(無題) 投稿者:龍淑 投稿日: 9月16日(日)15時18分45秒 pfi29s096.kobe-catv.ne.jp

>自分の帰属するものに誇りを持つ事自体は必ずしも悪い物では無いと思ひます。
問題は、排他的になる事ですね。

そりゃ、今まで劣等と認識されていたグループの復権という意味では正しい。
しかし、「自分の帰属するものに誇りを持つ事」が、他グループへの優越性に
基づいている場合はどうでしょうか?マジョリティ日本人が国内で受け取る
メッセージはほとんどこういうものでしょう。

それが「排他」に繋がらないという保証はどこにもありません。
いや、直結しているといっていいでしょう。どうやって「排他」
になるのを食い止めるんですか?自制心?
だとしたら、笑止です。「優越感」を捨てればいいんです。
でなければ、単なる欺瞞です。

いや、「和人」でも優越性に基づかない誇りを持つチャンスだってありますね。
それは現実を直視するだけのことなんですが。

さて、和人Xさんは、どれくらい日本あるいは日本人に対する負のイメージを
認識されているのでしょうか?
  


アメリカにしろ右傾化日本にしろ 投稿者:和人X 投稿日: 9月16日(日)13時01分27秒 hcou001002.catv.ppp.infoweb.ne.jp

自分の帰属するものに誇りを持つ事自体は必ずしも悪い物では無いと思ひます。
問題は、排他的になる事ですね。

「自分のところがこんなに素晴らしいのだから、他も同様にとても
素晴らしいに違ひない。」と思ふだけの余裕こそ、アメリカにしろ
日本の右側の人々にしろに欠けてゐる物なのではないでせうか。

大統領の、自分達にも責任があるかもしれない事を全く考へもせず
自分の全面的な正義を疑はない演説の様や、街がまるごと消滅した
訳でもないのに「原爆並みの悲劇だ」等と云ってのけるアメリカの
マスコミの有り様とかを見てゐると、「アメリカは余りにも自分
しか見えてゐないなぁ」等と思はされます。
# 確かに、絶対許されざるべき未曾有の大惨劇には違ひありませんが
# 原水爆の悲劇は断じてこんな程度ぢゃ無い筈です・・・・・・。
# 他人の痛みにはとことん迄鈍感と云ふか、何と云ふか。


「他山の石」ですよ。 投稿者:龍淑 投稿日: 9月16日(日)00時47分44秒 pfi29s109.kobe-catv.ne.jp

>ストネコさん
すべてを功利主義で片付けてしまってるようですが、
それで何かをごまかしている気にはなりませんか?

実を言うと私がこの事件を取り上げているのは、マジョリティ日本人に
ナショナリズムおよびそれと同様なもの(ある種の帰属意識みたいなもの)
についてわかってもらいからです。

外国人として日本に生きていると、もう息苦しいくらいこういうものから
圧迫を受けます。圧迫しているほうは、多分ぜんぜん気がついていないんでしょう。

「優秀な日本人」「豊かな国日本」「日本のおくゆかしい美風」・・・
こういうメッセージはまったく無害なものとしてあふれるほど
巷に流れていますが、こういうものからすら排除される人間も
日本には住んでいます。

恐らく多くの日本人が何の疑いもなくこうしたメッセージを
受け取り、日本という国家への帰属意識を形成していくのだと
思います。そしてその立場を捨てられない。何の努力もなしに
受け取った「優越性」を。

そして「日本人」というくくりで得た「優越性」は、もちろん
そうでないもの、あるいはより「日本人」らしくないものへの
差別と同義です。

(子供のころから、「なぜ、個人の能力・人柄だけで勝負しようと
しないのか」と何度思ったか知れない)

私がこの事件を取り上げたのは、日本人に、ナショナリズムというものを
外側から客観的に見てほしかったからです。ストネコさんはブッシュを
「白々しい」とおっしゃいましたが、ああいう白々しさは私たちが
日常この日本で目にすることと大して変わらないように私には見える。
(教科書問題から学校での差別問題に鈍感な教師に至るまで)

ナショナリズムや民族的優越意識は、わかりやすい功利主義や
拝金主義よりさらに無気味で恐ろしく、イヤ〜な感じです。まだ後者のほうが
ストイックに見えるくらいです。

どうか多くの日本人には、頑迷なナショナリズムのもたらした
事件の「無常さ」について深い感慨を持ってほしい。
そして、ナショナリズムや「我われ優越意識」に少しなりとも
忠誠心を持つ身のあわれさを悲しんでほしい。


※ところで、オマエは?と聞かれたら、私にとって「他山の石」
たり得るものは、やはり何らかの意味でマイノリティの人しか
いません


でも、それがアメリカ合衆国 投稿者:ストネコ 投稿日: 9月15日(土)02時40分20秒 p10-dn01sukagawa.fukushima.ocn.ne.jp

龍淑さんがおっしゃる通り、ブッシュ君のTV演説は実に白々しいもの。
でも・・・彼には次の大統領選挙が待っている。
ここで「考えてみたら我々にも問題が・・・」なんて事は口が裂けても
言えません。いいチャンスなんですね、再選への。
周知の事実ですが、アメリカの大統領にとって再選への近道は戦争です。
しかも経済が不調の今は、それしか方法はありません。
彼にとっては、今回の「テロ」は、まさに渡りに舟。
パキスタンの協力も得たようですから、おそらく今月末にはアフガン領域
への軍事作戦が実行されることでしょう。

アメリカって国は「ショー」の国という感じがします。
ステージで両手を広げ、高らかに歌い上げるブッシュ。
スポットライトを浴びたその姿に酔いしれる観客たる国民。

米国内の批判の声は大勢という名の風に飛び、駆逐艦の
砲撃音にかき消されることでしょう。
ペンシルバニアで墜落した旅客機が、自身の生命を守るべき
米軍機によって撃墜された事実すら問題として提起されない
アメリカに、その御旗である「民主主義」への疑念を訴えても
その労力が報われる可能性は限りなく少ないでしょうね。

今回は、湾岸戦争に比べ物にならないほどの「多国籍軍」が
形成されるかもしれません。
いづれにせよ、アメリカが単独で無茶な事をしないかぎり
「正義の御旗」の「勝利」でとりあえず終結するでしょう。
もちろん、問題の解決などにはなりません。ほとぼりが冷めた頃
ふたたび同じ問題が発生するでしょう。

でも、それでいいんです。
それがアメリカの理想なんです。
そうすりゃ、また戦争が出来て、国内の諸問題から国民の目を
そらすことが出来ますからね。

私としては、今回の件は実行者とその指導者の拘束作戦は支持。
とにかく世の中に出てこれなくしてもらいたい。
それが「アメリカの圧政」であろうと、かまわない。
娘の学校にテロがあったら嫌だもんね。
自分の存在意識に直接関わっているわけでもない事項で
自分や家族の命を脅かされるなんて、まっぴら御免。
たのむよアメリカ。
今回だけは支持するから、さっさとやっちまってくれよ。

これが私の本音。


ブッシュはやっぱりどこかおかしい 投稿者:龍淑 投稿日: 9月14日(金)02時13分22秒 pfi29s108.kobe-catv.ne.jp

私はあのビル崩壊の映像を見て、強烈な無常感に襲われました。

人としての生活を持つ多くの命、明るいオフィスのフロア
膨大な書類と取り決めでつくられた人々の「職場」、
その他あらあゆる雑多な事物を巻きこんで
それらの破片を舞い上がらせつつ真下にむかって崩れていく姿は、
「美しい」とすら感じさせるものでした。

一方でブッシュは「民主主義」「報復」と
繰り返し、「ナショナリズム」というものを
具現化させてくれています。

現実的に考えても、強硬姿勢よりも少々
「風抜き」でもするほうが良いと思いますが。

米国内でも批判の声が少なくないのでは、
と私は思っています。

私にとってはあの事件は
「ワーグナーよりも完璧なヴァルハラ崩壊の絵」注)として
目に映りました。

「アメリカの威信」の失墜。
しかしそんなものは失墜させておけばいい。
いや、もとから地に落としておけば良かったのだ。
ブッシュはそれを悟らねばならない。

大統領は、「犯人は必ず見つけ出して罰する」
そうですが、その際「アメリカの威信を傷つけた」
罪だけは免除してもらいたいものです。

一方で巻き込まれた人々は、パックス・アメリカーナ「教徒」
であろうがなかろうが、またその権威にどの程度依存しているか
問われることもなく、単に、「巻き込まれた」。

とまれ、このところあのビル崩壊の映像は、私にとって
最も重要な「聖句」となっています。
日常の隅々にまで行き渡っている「権威」から
自由になり、膨大な未処理の現実を「無常」として受け入れるための。

注)リヒャルト・ワーグナー作 楽劇「ニーベルングの指輪」
は、権力とは何かについて、延々と物語っています。
ヴァルハラは家父長的な最高神ヴォータンを中心とする
神々の城であり、権威の象徴。

(某MLに投稿したものの転載です)


過激派とは 投稿者:あつし 投稿日: 9月13日(木)07時34分33秒 H001017.ppp.dion.ne.jp

ひょっとしたら過激派とは必死に自分の国を守ろうとしている(優しい?)人々なのかもしれません。
問題はその過激派と呼ばれる人々を扇動して戦争を行っている人でしょう。 もし、報復するとしてもその首謀者とそのとりまきを捕まえない限り全く意味のないものとなります。
それにしてもTVでは飛行機の衝突やビルが崩壊する場面を何度も繰り返し映していますが、どういう神経しているのか分かりません。 番組のディレクターは全く人の痛みがわかっていないのではないかと思ってしまいます。


わたしはイメージでは語りませんが 投稿者:oripakEsaman 投稿日: 9月13日(木)00時07分24秒 ppp01026.nagoya.alles.or.jp

「パレスチナ過激派が暴力と流血のイメージ」とのことですが、
あなたは、パレスチナ過激派に友人でも?
私はバレスチナから来た人には知り合いがいますが、
寡聞にしてパレスチナ過激派には知り合いがおりません。

当然、パレスチナ過激派は、そりゃ紛争地域の過激派ですから、
流血と暴力はつきものなのは理解しますが、それが「彼らのお家芸」だとは思いませんし、
一般的イメージとも思いません。
私以外の誰かが嫌おうが、それは関係がありません。
むしろ、彼らがさらされているものが、「流血と暴力」そのものであるのだと思います。

パレスチナ過激派からすると、「アメリカの自由」なんてものは、
「流血と抑圧の反映の象徴」なのではないでしょうか?
誰がやったせよ、そういう発想が今回のテロの下地にはあったと思います。

当然、テロいいことではないのは、あったりまえでバカバカしいほどなんですが、
だからといってアメリカが鼻息を荒くしている「報復」がいい事かというと、
そうではないと思います。
おそらくですが、あのテロ自体も、やった人々にはなんらかの報復なのでしょうし。

また、アイヌの場合であれ、なんであれ、
「イメージの定着」こそが、差別の根源であることを考えると、
パレスチナ過激派であれ、アメリカ人であれ、シャモであれアイヌであれ、
「そのようなイメージを定着」させてしまって、
相手のことを「終わっている」といえるほうが、随分と「終わっている」とも考えられます。

この事件は終わりでもなんでもなく、これからですよ。

あの事件が示唆しているのは、我々が「平和に自由に」暮らしていたとしても、
何をしたおぼえが無くとも、知り合いでもない誰かから自爆テロをされるほど、
「恨まれる」ことがあるということなのです。

それが、いいといっているのではありません。
それは、よくよく考えてみると、自分の「立たされている立場」に由来しているものだ、
という事がわかってくるのではないか、と思うのです。
まさか、「テロをやる連中だけを処刑すれば解決する」とは思っていないと思いますが?


そのようなことを考えた上で、なにが「終わっている」のか、考えてみたいのです。

過激派というのは、「国際社会の世論」の人気を取るのが仕事なのでしょうか?
そもそも「国際社会」とは、なんなのでしょうか?
それとも「終わっている」のは、平和でしょうか? 忍耐でしょうか?
だとすると、ものの見事に挑発に乗っている、とも考えられます。


というか、それ以前に今回の事件がパレスチナ過激派と決まったわけでもないのですが。

http://www.alles.or.jp/~tariq/


一層アメリカを正当化する結果に 投稿者:せんべい屋の寄宿人 投稿日: 9月12日(水)23時20分15秒 ksgy5DS76.stm.mesh.ad.jp

一部の過激派にとってアメリカが「敵」である以上に
その過激派はあちこちから嫌がられて多くの「敵」を作っているのです。

いくら彼等なりの正義があっても、広く嫌われることを繰返していては
言い分や行動が次第に聞き入れられなくなるのは当然とも言えます。

流血と暴力のイメージを定着させてしまった点ですでにパレスチナ
過激派は「終わっている」

いわば正論を振りかざして職場でうっとうしがられるバカと
たいして違いがありません


血塗られているのは近代国家そのもの 投稿者:oripakEsaman 投稿日: 9月12日(水)21時07分30秒 ppp01062.nagoya.alles.or.jp

まぁ、規模と達成力、組織力から考えて、
直接に「ダーバンの会議の結果の報復」というわけではないと思います。
随分前から、計画されていたと思いますし。

ただ、決行時期を、どう考えても1悶着あるだろう、
ダーバンの人権会議の後にしたという事は、十分考えられますね。
実際、あの会議でのアメリカの代表などの横暴振りは、
別に会議に参加したわけではありませんが、結構なものだったと聞き及んでいますし。

これは、アラファト議長を始め、忍耐を持って交渉にあたっている多くの人々の努力を無視した、
大変な「足の引っ張り」であるとは間違い無いく、全く酷い話だとは思いますが、
同時に私には、「あいつらには何を言っても無駄だ、こういう方法が一番だ」という声が、
しきりに聞こえるような気がしてなりません。

私は、個人的には「あいつらには何を言っても無駄だ」についてのみ、半分だけ、同意します。
「こういう方法が一番だ」とは、けっして思いませんし、
人殺しや大きな破壊の伴うテロはいかんと思いますが(捧酒テロは可←実はテロではない)、
我慢するのもイヤになるときも、ありますからねぇ。

いずれにせよ、この事件を実行した人々は、ただの思いつきでも出来心でもない事は確実ですし、
確実になんらかの強力な「帰属意識・同朋意識」で繋がっていた事は、想像に堅くありません。
「帰属意識」が、諸悪の根源であるとは全く思いませんが、
こんな事件を引き起こしてしまうには、それが生成された下地があるものと思います。

それを考慮せず「野蛮なテロリスト」とか「自由に対する兆戦(なんだそれは)」と、
単純に称する態度は、いだずらに対抗し報復するナショナリズムを煽るものであり、
しいては、ただの被害者でしかない者達を激しく冒涜するものと考えます。

ま、アメリカ(というか近代国家全般)ってそういうものなんでしょうけど。

私は、「アイヌのため」に、誰かを殺したり自己犠牲したりは、絶対にやりません。
当然、「日本の為」には、死んでもやらないのは当然ですが。

http://www.alles.or.jp/~tariq/homogenous/tanituhatugennews.html


血塗られたダーバン会議 投稿者:せんべい屋の寄宿人 投稿日: 9月12日(水)20時07分23秒 ksgy6DS19.stm.mesh.ad.jp

このテロでは取引先の人がまきこまれ、依然として
数名が行方不明です。

反シオニズム主義だろうが恨みがあるだとか
どのような理由にせよ許せません。


大規模テロは、何故起きる? 投稿者:oripakEsaman 投稿日: 9月12日(水)05時43分39秒 ppp01030.nagoya.alles.or.jp

全ての死者に安らぎを。
そして、全ての人の心に、怒りではなく寛容と繊細さがありますように。

昨日、大変な事件がありましたね。
歴史上、「テロ扱い」される事件としては、ほぼ最大のものだと思います。

一見、アイヌと和人の話とは関係が無いと思われるかもしれませんが、
これは「意識(民族とは限りませんが)」の問題が、
最悪の形でこじれた一例、という意味で、無視出来ない問題です。

民族とか帰属意識というものの生成は、ただのロマンや歴史屋の世界の産物ではなく、
現実に存在する権力関係や差別構造と密接に関わっていますので、関係おおありてす。
実際、我々アイヌの先祖は、集団で和人を殺したという経緯があります。
それには、和人がアイヌを無数に殺したり、犯したりという経緯があったのですが。

ともかく、
ハイジャクした後にビルに突撃するという自殺実行した人々は、どのような経緯があれ、
ここしばらくSampeでも話題が続いていた「我々意識」で繋がっていたであろう事は、
確実だと思います。 それが「民族」であるかは全く別として。

きっと、彼らの魂は、いま頃は彼らの信じる「死者の園」に集っている事と思います。
(巻き込まれた人々の魂は、それぞれの信じる場所、あるいはただ消えたのでしょうが)
それを、「洗脳」と呼ぶか、「抑圧の結果」と呼ぶかは、どうでもいい事です。

ここで大切なのは、そのような「我々意識」を持った人々が、
何故死んでまでもあんなことをしでかすような「我々意識」にまで至ったのか、
何故あそこまでの行為に及ぶほどの結束力と行動力を持って、テロまでして「しまった」のか、
という事であります。「卑怯なテロリスト」と連呼するのは簡単なんですが。

いくら私が「空気のように無意識の中に偏在する差別」を訴えているとはいえ、
テロリズムを肯定するわけが無いのは当然です。
これは、国際会議(最近アフリカでもありましたね)などでの多くの人々の、
不平等や紛争・差別などの解決・軽減のための努力を踏みにじるものであり、
どのような角度から見ても「いい事」ではありえません。

ですが、そのテロに対し、「アメリカの自由に対する攻撃」という米大統領の発表には、
正直なところ、空寒い思いを禁じ得ません。
実際、今回のような大規模で組織的なテロを起こすには、経済的なものとか以前の
「よほどの下地」が必要なわけです、簡単な話「アメリカは恨まれている」んですね。

だとしても一般のアメリカ人をぶっ殺していい、という事は有るわけがないのですが、
ても、あのテロが米大統領の唱える「自由にたいする攻撃」といよりは、
「アメリカが自由に彼らにやらかしていることに対する攻撃」であるんだろうという事は、
私はテロリストではありませんが、創造するに難しくはありません。

実際、国際関係とか植民地関係とか戦争には、まともな裁判も調停者もいず、
野蛮人の蹂躙が野放し状態といってもおかしくないですからねぇ。
アイヌの同化政策にしたって、国家がやったから野放しなだけですわね。

http://www.alles.or.jp/~tariq/homogenous/tanituhatugennews.html


テロは、本当に人事か? 投稿者:oripakEsaman 投稿日: 9月12日(水)05時42分52秒 ppp01030.nagoya.alles.or.jp

上の続きです。
私も、親兄弟を吹っ飛ばされたとか(テロも戦争も、被害者からすれば一緒)、
そういう人々に比べれば、非常に些細ではありますが、
自身がアイヌである事や、そに対する周囲の無神経や不寛容に対して、
「当然の事を訴えても、おまえのせいだと言われたり、エセだと言われてもっと惨い目に会う」
という目は散々味わっていまして、これがもっと惨くなったら、
あまりの理不尽さに腹が立って、これ以上殺されないために、
武器を持って立ちあがってしまう人々がいるだろう事は、残念ですが容易に想像できてしまいます。

といっても、人を殺すのはよくない事です。
まして、直接面識も恨みもない相手を殺すのは、なおさらいかんですね。
でも、それをやってしまうのが人間んだと思います。
テロリストが「親のあだ討ち」以上の事をやっているのがいかんのは当然なんですが、
それを言うなら戦場の兵隊だって誰かもわからん人を殺しています。結構な確立で軍人以外も。

実際、俺は人殺しなんかせんぞ、と思っている人でも、
別に話したわけでもない相手を「○○である」と断定してしまう事は、少なくありませんね。

姿形だったら人種差別、文化やイメージだったら民族差別なわけです。
でもそれが、権力関係だったら?
全ての人は、自覚が無くとも、なにかしらの権力を行使し、行使される立場にありますからね。
そして、結構な部分、それを自身の意思や努力で選べない。
現実に選べた、あるいは選べたと思っている人々は何も感じませんが、
現実に選べなかった、あるいは選べなかったと思っている人々は、ずっとそれを覚えています。

その、だれてもやっている「○○はなになにだ」が、積もり積もっていくと、
「○○はなになにが悪い」になって、それがそのうち、テロや戦争にならないとも言いきれません。
実際、爆弾こそ炸裂しませんが、「この○○」と、面識も無いアイヌにつっかかる、
「テロリストの如き」和人はいまでも少なくありません。
アイヌがそれを「反撃」としてやると、過剰にたたかれるんですがね。
全ての「○○はなになに」が幻想だとしても、この不平等は現実なんですがね。


何かの「みんなの為」に、何かを犠牲にする、誰かと戦う、という発想自体や、
「○○の誰かが」悪いとして、それを直接そのものではない誰かに復習をする事や、
その人々の持つ権力の象徴として、誰かを殺す、という事は、慎むべき事と思います。

我々は、たとえそれが「アイヌ民族」であれ「日本国家」であれ、
「アメリカ資本主義」であれ「忠の思想」であれ、
そのような報復行為や犠牲、自己犠牲を命有るものに求める行為を、
常に疑ってかかる必要があると思います。

しかしそれは、「民族や人種や権力関係や不平等は無視して、平和に仲良く」という意味では、
絶対にないのだと、訴え、確認したいと思います。
不平等のを不平等まま、笑顔で握手というのは無茶であります。


私達が、聖戦の兵士やテロリストや英霊、
あるいは、権力の象徴や無自覚な殺戮者、足を踏んだ相手に笑顔を求める支配者とならないために、
他者との対話と、自らの立場を噛み締める勇気と、声にならない声を聞き取る根気と繊細さが、
それぞれの個人に、義務ではなく自発的な「自分のための行動」として求められるのだと思います。

http://www.alles.or.jp/~tariq/homogenous/tanituhatugennews.html


『民族』とは何か 投稿者:MENASun Irenka 投稿日: 9月10日(月)23時59分51秒 e-nb3.lcv.ne.jp

私は「和人」です。でも基本的には、単なる「日本人」だと思ってます。
ただし、あんまり「日本人としての確信」は、ありません。気がついたら、日本人でした。

さて、

あつしさんがおっしゃりたいのは、つまり、
------
『人種』は分かりやすい。生物学的な分類だから、外見で判断できる(ように思える)。
『国籍』も分かりやすい。日本人は、日本の人。アメリカ人は、アメリカの人。
でも、それじゃあ『民族』って何?
------
ということですね。

oripakEsamanさんがおっしゃられた通り、民族というのは、
周囲の他者に対する『我々という意識』を持っている人(たち)のことです。

ただし、民族が成立するためには、それなりの『歴史』が必要になります。
(たとえば私が「今日から俺はナンタラ民族だ」と名乗っても、誰も相手にしてくれません)

民族の成立期には、言語であるとか、文化であるとか、血縁であるとか、
そうした要素が必要になります。しかし、いったん民族として確立すると、
それら要素の多くが失われても、民族であることを続けられるようになります。

分かりやすい例として、ユダヤ民族があげられます。彼らは本来、アラブ系の民族でした。
(ただし、イスラエルに帰化したユダヤ人は『民族』とは呼べない、と私は思います)

えー、それで、
以下は、私見なんですが・・・、

実のところ『国家』という存在も、そもそもは『民族』と同根であり、
『我々という意識』を制度化したものだったのではないか、と、私は考えています。
(理想や思想を国是とする国は、その『制度』の延長線上にあるものと考える)

『国家』を建設しようとする民族は、なにしろ欲張りですから、
他の民族の生活圏にまで踏み込んで「ここまで俺んちの国」とか言うわけです。
そこに前から住んでいた『先住民』にしてみれば「こいつら、なに考えてやがんだ」です。
そこで、非常に強い反感が生まれるわけです。

「ここは俺たちの土地だ。連中と俺たちは違う人間だ。俺たちは、独自の『民族』だ」

こうして、異民族の侵略を受けて、自分たちの『民族』を強烈に意識させられるため、
国家と『民族』(あるいは『少数民族』)の関係は、ほぼ間違いなく、対立したものになります。
『民族』が「同化」を激しく憎むのは、そのためです。

ちょっと乱暴かもしれませんが、いっそのこと、
『民族とは、完全な自治権を持たない国家である』と言ってしまいたいところです。
よく考えてみれば『国家』という存在自体、どこに根拠があるのか、非常に曖昧ですし。

そういった前提を置いてみますと、民族というのは、なんとなく分かりやすくなります。

現在の、敵のいない「和人」が『民族』になる最も簡単な方法は、国土を失うことです。
土地を失い、他国に異邦人として暮らすようになれば、自らの帰属を心に求めるようになり、
そこに極めて強い『我々という意識』が生まれます。

日本人のままでいたいのに、土地を失ってしまって、
止むを得ず他国で暮らすことを想像してみてください。

そこの国の住人に「日本人が集まって、また変なことをやっていた」とか、
「あいつらは、いつも薄笑いばかりしていて、信用できない」などと言われたとしたら、
非常に悲しいし、また非常に怒りを覚えるでしょう。

それが民族だと、私は思います。


あななたは本当に「和人」ですか? 投稿者:oripakEsaman 投稿日: 9月10日(月)14時38分03秒 ppp05049.nagoya.alles.or.jp

「和人」っていわれて、違和感がありませんか?

あと、アイヌってのは、もともとが自称だったので、いま民族名になっている言葉ですが。
「和人」という言葉は、あくまでアイヌから見た「日本人一般」の形容で、
民族呼称でも自称でもないと思います。
ここで「和人」といわれている人は、沖縄に行ったら「ウチナンチュ」でしょう?

言われなれてしまうと、あまり感じないかもしれませんが、初めて「和人」といわれた場合、
やっばり誰でも違和感を感じるものだと思います。
自分がアイヌだとしらなかった子供が、初めて他人に「アイヌ」といわれたときと同様に。

その自分が「和人と呼ばれる違和感」、でも「和人と呼ばれてしまう現実」について、
常に疑問を持っていてほしいのです。
それは、「自分とは何者か」という問いであると思います。


人から突然、「やいアイヌ」といわれた子供(例えば私)は、
アイヌという言葉におびえ、反発し、否定しようと思いますが、
どれだけ逃げても、自身を「アイヌとしてしか見ない人々」の存在は
消せない事を悟って、絶望します。

そのまま消えてしまう人も多いのですが、中には、周りのアイヌの協力や、
ただの幸運によって、現実の「アイヌ」の諸々の活動や記録、
なによりもアイヌ自身の言葉を学んだり聞いたり、するチャンスに恵まれた場合、
「アイヌ」という言葉のあらわすものは、否定的なものではなく、
もっと自発的なものだという事を、ただの知識だけでなく行動とともに自覚して、
人から言われて、ただアイヌなのではなく、自らの意識で「アイヌになる」のです。

私は、そのようなアイヌに、一人でもいいから増えてほしいと思っています。

そして、我々から見た「和人」の人々には、「言われたから和人」なのではなく、
どうしてそう言われるのか、いまも、本当に和人なのか、について、
「和人とは何か」について、色々と考えてほしいと思っています。

色々と考えた結果「蝦夷人」になろうが、「やっぱ和人」になろうが、
どっちでも、いいんですけどね。

http://www.alles.or.jp/~tariq/homogenous/tanituhatugen.html


あなたの心の帰る場所は、何処ですか? 投稿者:oripakEsaman 投稿日: 9月10日(月)14時36分42秒 ppp05049.nagoya.alles.or.jp

あつしさん、
「我々ま○○である」は、「我々は○○である」というのの誤植です。
マジメに引用されると辛いっす(苦笑)。

こちらも、色々と疑問を投げかけてくれて、勉強になります。
ありがとうございます。

さて、この「我々は○○である」という意識は、
言語や宗教、血統や居住地域、あるいは出生地域、身につけた文化、
時には差別や肉体的特徴・困難、と相互に関係しながら、成立するものです。
これを、帰属意識といいます。
そして、帰属意識をもって成立している集団のことを「民族」といいます。

エスニシティとか、エスニックグループとか言う言葉で表されるのは、
本来はこういうものでして、日本語の「民族」は、このエスニックグループのことを指します。


ただ、日本では「エスニック料理」とか「民族風」などという言葉が、
辛いものや縞模様の服とか、手作り雑貨などのことを指して、
自分達が「エスニッククループ(つまり民族)」でもあるとは全く意識していない、
(意識できない)構造が成立していねので、話はややことくなっている、と思います。

例えば、何人かの女子高生に聞いた話ですが、
アイヌがカムイノミの時にアイヌの服を着ると「民族ってかんじ」ですが、
和人が盆踊りで浴衣を着ても、「民族ってかんじ」とは、なかなか思わないそうですね。

「エスニック料理」という、よく考えたら意味不明の言葉のあらわす料理は、
ドイツの伝統料理とか、フランス料理、日本の寿司などを指す事は無く、
メキシコ料理、インドネシア料理、インド料理などのものを指す場合が殆どです。
「民族っぽいグッズ」についても同様です。

日本では、このように「民族的」という言葉は、どうも、常に他人事、
「第三世界」「非文明」「後進的」のような発想のものに、密接に繋がっていると思います。

そのあたりが「日本民族」という言葉の矛盾にも密接に繋がっている、と思います。

逆説的に言えば、近代国家日本の中の多くの人々は、
自分達の中にもあったはずの「エスシニティ(帰属意識とか望郷の念とか)」について、
あまり深く考えないようになっていて、その「失われてしまった自分達のエスニックなもの」
の代用品として、「後進的な人々の中にある生活感」「非文明の人々の中にある癒し」
「原始的な人々の持つ自然観」のようなものを、消費しようとしているのが、
現在の「エスニックブーム」、つまり、極端に言うと、
「アイヌの精神文化」とか「ちゅらさんに出てくる平和なウチナー」なのではないか、とも思います。

さそして、琉球人もアイヌも、立派な先住民族、つまり「近代国家成立の犠牲者の民族」です。
これは同時に、近代化の流れの中で失われた
「それぞれの日本人の中の『我々感(あるいは郷土意識)』」を象徴するとも、思われます。

「ちゅらさん」にしろ「もてはやされるアイヌ文化」にしろ、
近代化の中で自分達が抑圧してきたものに対する「慰霊」としての意味と、
自分の中の「無くなったもの」への哀愁に対する「癒し」としての効果を、
暗黙のうちに果たしているのかもしれません。
だとすると、これらの現象は、随分と根の深いものである、といわざるおえません。
近代化進んだ現在でも、多くの人には、「心の帰る場所」が、やはり必要だと思いますので。


個人的には、そのような欲求は代用品では満たされませんし、
そして、誰でも「人事ではない、我々のエスニシティ」を取り戻す作業は、
困難の程度は当然あるにせよ、やろうと思えば出来る事とおもうのですが。
(すくなくとも、私のような立場の孤立したアイヌが、
 「自分はアイヌである」という意識を取り戻すよりは簡単でしょう)

当然、この場合のそれぞれの「我々意識」というものは、「日本」に向けられるものではない事は、
それが全然「癒し」にも「慰霊」にも、なんにもならない事を考えても、
「大変なかん違いである」のは、明白だと思いますが。

http://www.alles.or.jp/~tariq/homogenous/tanituhatugen.html


アイヌの文化、は誰のため? 投稿者:oripakEsaman 投稿日: 9月10日(月)14時35分54秒 ppp05049.nagoya.alles.or.jp

上の続き。

>人が民族の自治を認め正常に時が流れていたら、アイヌ民族はどのような姿になっているのでしょうか?
>よくあるアイヌ民族の姿というのは昔の姿であって、それは和人でいうと歌舞伎役者とか時代劇役者に当たるものだと思いますが..

このあつしさんの見解は、全く持って正解です。

私達アイヌが、「アイヌである」と名乗ると同時に周囲に「期待」されることの多い、
「アイヌらしさ」というのは、殆どの場合は、
日本人に「日本人」というだけで、
歌舞伎や能を舞って、相撲を取って、寿司を握って、手先が器用で、礼儀正しく、
恥をかいたら腹を切って死ね(笑)、といっているが如き振る舞いです。

いま現在の「日本人」が、そのようなものではないのは当然の事ですから、
そのような視点で迫るのが、いかに意味不明で迷惑なのかは、ご理解頂ける事と思います。

ただし、外国などで「外人」を相手に、そのような「日本人らしいパフォーマンス」をして生活し、
同時に「自分達が日本人であること」を大切に守っているている人々もいる可能性考えますと、
一概に「そういう消費活動そのものが悪」とはいえない微妙さもあります。
(いわゆる『観光アイヌ』問題ですね。私は、観光業に携わって、「アイヌらしさ」を売りにして、
 同時に「我々はアイヌである」という意識を守ってきた人々は、随分立派だと思います)

ま、それはさておき。

「現代風のアイヌらしさ」とは、どのようになっていたのか、についてですが・・・
それについては、いま、これから、我々が作っていくものなんですよね。

たとえば、あつしさんがおっしゃった、戸籍上の氏名とは別にアイヌ語の前を持つ、
というのは、私がいまここでゃっていますし、他のアイヌもやっている事ですね。
アイヌ語で名前をつけてしまう、というのは、色々とあるので、さすがに少ないと思いますが、
一見日本語の名前だけど、アイヌ語の意味を同時に持つ名前、というのは、
随分前からあったようです。

昔ながらの「アイヌスタイル」の復活は、既にアイヌにも都会人が多い現実から考えても、
ちよっと難しいですから、「いま、アイヌである事」を、名前だけではなく、
もっと色々な分野で試行錯誤していきたいと思っています。

ただ、そのような「新しいアイヌの文化の創造」の際、気をつけなければならないのは、
そのアイヌ文化の変化なり創造は、果たして本当に「アイヌのため」なのか、という点です。

どのような文化にも「伝統と格式」の世界があって、当然、「新しいアイヌ文化」の創造に際しても、
日本の古典芸能の中にみられる軋轢が存在するのは、当然の事でしょう。
その際、「新しい流れ」を作るのも、「聖なる伝統」を保持する側も、
共にアイヌが主役であるのが当然の事と思います。

別に、アイヌがもっと元気で、数が少なくても、アイヌの子供がみんな差別もされず、
親が子供に自分がアイヌであるって、おまえもそうだと、自然に伝える事が出来、
アイヌ同士の集まりや共同体が、小さくてもアイヌの住む土地、全国各地にあって、
「アイヌとして生き・自覚する」チャンス(義務じゃないですよ)が、
すべての「アイヌの子供」に平等に有るのならば、
私は、和人と一緒に、新しいアイヌの伝統を作っていくのも、面白いと思っています。

ただ、いま現在「名乗る事を出来ないアイヌ」も少なくない事、そして、
そのようなアイヌの中にも、「アイヌであること」を取り戻したいアイヌが少なくない事、
などを考えますと、「アイヌ分化侵攻砲」の内容にうたわれている、

「アイヌの人々の誇りの源泉である、
 独自の言語や文化を・・広く日本の公共の福祉に貢献すべく普及・振興する」

という姿勢は、アイヌが十分に「アイヌである」と自覚したり活動したり出来る
環境が少ない現在においては、「和人のアイヌ文化専門家」を養成する姿勢に他ならず、
そのような専門家の存在は、「アイヌがアイヌである事」に対し、
いい影響を与えるとは思えません。
「アイヌ」というのは、帰属意識を持った一つの民族であり、
技能集団でも伝統工芸師でもありえず、
文化先生でしかない和人の専門家がアイヌを育てる事など、考えられないからです。

http://www.alles.or.jp/~tariq/homogenous/tanituhatugen.html


じゃ、どうしようか? 投稿者:oripakEsaman 投稿日: 9月10日(月)14時34分40秒 ppp05049.nagoya.alles.or.jp

まとめ。

で、大きな視点で話をした後ですが、じゃあ何が出来るのか、という話ですが・・・

うーん。
まぁ、いま話したような事を、忘れないようにしてほしい、という事でしょうか。

実際、アイヌを取り巻く状況ってのは、依然厳しいですし、
DOTTIさんが指摘したような、またひとつ「アイヌの宝」が消えていくような事は、
日常茶飯事だと思います。 実際、私達アイヌは奮闘しているとはいえ、力は微弱です。

そこで大切なのは、いま戦う力が無かったとしても、逃げ出してしまったとしても、
疑問に思った事や、味わった理不尽さを、忘れないでほしい、諦めないでほしい、という事です。
これは、ここを見ているアイヌにも、和人にも、両方に言っています。

地名を変更するのに反対、と言ったところで、現実の運動を起こすのは手間もかかりますし、
大変です。 それに、団体となって行動をはじめると、思わぬ方向に動く事もある。
(俺はいま現実に体験中)

そこでしてほしいのは、例えば、ここはいまは和人のつけた地名になっているけど、
昔はアイヌ語の地名もあったんだ、という事を、変更されてしまった後も、
忘れないでおぼえていてほしいですし、チャンスがあったら、誰かに伝えてほしいのです。
表向きは消えてしまったとしても、誰かの記憶に残っている間は、その記憶は復活する可能性が有る。
多くのアイヌが、消されてしまった「アイヌである事」を、取り戻しているように。

記憶というのは種のようなもので、いつか、何処かで芽を出すかもしれません。
まぁ、現実の種と同じく、出さないかもしれませんが(笑)。

http://www.alles.or.jp/~tariq/homogenous/tanituhatugen.html


わかりにくくてもいいんだけど 投稿者:せんべい屋の寄宿人 投稿日: 9月 9日(日)23時40分27秒 ksgy6DS21.stm.mesh.ad.jp

思想信条に近いもののような気がするので
べつだんわかりくくてもいいとおもうけどなぁ

和人が「私は和人である」とことさら意識して
アピールしなくても和人であるように

アイヌが「私はアイヌである」とことさら意識して
アピールしなくてもアイヌであるというのが
自然体だと思います

http://ramat.ram.ne.jp/itak/


分かりました。けど分かりにくい 投稿者: あつし 投稿日: 9月 9日(日)23時08分35秒 H007246.ppp.dion.ne.jp

皆様、私の勘違いにつきあって頂けて恐縮です。
アイヌの方々は誇りを持ってアイヌ民族と名乗っているのですね。

ところで、民族とは ”人種・宗教・地域・文化・言語・血縁などの色々な要素の影響の元に、「我々ま??である」という帰属意識を持つ人々” を指すそうですが、
ニュアンスとしてはよくわかりますが、具体的に何?と聞かれると私には答えられそうにありません。

別に具体的に何か示す必要などないですが、もしいろんな人にその「意識」をアピールするとしたら、何か簡単なもので分かりやすく示せるといいのではないかと思います。

簡単なものとして、戸籍上の氏名とは別にアイヌ語の名前を名乗るとか(他にはまだ思いつきませんが..)何かそういった方法はないのでしょうか?

あと、またまた余談ですが、
もし、和人が民族の自治を認め正常に時が流れていたら、アイヌ民族はどのような姿になっているのでしょうか?
言語風習は破壊され、土地はかなりの部分が切り開かれてしまっていますが、よくあるアイヌ民族の姿というのは昔の姿であって、それは和人でいうと歌舞伎役者とか時代劇役者に当たるものだと思いますが..



「アイヌ」と「人」、珍妙な「日本民族」 投稿者:和人X 投稿日: 9月 9日(日)13時34分17秒 hcou001002.catv.ppp.infoweb.ne.jp

別に「アイヌ」と云ふ単語が「人」と「アイヌ民族」の二つの
意味を持ってゐても、をかしくも何とも無いと私は思ひます。
似たやうな例に「サハラ砂漠」がありますが、「サハラ」は
元々それ自体が「砂漠」と云ふ意味だと云ふ話を聞いた事が
あります(あくまで「似たやうな例」であって同様な経緯では
無いと思ひますが)。
別に、一つの単語が一つの意味しか持ってはいけないと云ふ
法は無いと思ひます。

「日本民族」等と云ふヘンテコリンな名前は、日本が単一
民族国家であると勘違ひしてゐるやうな人しか遣ってゐない
のではないかと思ひます。
確かに、日本列島そのものが地形的に特徴のある場所なのは
歴とした事実で、もしかしたら人種的・文化的特徴にも
少なからず影響を与へてゐるのかもしれませんけれど、
それにしたって、「民族」とは異なる概念ですよね。


追伸:
「新しい教科書誕生!!」を良く見たら、なんと件の西尾氏は
「新しい歴史教科書をつくる会」の会長(!)でした。
成る程、こんな人が先導(煽動?)してあんな教科書を書いて
ゐるんですね・・・・・・。