止められるわけだし。
それ以前に、「ダメだこりゃ」という私の感想は、宗教家全般に対してではなく、
言にここでバカやってる個人(宗教関係かどうかは、ハナから興味が無い)に対してだしなァ。
『増えすぎる人類』などという発想、まるで自分はその人類でないかのように尊大だな。
こんな琴ヲ言えてしまうこいつは、一体何物なのか?
まさかサルがキーボード打ってるわけじゃないだろうに。
(もしそうだったら私は、その非人類に対して詫びるが、まさか本当にサルではないだろう)
自分が何に属しているかもわからんヤツに、何言ってもムダでは?
>・・・あんたら宗教屋は・・・
『宗教屋』という言葉が、なんとなく偏見(ひいては差別)を
助長しかねないような気がしたので『宗教に直接関わって
いるであろう者』に訂正します。
あまり変わらんような気もするが・・・