第19回、北海道大学・アイヌ納骨堂イチャルパ・参加報告


イチャルパ


囲炉裏でカムイノミの準備をする人達。そのすぐ隣に、1000体もの人骨がある。
納骨部屋の隣の囲炉裏のある部屋では、誰かが作業していた、納骨堂から出たとき、思わず睨みつけた。誰かは知らないが、その時は、親の仇を見るような気がしていた。

…今思えば、随分失礼な奴だったかもしれない。




まっすぐ納骨堂を出て、外の空気に当たった。
中とは違い、外は既に日も高くなっており、日差しも熱かった。
白いテントの来賓席には、まだまばらにしか人がいない。

深呼吸を何回してみたものの、気分は良くならない。

中で会った骨ではなく、外の生きている人間に吐気がした。
それまで、涙も声も出なかったが、外に出た途端に泣けてきた。




見上げると、隣には動物実験室の壁があった。この動物実験室に、永らく人骨だけが放置されていた。副葬品は何処へ?こちら側には窓はあるが、入り口は見られない。
五階建ての高さと、こげ茶色の壁が合間って、威圧的にも見える。

あの建物の、四階か三階に、さきほど対面した無数の遺骨達は放置されていた。絶滅した動物達の骨と同じく、無造作に扱われていたらしい。
和人にとっては廃棄物かモノでしかない動物の骸と同じ扱いとは、惨い話しだ。




…だが、あの時より今は、よくなっているのだろうか?

今日は、道がふさがれテントが張られており、人も集まってきているので、らしくも見えるが、私はここへ、夜中や早朝に一人で何度も通っているので知っている。

ここは、動物実験室の裏手にある駐車場、ただの駐車場だ。
しかも建っている場所は、毎日車が出入りする入口の脇。
つまりは、他の駐車場だったら、トイレや料金所なんかがある場所に建てられている。
昼間は、駐車場の整理をしている警備員が突っ立っていて、夜中になっても、脇を車が何台も出入りしていたり、帰りを急ぐ学生や職員が歩いている。ここに静けさが訪れるのは、他の場所よりも随分遅い。

小川隆吉さんはよく、この建物は遠目にはトイレに見え、そうだと思った人がやって
きて、アイヌ納骨堂の字を見て驚くが、他にする場所も無いのでここで用を足してい
く、という事を話されている。

多分、その話しは実話だろう。
普通、こんな場所にあるのはトイレくらいのものだ、誤解を受けるのも無理は無い。




なんにせよ、こんな場所には放置しておいていい理由は、一つも無い。


納骨堂正面の来賓席。 そうそうたる面々が並ぶ。 何が楽しいのか、にこやかに笑っている人もいる。


テントの中の人達には、にこやかに話しをしている人もいた。
私にはその笑顔の意味が、全くわからなかった。
色々な地方から人がくるのだから、久しぶりに会う人もいるのだろうが…



そうこうしているうちに、黙祷が行なわれ、献花が始まった。

参列している人々が順番に、納骨堂の建物の前にこしらえられた机に、花を上げ、
手を合わせている。
そんな告別式のような情景に、みんな、中に入って遺骨と対面した事があるのだろ
うか、疑問思った。 私は、あの遺骨達を前にして、手を合わせる余裕は無かった。


ここは納骨堂、元の名前は資料保管庫。 いずれにせよ慰霊塔ではない。 手を合わせている青年、彼は慰霊中ずっと不機嫌そうにしていた。 当たり前だ。 納骨堂の前の段に、一人づつ花を捧げていく。


黙祷には参加したものの、献花には参加する気にはなれなかった。

あの前に立ち、遺骨達の前ではなく、ただの囲炉裏のある部屋に向かって、
花を捧げて手を合わせている自分の姿を想像して、
その背中に、何か空々しいものを感じたからだ。




慰霊は、出来れば、誰も見ていないところで、人知れず静かに行いたいと思う。
今までも、そうしてきたように。



秋田理事長、あまりアイヌに見えないが、こういう人もいる。
一通り献花が終わった後、秋田理事長の挨拶が始まった。

「私達が受けた被害や研究の歴史を風化させてはならない」と訴えつつも、このイチャルパを「アイヌ文化の伝承に大きな役割を担っており」と言っており、なにか、煮え切らないものを感じる内容だった。


確かに、文化伝承の役には立っているのは本当の事にしても、経緯を踏まえると、その点を評価できるものなのかどうか、大変微妙な話しだと思う。
本当は、こんな場所ではない所で、アイヌが自分たちの手で、研究者の視線の無い所で、自分たちの為にイチャルパを行うのがいいんだろうけども、いまはこうせざるおえないのか…

課長だったか? 名前など忘れた。
その後に、大学の関係者か何かが挨拶をしたのだが、これはヒドイ内容だった。その内容を象徴する言葉を引用したい。

「北海道開拓の礎となられた先人アイヌの方々…」

この言葉は、私達アイヌの歴史と存在は「北海道開拓」という一大イベントと共に「礎となった」つまり、肥料となって消えて無くなった事を意味している。

このような言葉は受け入れられない。

何故なら、私達は「先人(普通は死んだ人や、昔の人を指す)アイヌ」ではなく、今、ここに生きるアイヌであるのだから。

「礎となって消えた」訳では、断じて無い。
私達アイヌは、開拓という名の侵略を受けたのだ。

両者の挨拶の全文を見る



あの時、駐車場の石を拾って投げつけなかった事が悔やまれる。
だが、私よりも遥かに年上の、大勢のアイヌ達が黙って聞いているのを見ていたら、情けなくて投げる気力もうせた、というのも本当のところだった。
それに、拍手までしていたほどだ。
案外、北大の人間の話しの内容なんて何一つ聞いてなかったのかもしれないが。


この時の無力感は、名古屋の文化フェスティバルで、埴原和郎の公演を聞いたとき
に感じたものと同じだった。

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2000年9月9日、名古屋で行なわれた「アイヌ文化フェスティバル」において
公演を行った埴原教授は『文化』フェスティバルの会場において、多くのアイヌ
も、地元の子供連れの参加者もいる中で、人骨のスライドや歯のスライドを上映、
「アイヌの人骨を500体も調べたのは私くらいだ」
「歯なら生きていても調べられる」等の、信じられない発言を伴う講演を行った。

その会場に居合わせた私は、あまりの内容に、自分が座っていたパイプ椅子
で埴原のアホ面を殴ってやろうかと思ったものの、
おとなしく、背広を着たアイヌが会場の脇に座っているのを見、
そのなんとも言えない光景に戦意を喪失した。

その後、壇上で保存会のアイヌ達が踊りを披露していた。
あんな内容の公演の後、どんなで視線見られるのかを考えると、いたたまれなかった。

彼らも自分も「変態学者の添え物」のように感じ、情けなかった。


アイヌ文化フェスティバルに参加し、考えた事

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イチャルパは、納骨堂裏手のヌサ場で行なわれた。 フチ達がイナウを囲炉裏から持ってくる。  イナウサンの前には、沢山の供物が用意された。


囲炉裏端より、フチ達により納骨堂裏手のヌサ場にイナウが運ばれ、たくさんの供物が並べられ、イチャルパが行なわれた。
一人づつ、イナウを指し、供物を捧げる。
どこの人だろうか、アイヌ語で祈りの言葉を上げている人がいた。
午前中のヌサオンカミでも祭主を務めていた人だろうか?
大変流暢で、しかもとても長い言葉だった。
最初は、あまりの流暢さに、テープが流れているのかと間違えたほどだ。

アイヌ語でカムイノミやイチャルパを出来る人はいなくなったと、
よく言われているが、居る所にはいるものだ、これには感心した。


一人づつイナウを捧げて、供物を捧げていく。
供物にはブドウやリンゴ、米にタバコにビスケット、素麺やスイカまであった。
順番にイチャルパしていくので、大変な時間がかかった。

昔から、イチャルパの主役は女だ。多分、始めてきたのだろう。
手取り足取り教わっている若い人もいた。
おそらくは、知り合いでも何でも無いであろう、おばさん達が、みんなでよってたかって若い人に熱心にイチャルパのやり方を教えている。
そこには、縁故以外の、民族としてのアイヌの繋がりが、確かにあるのを感じた。 そんな光景には、少し胸が休まった。


祭主がイナウにトノトをかけている。





そして、イチャルパが一通り終わった後に昼食があった。
みんなと共に、供養だからといって食べた。




そのあと、みんなでリムセを踊った。
よく響く声のフチ掛け声にのり、何度も何度も人の輪が回った。何故、この人達はにぎやかに踊れるのだろうかと疑問に思った。

大切に何かを置き去りにしているような気がして、
楽しく踊ってしまったら、何かを捨ててしまうような気がして、
私は、踊りの輪に入る気にはかれなかった。
前に踏み出すのを遮る、目に見えない壁があるような気がした。

フチ達の歌声にのり、輪踊りが続く。



ふと見上げると、白いテント書かれた「北海道大学医学部」という文字が目に入った。





みんな、それを忘れる為に踊っていたのかもしれない   

                                    …と、今は思う。

数々の供物を捧げられたイナウ



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