>つまりですね、言葉(単語)をもとに、それを発信する者に対して
>いきなし決め付けをするのは反対だということです。
こういう命題があって(誰が単語で決め付けた?----
命題の立て方も適切でもないと思いますが)、
>私が言いたい事を分かっていただけましたか?
>もし「分からない」「それは違う」というのであれば
>それは仕方ないのかもしれませんね。
マイノリティ(在日韓国人)はこんな真理もわからないほどバカ
だけど仕方がない。
それは、
>在日韓国人として国家と構成員による多くの不条理に
>直面している貴方に対して、我々「日本人」の問題が
>存在することを理解し、それを何とか直さなきゃいけないと思っても
社会的・経済的諸事情等同情すべき点も多々あろうかと思われますが、
(これはもちろん文脈上、修辞的表現ですね)
>貴方の置かれた状況を、貴方の立場で心から理解することは
>生まれてこのかた差別を受けた事がない私にとっては
>とても困難な事ですから・・・
やっぱりマジョリティである私にはああいう方々のことは
理解不可能でございます。
もう一度言いましょう。
「在日韓国人がこんな真理もわからないほどバカなのは
社会的・経済的諸事情もあろうかと思われますが、
これほど好意的に考えても私にはわかりません」
とおっしゃっているわけなんですが・・・
何度読みなおしてみても、ある一般的真理について理解できないことを
マイノリティであることに(つまり我々とはちがう種類の人間だから)
原因を求めているようにしか読めませんでした。
(えっ!それはイケナイ事だったのか?というリアクションが
返って来たりして。)
真理は万人に開かれているのです。
(どちらかというと苦労した者のほうが近いかもしれないが、
とも思いますが、それでも万人に開かれていることは、真実です)
私は、オリンピック等を観る時、よく日本人選手を応援して
ゐます。
ある意味では、私が日本人だからとも云へる訳ですが、
しかしそれは「日本國と云ふものに所属してゐるから」と
云ふ事を意味しません。
なぜかと云ふと、「出場選手の中で縁が一番深いから」と
云ふ理由に過ぎないからです。
自分の隣の家の人が出場したら、当然その人を応援したくなる
物ですが、それの延長上にある話に過ぎないのです。
町内の人が出るなら、その人を応援するでせう。町内の人が
ゐなくて、隣町の人なら、その人を応援するでせう。
そのやうに辿ってゐって、一番縁が深い(まぁ、こじつけの
世界ではありますが)のが、同じ國の人になるだけの話です。
当然、別の國の出場選手で、もしも知り合ひがゐるなら、
そちらを応援する事になります。
日本の選手が残念乍ら予選落ちした時などは、近くの國、
例へば韓國の選手等を応援する事になります。
私は、本質的にはオリンピックは誰を応援しても構はない物
だと考へてゐます。故に、取り敢へず自分に一番近さうな
人間を選ぶのです。
故に「日本人選手だから」と云ふ意識はそんなに無かったり
します。
まぁ、あくまで私の場合の話に過ぎないのですが・・・・・・。
「國家なんて区役所くらゐに考へとけ」と云ふ意見には賛成。
と云ひますか同意見ですね。
私は、國なぞ、生活するのに便利なために皆で集まった
「生活の為の巨大な同人」に過ぎない物だと思ってゐます。
現状は兎も角、理想としてはですが。
次いでに云ひますと、私の場合は自民族に対する帰属意識
も、絶対的な物では無く、割と漠然とした物だったりします。
自民族の、民族としての「枠」が好きな訳では無くて、
例へば、食事に味噌汁が出てきたら「やっぱコレだよな」と
思ったり、冬になれば「炬燵で蜜柑」が恋しくなったり、
さう云った所からくる意識の方が大きいですね。
龍淑さんへ
どうやら貴方とは縁が無かったようですね。
最後の贈ります。
「人の記事は、きちんと読みましょう」
http://www3.ocn.ne.jp/~stoneco/ritsurinkan_index.htm
>MENASun Irenkaさん
(下の書きこみで和人Xさんと混同している個所がありました。お詫び申し上げます)
たしか「駆込み訴え」という作品で善(イエス)を際立たせるために
悪(ユダ)の存在が必要だ、などというヘリクツを太宰がこねくり回して
いたと思いますが。
こんなのはもちろん詭弁であり、土台を持たないトートロジーにすぎない
ことは、生き生きとした感情生活を持つものには明らかです。
つまり、自己をユダに仮託した太宰にとっては、生きる意味がない、
あるいはそれを見出せないという事実は変わらないんです。
いくら枚数を重ねたとしてもね。
(「駆込み訴え」はそういう太宰の心情をすっきりまとめたよい作品ですが)
どうも太宰には大きな感情の抑圧があったみたいですね。感情が死んでる、
って言うか。だから他人の持つ正義感、良心、悲しみ、怒り等について
あさましいほど羨望を持っています。
(文学オバサンなんで、つい長くなりました)
ところで、精神分析学や心理学においては、怒り、憎しみ、悲しみ
等のネガティブな感情であれ、生き生きとした「自分の」感情を
持つことが上等とされています。
今は発展途上ですが、カウンセリグ手法なども発達してきています
(いや、まだまだ日本のはあやしいかもしれん)
自己流で書物にあたるのもいいかもしれません。
(アメリカやドイツの訳書で結構いいものも出ています)
というわけで、MENASun Irenka さん、遠慮しなくてもいいじゃないですか!
自分の「怒り」「憎しみ」を取り返す努力をしてください(奪われてるんですよ)。
感情がないわけないですね。人間だもの。
龍淑様へ:
説明不足で、誤解を招いてしまったやうですね。
ごめんなさい。
誇りにおいて「優越感」は要らないと私も思ひます。
>「自分のところがこんなに素晴らしいのだから、他も同様にとても
>素晴らしいに違ひない。」と思ふだけの余裕
と云ふ記述に、そのやうな意味を含ませた積もりだったのですが
説明不足でしたね。
優越感は「*他者よりも*優れてゐると云ふ感情」と云ふ意味だと
考へてゐます。つまり、他人を貶める事により自己満足を得る感情
だと云へます。故に、「(自分も他者も)皆素晴らしい」と云ふ考へ
は、自分が「他人よりも」優れてゐる、と云ふ考へとは異なる物だ
と云ふ事が云ひたかったのです。
>私が言いたい事を分かっていただけましたか?
>もし「分からない」「それは違う」というのであれば
>それは仕方ないのかもしれませんね。
>私が存在する位置は、あくまでも構造的マジョリティー。
>在日韓国人として国家と構成員による多くの不条理に
>直面している貴方に対して、我々「日本人」の問題が
>存在することを理解し、それを何とか直さなきゃいけないと思っても
>貴方の置かれた状況を、貴方の立場で心から理解することは
>生まれてこのかた差別を受けた事がない私にとっては
>とても困難な事ですから・・・
今までに私が見たストネコさんの書きこみの中で
最低最悪ですね。もう何かを論じ合うことも不可能なら、
「ナショナリスト」として迫害されたことでもあったのか
と気を回す必要もありませんね。
さようなら、ストネコさん。
たしかにあなたには「ナショナリスト」の才能がありますが、
あなたが思うほど国家があなたを顧みてくれますように。
Esamanさんへ
>それとも、もっと大きな「誉めてくれる相手」が欲しいんですか?
私は国家に対して「対価」「等価」を求めてはいません。
はっきり言って、自己満足のためです。
何かのために「尽くした」としても、周囲がそれを認知しなければ
世間的には単なる骨折り損ですけど、自身が自身の行為を信じれば
それは大きな成果として、自己の心を豊かにすると思うんですけど。
国家よりも身近な事をという意見は、もっともだと思います。
しかし、「身近」と「国家」をあっさりと区分してしまうのは・・・?
国家がマトモであれば、その構成員もマトモであるわけですし
当然、身近な付き合いにも影響するものだと思うんのですが?
・・・なんかこの記事も説明不足のような気が・・・
二つ続けてのレスは、オイラには無理みたい。
でも、せっかく書いたんだから投稿します。
http://www3.ocn.ne.jp/~stoneco/ritsurinkan_index.htm
アイヌに知り合いはいません。
在日にも知り合いはいません。
外見と日本語の巧みさで「日本人」と「外人」の区別はしますが、
外見や日本語の巧みさが日本人のようなら、日本人だと判断してしまいます。
「お前らなんかと一緒にするな」と言われたら、「あ、すいません」と謝るでしょうが、
だからと言って、外人扱いすることもできず、日本人と同じように接してしまいます。
多数者の中の少数者が、「少数者」としてのレッテルを貼られている間、
少数者は、そのレッテルから逃れることはできません。
その怒りと憎しみが、少数者である自分を強く意識する力になります。
しかし多数者が、少数者に対して以前ほど明確な形での「レッテル貼り」をしなくなると、
少数者の怒りと憎しみは空転をはじめることになります。
怒りと憎しみによって「我々」を保つためには、怒りと憎しみを向ける対象が必要です。
その対象が「アイヌって、すてき」だとか「在日って、かっこいい」などと言い出したら、
・・・・・・。
最近、何も知らず、深い考えも持たない「多数者」や、
怒りや憎しみを持とうともしない「裏切者」が増えていませんか?
レッテルが残っているうちは、それを探し出して怒りと憎しみに変えてください。
しかし、新しい世代の裏切者が増えつづけて、それさえもできなくなったときは、
自分たちの「誇り」を多数者に示し、多数者を、うらやましがらせてください。
誇りは、「我々」を保つ力になります。
龍淑さんへ
>>しかし「国家」を語る事自体を危険とみなす一部風潮は
>>それ自体が危険であると、私は思います。
>それは私のことなのか?それともアナキズム反対?
>もっとくわしく説明していただけませんか?
これについては私の説明が不足していますね。失礼しました。
これは龍淑さんに対する個人宛てメッセージではありません。
(特定個人向けでしたら、まずその方のHNを出しますから)
二つのうちどちらか?と問われれば後者になります。
でも、私が言いたかった事は、ちょいと違う側面なんですよ。
何かって言うと・・・
「国家」「ナショナリズム」といった言葉が、言葉そのものだけが
独り歩きして、言葉狩りになってるんじゃないかって事です。
「国家」とは組織体を表す単語であり、「ナショナリズム」は
その組織に属している意識を表す単語に過ぎません。
確かに、その「国家」やその構成員によって自身の身が不条理な
立場に置かれた人にとっては、嫌な言葉なのかも知れません。
しかしですよ、「国家という言葉=怪しい叉は危険な言葉」という
認識自体があるとするのであれば、それは紛れもなく間違いだと
言いたいのです。
それは、言葉に対するイメージに起因する感覚です。
例えば(適切な例えかどうかは分かりませんが)今回の米国での
件によって、米国はもとより世界各国において「イスラム=危険」
という風潮が、一般のアラブ人たちに対する嫌がらせという形で
続発しています。
これらの原因は、「イスラム(又はアラブ)」という言葉に対して
自爆テロ等のイメージを重ね合せたことに起因するものでしょう。
言葉に対する単なるイメージが、このような理不尽な事態を
引き起こしているのです。
つまりですね、言葉(単語)をもとに、それを発信する者に対して
いきなし決め付けをするのは反対だということです。
私が言いたい事を分かっていただけましたか?
もし「分からない」「それは違う」というのであれば
それは仕方ないのかもしれませんね。
私が存在する位置は、あくまでも構造的マジョリティー。
在日韓国人として国家と構成員による多くの不条理に
直面している貴方に対して、我々「日本人」の問題が
存在することを理解し、それを何とか直さなきゃいけないと思っても
貴方の置かれた状況を、貴方の立場で心から理解することは
生まれてこのかた差別を受けた事がない私にとっては
とても困難な事ですから・・・
http://www3.ocn.ne.jp/~stoneco/ritsurinkan_index.htm
過去を学ぶのも結構。深く反省するのも結構。 所詮人事。
でも、自分が今やっている、あるいは、やった事でもないものに、
ただ「学んだ」だけのものを元に、「深く反省」するのは、
ちょっとナルシスト入ってやしませんかね?
あなたは、随分と「知性的」なお人だこと。
何を学んだのか、しりませんがね〜
学んで反省と、殴ってしまって反省は、全然別物。 前者は、実は意味不明。
本気で相手を殴りたくないのなら、してもいない事の反省ではなく細心の注意を。
私は、「憎んでくれ」といわれたからといって、
見ず知らずのあなたを憎むほど、お暇ではありませんな。
ホントに憎んでほしいのなら、もっと、何かをしなさいな。
魚がほしい? 触ってみたい? でも手をぬらすのはまっぴらごめん?
いくら図鑑で勉強したって、魚は君をしりもしないさね。
いたずらネコほどの勇気もないですな。
「忘れさられるぐらいなら、いっそ憎んでほしかった」
残念ながら、あなたはそこまでの相手ではないね。
こうして揶揄される間が、花とも申します。
一方的に達観できる立場に、だれが立たせたのか、是非お考えください。
何かしりませんが、学んで反省する、随分な知性と余裕のあるお人よ。
ま、何年もしつこくじっと見ていて、ネタにもしてるけど、
何も書かない奴よりは、まだ前向きでいいけどさ。
http://www.alles.or.jp/~tariq/
あつしさん。
アイヌと和人の「現在」とは、「異質の文化を持ったもの同士」という視点よりは、
「過去に暴力によって泣き寝入りをさせられ、いまもその被害下にある人々と、その加害者の子孫」
という認識の方が、より「現在的」であると思います。
「異質な文化」を、現在も「持てている」アイヌは、極めて少数です。
皆、望んで捨てたものではないと思いますし、持てていなくとも、アイヌはアイヌであります。
また「動物的本能」と「知性と懐の深さ」が、対比される表現になっている点には、
不自然なものを感じます。
私には、異質なものを無意識に排除しようとするのは、「動物的本能」であるとは考えられません。
そのような異者排斥作用を持つ「群れ」を作る生物は、随分と知性がある存在であると思います。
そのような「よそ者はずし」が盛んなイヌもサルも、極めて社会的で
(人間を基準とした視点からすれば)高い知性のある動物です。
他の場面でもよく、「動物的本能は異者を排斥する」という言葉がつかわれますが、
この場合の「異者を排斥」というのは、免疫反応のことなんでしょうか?
だとすると、同じ人間であるはずの「異者」をバイ菌として「誤認」していると言えますし、
そもそも免疫機構は「本能」ではありませんよね。
また「動物的本能」であるはずならば、無人島の鳥が人間を恐れない事の説明がつきません。
私は、「異者の排斥」という作用は、本能ではなく、後天的に学習したものであると考えます。
何かを判断できる(と思っている)、知性があるからこそ、
「異者」をわざわざ選択し、「排除」をするのだと思います。
「恐れや不安や偏見」は、実は知性によってもたらされます。
私は、人間に代表される知性を持つ生き物こそが、差別や偏見を持つ生き物なのだと思います。
異質の排除が、主に知性によってもたらされるとすれば、
それに知性でもって対抗するというのは、はたして有効な手段かどうか、
ちょいと疑がわしいと思います。 これこそ「異文化の衝突」なのかもしれませんね。
テロ事件について。
>今回の事件でアメリカの象徴が破壊されたという表現がなされていますが、
>あの惨状はアイヌ民族とその文化の現状にも置き換えることが出来るのではないでしょうか?
>ひょっとしたらその跡地に別の国の建物が建ってしまったというところまで状況がややこしくなっているのかもしれません。
ややこしいを通りすぎて、絶望的です。
アメリカの例えをより正確にいうとすれば・・・
かつて、ウォール街であった土地に、宇宙人か何かか住み着いて、いろんな建物が建っていて、
昔の「アメリカ人」は、殆どいなくなってしまった。
かつて世界経済の中心といわれたアメリカは、その反映の影も無く、
数少ない生き残りは、スラムのようなところで、細々と暮らすか、
宇宙人の仮面を被って、さも「アメリカ人」でないような顔をして暮らしている。
かつて、宇宙人の支援を受けた連中が、繁栄するアメリカの象徴を破壊するような事件があって、
その日を悼んで追悼集会を時々やるけど、いまは、それを語る人も少ない。
中には、
「あれはアメリカ人と、アメリカ系宇宙人(なんだそれは)の争いで、いまの俺達には関係が無い」
という宇宙人学者も出るほどだ。
アメリカ人に対する派手なテロも、もう起きない。 象徴が既に無いし、繁栄もしていないから。
ただ、スラムでは地味でしつこい嫌がらせだけが、延々と続く。
近々、「宇宙人と戦ったアメリカ」という言い伝えを、
解体するような教育プログラムが作られるらしい。
それは、「宇宙人の為に、アメリカ人の素晴らしい文化を大切にする」という皮を被っている。
こんなところでしょうか?
「跡地に別の建物」という次元は遥かに通り越しています。
別に、あのビルがなくなっても、あの土地がアメリカである事に代わりは無いですし、
アメリカ人は何処にでもいますが、アイヌって、そんなにいませんし、
象徴になるようなビルもないですよ。 ダムはありますけど、アリゃ和人支配の象徴ですし。
あれなら爆破しても誰も死にませんが、瓦礫で川も死にますので、爆破のしようがないですね。
現在は、下手をしたら、そのビルの残骸や遺骨を、宇宙人同士が貴重だと取り合っていたり、
ビル跡地から出てきた被害者のホネと、いま生きている「アメリカ人」を比較したりしているとか、
そういう無茶苦茶な状況にあります。
これは、こまったなぁ。
http://www.alles.or.jp/~tariq/
ストネコさん、「オリンピックで日本代表が表彰台に立つと、やっぱ嬉しい」との事ですけどね。
そりゃあ、それをとる努力は、大変なものですわね。
ただのちょこまかした数字の違いにすぎないスポーツ業界の記録に、
なんの意味があるのか知らんし、俺にはさっぱりわからないけど、
色々と苦労をしてがんばっている姿は、悪くない。
その努力と苦悩の成果は、意味があるんでしょうよ、きっと。
ただ、その行為の成果が「国家」に還元されてしまうとき、なんだか白々しいものを感じるんですわ。
国家って、何よ? メダルを取ったのは、国家の為か? 苦労をしたのは、国家の為か?
そこの選手が、その競技の選手として素晴らしいのはわかるが(人格はしらんよ)、
何故、国旗を背負っているのだ? その旗は、その人間の何を表しているのか?
「日本の代表選手」って、そもそもなんだ? 彼は、なにを代表しているのか?
日本の取ったメダルがどうのと騒ぐのは結構だがよ、
その時、たまたま一番になった選手がメダル貰うだけだろ?
なら、いい選手がみんなして移民しちゃったら、「日本のメダル獲得数」って、とうなるんだろう?
現にこれ、一部ではあるしなぁ。 対決しているのは、選手同士なのか、国同士なのか?
メダルを大切に持って帰るのは、確か選手のはずだぞう。
国家がいくら誉めようが、関係ない選手もいれば、どっかに行ってしまう選手もいる。
「オリンピックには魔物がいる」というけども、その魔物って、実は、
その選手の普段の努力とはあまり関係が無い周囲の身勝手な期待が、
オリンピック時だけ集中して、その選手にプレッシャーかけることじゃないのかな?
現にみんな、「そういうとき」以外、何をしている人か知らんでしょうが。
選手の方は、地道に毎日練習しているんだろうにね。
オリンピックなぞ、もともともが選手同士の争いなんだから、これらはむしろ当然かも。
実は、闘いに勝ったのは、選手個人にすぎないんだよな。
何人もの「○○人(その選手の地元)」や「日本人」を倒して勝ちぬいて、
最後のほうで「外国人」と対決するだけ。 決勝で、日本人と勝負することだってある。
色々と考えると、国家同士の争いとして見ているほうに問題があるのではないだろうか?
実は赤の他人に、勝手に「日本人として」の連帯感を押し付けているほうに、
大きな問題があるのではないだろうか?
そんなんを考えて、
たしか選手が個人資格で出場する大会がこの前秋田とかでやってたと思うけど、
お金が無くて来れない選手が沢山いたとか。
やっぱり、国家の後押しがないと、というか、国家を背負うというイメージがないと、
お金も満足に集まらないのだろうか。
別に俺は、特定のスポーツばっかやってる人らの動向には、
実は全然興味が無いので、いいけどもさ。
でも、アイヌの選手が出たら、是非とも、「アイヌの旗」でやってほしいですな。
(実はある。見たい人は、http://www.alles.or.jp/~tariq/homogenous/tanituhatugennews.html)
(の、ダーバン2001の記者会見の記事の写真に注目。砂沢ビッキデザインのアイヌの旗だよ)
同じ職場の人間が何かの大会に出たら、そりゃ応援くらいするよな。
同じ土地の人間だったら、注目してしまうだろうし。
(そういう時の「同郷意識」は、俺の場合は飛騨になるけど)
そういう意味での「仲間意識」は、アリだと思うよ。
(俺なんかが応援したら、みんないやな顔しそうだが)
ただ、それが「国家」というものの場合、ちょいと変ではないのかな、と思うんですよ。
だって、なんだか「遠く」ないですか?
市役所より、地元の商工会や町内会より、通っている学校や職場より。
どうせ「一肌脱ぐ」のなら、もっと身近な相手にやりましょうや。
話をした事も無い「国家」相手ではなくてね。
それとも、もっと大きな「誉めてくれる相手」が欲しいんですか?
あまり欲張るのは、いけないと思うんですがね。
欲しいのは結構ですがね、相手が本当にあなたのことを考えているとは、限りませんよう。
http://www.alles.or.jp/~tariq/
>人間は多かれ少なかれ動物的本能により異質なものを無意識に排除しようとします。
これは疑問です。3歳くらいの幼児ならば、肌の色の違いなどはまったく意識しない、
という話は良く聞きます。それ以下ならば、人間でなくても意識しないで仲間だと
思うとか。
また、ヒエラルキーを持つ動物の群れというのもさほど一般的ではないようですよ。
サル山のサルなどを観察した結果から「本能」云々が言われますが、
サル山は餌場が1ヶ所しかない等非常に不自然な環境でもあります。
「異質な者の排除」には、権威に基づく優劣の価値観という
非常に人為的なものが働いていることは明白です。
>知性と懐の深さがあればそれぞれの存在を尊重し真の意味で共存していくことが出来ると思います。
何を持って知性というかによりますね。
聖書曰く、「己をもっとも低くする者が天国では最も高いとされる」。
こういう素朴なもので十分だと私は思いますが。
しかし、実際には知性そのものがある権威に基づいて体系化されてたりするので・・・
>アメリカ合衆国は少し進んでいると聞きます。
制度的にはそういうように見うけられます。しかし、アジア系には
ちとツライものがありそうです(日系は例外ではありません)。
>アイヌ民族とその文化の現状にも置き換えることが出来るのではないでしょうか?
私見では、「権威の象徴の破壊」という意味に限って言えばアイヌの場合、
「地下まで掘り下げられている」という感じです。
>ところが日本という国家に対して素直に帰属意識を持つ事が出来ない。
というのは日本という国に限らず、むしろ当たり前の感覚ではないですか?
私見では、国家などというものは、区役所くらいに認識されるほうがいいんです。
なくても困るし、そこに所属もしているんだけども絶対的でもない。
>俺ね、自分の「国家」が欲しいんだ。
>俺が素直に帰属意識が持てる、国のために一肌脱いでやろうと
>発憤させる国家がね。
「永遠なる母」を追い求める幻想のようですねえ。
しかし永遠なる母親が現実には存在しない以前に、
国家は現実の母親ほどもあなたのことを気にかけもしませんよ。
生成したときから自分が存続・拡大することしか考えない。それが国家。
今のアメリカのやり方見ているとそんな気しませんか?
国民のことを考えるなら、あらかじめ、他国の恨みを買うような
かつ無意味な覇権主義など捨てておればよかったのです。
人間の親ならば、わが子のために戦いもするし、
かつ危険にも気をくばるでしょう。
>オリンピックで日本代表が表彰台に立つと、やっぱ嬉しい。
>目頭が熱くなる時もある。
オリンピックなんてナショナリズム合戦みたいなもの。
私は必ず「弱いほう」を応援します(めったに見ませんが)。
>しかし「国家」を語る事自体を危険と見なす一部風潮は
>それ自体が危険であると、私は思います。
これは私のことなのか?それともアナキズム反対?
もっと詳しく説明していただけませんか?
人間は多かれ少なかれ動物的本能により異質なものを無意識に排除しようとします。 ただ、知性と懐の深さがあればそれぞれの存在を尊重し真の意味で共存していくことが出来ると思います。
教育環境の整った現代こそ、ムラ社会を脱却し、世の中には様々な文化・風習を持った集団とその歴史的背景を理解させ、異質の文化を持ったもの同士がお互いを理解した上で共同生活していけるようにする良い機会だと考えます。(全くその逆のことを企んでいる団体があるようですが)
この点ではアメリカ合衆国は少し進んでいると聞きます。(国民の優越感の上に成り立つものなのかもしれないけど..)
このようなことは、頭が固くなってしまった中年以上の方々にはなかなか受け入れられないかもしれません。 でも、子供たちにはまだまだ可能性はあります。 ITがどうのこうのと言われていますが、これを積極的に活用し、根気よく前向きに啓蒙活動をしていくことがマイノリティとされる方々の数少ない有効手段ではないかと思われます。
無意識のうちに日本は多民族国家であることを理解させれば良いのです。それにより大多数である「善良な和人」は理解すると思います。
ところで、今回の事件でアメリカの象徴が破壊されたという表現がなされていますが、あの惨状はアイヌ民族とその文化の現状にも置き換えることが出来るのではないでしょうか? ひょっとしたらその跡地に別の国の建物が建ってしまったというところまで状況がややこしくなっているのかもしれません。
>私を憎んでください。
>私に怒りを覚えてください。
この手の意見を聞くと、まず第一に
「ハァ?あんたってそんなにエライさんだったっけ?」
と思ってしまいます。非常に謙虚なように見えて、
「俺が国家を背負ってるんだぞ!」みたいな・・・・。
この手の意見はよく聞きますが、聞いていてそんなに
気持ちいいものでもありません。
そうまでして日本人という特権(優越感)を
持ちつづけたいのか?と思いますね。
「国家」というものから精神的に自立すればいいだけですよ。
私も教科書問題や従軍慰安婦問題等に口を挟むこともありますが、
究極の目的はそこにあります。
>他者の誇りを蔑むことは、自らを卑しめることにしかなりません。
そりゃ、あなたの個人に帰属する誇りは尊重しますよ。当然。
しかし、国家を背景とした誇りを持たない者に対して「自らを
卑しめることだぞ」なんてスゴまれたって・・・・。
あ、和人Xさんはご存じなかったのかもしれませんが、
私は「在日韓国人」です。韓国からすれば「棄民」あるいは
「認知してない私生児」みたいなもんです。
>ただ呆れて、笑って、無視すれば良いだけです。
う〜ん、たしかにそういう場面はありますが、
笑って済むことばかりでもありません。
差別や暴力に結びついたりしますからね。
(そういう事象についてお聞きになったことはないのですか?)
たとえば、娘が学校で「韓国人」や民族名をネタにいじめられる
ことがよくあります。これは仮に相手のガキがバカ丸出しだったとしても
(たいていそんな感じ)、それを放置するあるいは処置が手ぬるいような
教師に対してはだまってはいらません。
ところで
>「善良な和人」による「見えざる民族抹殺」への抗議
これは誰に対する抗議なんですか?
ひょっとして「見えざる民族抹殺」という悪評への抗議?
あ・・・いや、タイトルは本文に関係ありません。独り言です(汗)
「ナショナリズム」についてなんですけど、はっきり言って私の場合
それが硬直化した場合の危険性は理解できるものの、それ自体は
「憧れ」もあるんです。
と言うのは、私は日本という国に生まれた者であり、ましてや
ここで言うところの和人です。ところが日本という国家に対して
素直に帰属意識を持つ事が出来ない。
これは私にとって、大変に悲しい事です。
日の丸はいいデザインだし、君が代の旋律は美しいものです。
ところが、素直に「我らが日本!」と言えない。
理由は雑多ですのでいちいち書きませんけどね。
とにかく悲しい。
今日の新聞で、ブッシュ君が消防士な肩を抱きながら
拡声器で「君たちは国家の誇りだ」と言っている写真が
一面のトップを飾っていましたが・・・
はっきり言って、カッコイイと思ってしまった。
ブッシュはいけ好かないが、これはカッコイイ。
回りに居合わせた救援隊が「USA!USA!」と叫んだ
らしいけど、その気持ち分かるわ。
いいなぁ・・・自分の国の名を素直に声に出して
かんばるぞーって、ね。
ほんと、いいなぁ・・・
俺ね、自分の「国家」が欲しいんだ。
いや、俺が指導者とかじゃなくて「我らが国家」が欲しいんだ。
俺が素直に帰属意識が持てる、国のために一肌脱いでやろうと
発憤させる国家がね。
女房や娘と「この国に生まれて良かったなぁ」と言い合える
ような国家がね。
オリンピックで日本代表が表彰台に立つと、やっぱ嬉しい。
目頭が熱くなる時もある。
この感覚を、日常においても持てたらいいな思うのは
「危険」なのか?
軍隊がない世の中になればいいとは思うけど、自衛隊を
我らが国軍と思いたいのは「危険」なのか?
国家をおもいたいのは「危険」なのか?
「国家」に潜む差別は問題です。
しかし「国家」を語る事自体を危険と見なす一部風潮は
それ自体が危険であると、私は思います。
私は過去を学び、深く反省しています。
私を憎んでください。
私を憎むことは、あなたの意志を強めます。
私は現在を観察し、深く憂いています。
私に怒りを覚えてください。
私に怒りを覚えることは、あなたの存在を明確にします。
私は将来を展望し、「我々」に誇りを抱いています。
しかし、どうか、私の誇りを蔑まないでください。
他者の誇りを蔑むことは、自らを卑しめることにしかなりません。
「我々」が優越感を持ったとしても、
それに憎しみや怒りを抱く必要などありません。
ただ呆れて、笑って、無視すれば良いだけです。
でももちろん、その優越感が大きくなりすぎたときは、どうか叱ってください。
いい気になりすぎると、ろくなことをしないのが「我々」だからです。
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(インターネットの利用が難しい状況なので、お叱りを読むのが遅れるかもしれませんが、
ちゃんと読みますよ。なるべく早めに)