

「あつかわれ方と価値」
昔読んだ本をひさしぶりに読み返してみたら、内容の素晴らしさに初めて気づいてア然とすることってありますね。
本が変わったわけはなく、自分が変わったのですね。自分が成長して真価がわかるようになったのです。
以前、読んでもピンとこなかったとき、本をどうあつかったでしょう。
本のほうではどんな体験をしてきたでしょう。
本はその辺にほっぽっておかれ、ホコリをかぶっていました。ダンボールに入れられて古本屋行き寸前でした。つまらない、価値のないものとして扱われ、見捨てられ忘れさられていました。本に自尊心があればきっと傷ついたでしょう。動けるなら出ていったかもしれません。
本は、絶対に絶対にこんなふうには言ってもらえませんでした。
「あなたはきっと宝もののような素晴らしい本だろうと思います。だけど私はまだ人間的に未熟で、あなたのいわんとすることがわかりません。私にはまだ宝ものを受けとる資格がないのです。今はこの書棚に大切に保管しておきます。折にふれて、あなたが言っていたことを考えてみます。どうか私が成長するまであと何年か辛抱して待っていてください。ごめんなさいね。よろしくね。」
大切にしなかったのに本は待ってくれるからありがたいって思います。「本よ、ごめん」と思います。人間だったら素通りですね。バカにしている人のもとにとどまる人はいません。もう二度と会えないし、本と違って読み返せないから一生その価値に気づかず、何を失ったかもわからないまま。
見捨てた人と見捨てられた本、当時、ほんとうはどちらが見捨てられた存在だったのでしょうね。・・・そりゃまあ見捨てた人ですね。大切さがわかってもらえないことと、価値がないことはイコールではありません。見捨てる人が見捨てられる人より上ということもありません。
だからもし、あなたが誰かに見捨てられたり粗末に扱われたりしても、それが自分の価値と関係しているとは思わないでほしいです。事実それは違います。あなたがどれほど素晴らしい宝ものをもっていても、それを受けとるタイミングがきていない人からは粗末にされることがあるかもしれません。「私にはもったいない人だ」とは言われないだろうと思います。あの本のような立場のとき、読者が成長するまで気長に待つか、立ち去るか、もっとわかりやすく書き直すか、ほかにもどんな方法があるのでしょうね。
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