質問 なぜイラクの考古学の博物館は襲撃されたのでしょう。キリスト教の教義との関係はあるでしょうか
もし、中華的な帝国主義を告発するときに中国共産党の市場自由化政策は、東南アジアの少数民族やキルギスタン、ウイグル、チベット、内モンゴルなどの諸民族にとっては、黄色い禍だと言うのはどうでしょうか。漢民族は一説によるとこの3000年間ほどの歴史の中で100以上の少数民族をその帝国の内部に同化してきたと言われています。ゆえに、中国の漢民族の領域と言っても漢字の発音のバラエティーはふんだんにあると言われています。中華料理のメニュウではないのですが中華はいわば帝国の大きな倉庫なのでしょう。それは時に武器庫にも変化するようです。わたしたちはそのメニュウの外部なのでしょうかそれとも半分内部なのでしょうか。そういう歴史背景が作用してか東アジアには、正式な学問としての言語学や民族学が成立していません。民族学は帝国の手先と言うよりは、民族学が不可能なための代用品的性格があります。西洋列強のケースとは違います。ただ、それを過剰に批判材料にする中華的な植民地主義もあります。柳だ国男を植民地主義者扱いするのは、在日朝鮮人を先住民扱いするのと同じく無理があります。
下記の投稿は、あんどうさん宛てになっていますか、別に誰がレスしてもいいですよ。
>>あんどうひろきさん
>黄色い禍などないのだと言うのは妄想のひとつではないでしょうか。
はい、100%妄想です。
簡単に言うと、19世紀末から20世紀初めにかけて、西欧列強は植民地を拡大して、色々とトクをする(裏で手ひどい事をする)のですが、「植民地の人種」ま国であるはずの日本が台頭してきたり、中国人とか日本人の移民が宗主国に増えて来て、生活の基盤を築きはじめたので、自分達が間接無支配して、手を汚さずにいたもの達の「ニーズ」が、直接視野に入るようになってきた。
それに不安を感じた西欧列強で「黄色人種は世界に災いを起こす」とノタマッタのが黄禍論ですな。
黄禍論について知らない人は下記参照、
http://www.tabiken.com/history/doc/G/G029C100.HTM
ただし、西欧列強にとって、植民地として長年抑圧支配していたアジア(人達)が牙をむく、ということがいかに自分達の地位を脅かすか、という点に対する危機感を持っている。
という点に関しては「自分達の弱点の認識」としては正しいんですよね。
しかし、理由付けがいけない。
植民地になりたくなかった日本が奮闘して台頭した事や、宗主国でのいい生活を努力して獲得した移民の増大によって、単にパワーバランスが変わってきているだけなのを、
「黄色人種は何故増殖するのか」という感じの、まったく理屈のとおらない「自分達が世界のスタンダード感」丸出しの、一方通行なしの視点で語りだしたものだから、ただの差別のオンパレードになっております。
これは、もともと西欧列強が持っていた「植民地世界」の関する知識なり経験というものが、支配と差別の為の知識でしかなかった為、という事が深く影響しているのは、言うまでもありません。
内容的に上の続きです。
例えば、言語や文化物を一方的に略奪していく研究者達の任務は、
「いずれ滅びゆくであろう」先住民や植民地民の言葉や習慣や民族性を「帝国の博物館」に保存することでありました。
このような視点の場合「滅びゆく」原因は、ほぼ100%帝国の示恣意的な侵略行為によるものなのですが、その点はキレイに無視されて「かわいそう(あるいは純真な)な、愛すべき(哀れむべき)失われいく人々」という視点が貫かれます。
(代表格は金田一京介。また、幕末から明治にかけて、日本を旅した民族学者の視点にも似たものがありますね)
で、その「帝国の倉庫」に略奪されて収蔵された「宝物」たちは、どうつかわれるかというと、植民地民・先住民への支配や外交の道具として、徹底活用さるのです。
たとえば、身近な例でいえば、知里幸恵の書いたユーカラ(http://www.alles.or.jp/~tariq/rampuy.htmlにリンクあり)にたいして「日本文学である」という主張をする無神経な人が、最近出てきている、なんてのがあります。
「にほんの昔話」シリーズのようなCD付きの本に、しかも日本語で、アイヌの話し(当然、オリジナルはアイヌ語です)が収録されたりもしています。
別に、日本語訳で紹介するのがすべていけない、というのではなく「日本のむかしばなし」とした上で、原典がアイヌ語である、アイヌは先住民である、という事を明記せずに行うのは、無茶苦茶な同化姿勢だと思います。
また、宗教哲学ならいざしらず、アイヌ語で生きている人間が、日々の生活を語り継いだものを(アイヌ語で聞かないとわからない表現も結構あります)、「日本のおはなし」にするのは、知的な略奪であるともいえるでしょう。
(たとえば宗教でも「アッラーの言葉を(意味不明の部分も)忠実に記録した」イスラム教のクルアーンは、アラビア語のものが唯一の本物で、何語であれ翻訳したものは注釈書でしかない、とされています)
ちょっと前は、この手の本は「アイヌのむかしばなし」たったり、せいぜい「北海道のむかしばなし」だったのですが…
>東アジアには民俗学はあっても民族学は存在しないようですし言語学もそうです。
ここの所の話しを、もう少し詳しくお話ししていたたけませんか?
そうえいば「アジアには先住民はいない」という発言をした人が、国連か何処かにいましたね。
今年の夏に国連に行ったときに、色々な国や地域から来た「先住民」と話しをしましたが、
痛切に感じたのが2点。
●国連公用語であるアラビア語、中国語、ロシア語、英語、スペイン語、フランス語は、全て「勝った帝国の言語」である。
例えば、国連の建物のあるスイスでは、フランス語、ドイツ語、イタリア語がかなんりの範囲で使えるし、分かる人も多いが、国連の建物内では、フランス語以外は通用がさほど期待できない。
そして、日本語は当然全く通じない。そして、世界の先住民の殆どは「勝った帝国語」のどれかを日常語としている。私達の世界は、言語による支配によって成り立っている。
(なお、電源プラクの形も「植民地と宗主国」の関係を如実に残していて、笑えます)
●先住民にもいろいろとあって「独立した植民者の国の先住民」の方が有利である。
それはそうだ。
アメリカにせよブラシルにせよ、元々余所者たちが移住した後に、切った張ったやって独立した土地で「開拓物語」の記憶が残っており、先住民の居た事を認知させやすい。
日本や中国は、そのあたりの事が、ちょっとややこしい。
本来は、先住民はアジア地域には沢山いるはずなのだが、いない事になっていたり、来れなくなっていたりする。
あと、アラブ地域にも大量にいるはすなのだが、国そのものがモロ植民地支配状態なので、先住民というカテゴライズはまだまだムツカシそうだ。
わたしも砂澤ビッキさんの彫刻は好きでよく見たりしてきました。あのアイヌ独特の造形美と現代的洗練は見事なものだとおもっております。ピッキさんもそのようですね。アイヌの造形的美意識はもちろん縄文式土器に通じる躍動感や奔放さですよね。アイヌ語のビッキとは蛙のことですが、じつは山本多助エカシは、生前1960年代に九州地方を旅行されいろいろと地名や方言のアイヌ語との共通性について研究されていますが、九州地方でも蛙のことをビッキ、タカビッキ、ビッタどん、ビッキョなどとよんできました。ピッキョと言う呼び方もあります。
ブッダの教えはサンスクリット語でしか伝わらないのか、という疑問について言えばもちろんノーである。しかし、サンスクリット語はアーリア・ゲルマン・インド語圏に分類される古代アーリア語に起源するものである。日本に伝わった仏教は中華思想の混ざった宗教であり、いわば中華仏教であり律令体制の基を築き肉食を禁じる制度の媒体となったのはそういう仏教である。仏教にはブッダの直接記したとされる聖典はないがおそらく中国語の法華経などの聖典よりサンスクリット語の直訳のほうがよいかもしれません。中華思想の混入していない仏教のほうがよりましなのではないでしょうか。東北では蝦夷・アイヌは、大和の皇軍に侵略された後すぐに律令体制つまり天皇制植民地国家体制に組み込まれていきました。そのとき仏教寺院がすぐに多賀城などの城の隣に併設され蝦夷アイヌは狩猟から切り離されていったようです。近代の天皇制国家も同じく小中華的な帝国主義を再燃させ北海道アイヌにまでその侵略の牙を向けてきたのではなかったのではないでしょうか。そして、萱野茂さんがよく明治政府がアイヌに行った暴政として鮭の漁労の禁止を上げています。入植者の多くがそうしてアイヌの主食を奪いみずからの利益にしていったのでした。明治政府の植民地政策こそ批判されるべきでしょう。2001年国際司法法廷では、アメリカなどの植民地国家の植民地犯罪について明白に賠償責任のある「人道への罪」だと告発しています。もちろん同じ事が北海道アイヌに対して行われてきた侵略行為にも当てはまるのではないでしょうか。
17世紀には、狩猟採集生活を補助的なものとしてしまうほどの
商場知行制、あるいは、場所請負制のもと、
そこでの労働要員として、隷属的な扱いを受けるようになっていた・・・と推定されますから、
100年前には、狩猟採集を、主たる生活の糧を得る手段とはできなくなっていたものと考えられます。よって、この松前藩・商業資本共同経済体制による収奪経済が、どのようなものであったは、それぞれ、学習しておいた方が良いように思います。
そして、正しく、それらの関係を理解した方が良いと思います。
それは砂澤ビッキさんの事です。つい先日も音威子府の彼のトーテンポールが壊れたというニュースをみて・・とても心が痛みました。彼のアイヌ民族自立運動的な業績や作品こそが、将来のアイヌの運動の象徴になるべきだと思うからです。場合によっては、百万一千万の言葉よりも、彼の作品の方が雄弁だと思う。
このままでは彼の作品はドンドン失われてしまうので、レプリカでいいからすべての作品を保存する施設と、そのより商業向けされた製品によって日本や世界中にビッキを発信するべきではないかと思う。彼の傑作を多く持っている前五十嵐旭川市長なども死亡してしまったら、ビッキ作品は日本中に散逸してしまい消滅してしまうと思う(木彫が多いので)。
彼や伝記作者や多くの人々に、アイヌ人が主体となって、「ビッキ記念館」のようなものを呼びかけてはどうでしょうか?
たぶん、将来はここがアイヌ自立運動の拠点になるのではないだろうかと思う。たぶん、それだけの世界に通じるエネルギーや思想を、ビッキ作品やビッキの足跡は持っていると思う。
エサマンさんへ
世の中にはさまざまな妄想があります。しかし、妄想には原因があります。黄色い禍などないのだと言うのは妄想のひとつではないでしょうか。
引用してある文章は、文頭に「それと未来に関しては・・」とあるように、未来についての僕の疑問を述べたものです(主に若者を対象にして)。拠って立つべき基盤をほとんど喪失させられて、差別だけをいつまでも押し付けられるということになりはしないかと思ったのです。部落差別も過去においてそのような経過をたどったのではないだろうかと思う。
朝鮮半島や沖縄のように、まず言葉を奪われたという歴史を振り返るなら・・やはりバスク人のような試行錯誤や心意気を失い、固有の言葉を奪われて現在まで残ってきた民族って存在はあるんだろうか?と思ったわけです。中国の少数民族にはあるのかもしれないけど・
現在に関していうなら、ベストよりもベターを求めるべきであり・・ぼくなども昨日よりは一つでも多くアイヌ語を覚えたいと思う。より具体的には、観光地の見世物的な踊り・・などを、参加させる形式に変える事と、北海道の地名をすべてもとあったアイヌ語表記のアルファベット表記にすべきではないかと思う。僕も子供の頃、白老の観光的なアイヌの踊りを見た時の違和感は、それが観光用だからだったのではないかと思う。そこから脱する方法はー@みんなにも参加させるという形式か Aたとえそれが現在は実生活とはかけ離れてしまっても熊祭りや、梟の祭りのように、かつて交易品としてもっとも高価だったそれらを飼っていた歴史の重さを表現し、理解させるという方向性が必要ではないかと思う。
さらにその根拠地のようなものとしては、経済的な根拠地を作る事だろうと思う。
それはNPO的に、技能を修得する施設でありつつ、民族独自の伝統から現在に必要な製品を作る試行錯誤の場でもある。韓国のドングリを利用した食料や・・昔はあったという鮭の皮を利用した靴・服や・・僕が最も有望と思うのは、耳飾や冠やアイヌ紋様を利用したアクセサリー類です。
九州の久留米で実際に行われている女性専用列車は女性にかなり人気が高いようです。ただ車両が最後尾なのがやや問題なのでしょうが。北海道開拓、つまりその侵略の陰謀説は、こうです旧アイヌ土人法は、アメリカのインディアンを植民地支配するプロセスで作られた殖民法をもとにほとんどそれを丸写ししたようなものとなっているのをご存知ですか。アメリカでは1934年にその種の法は撤廃されましたが、日本では1996年まで持ち越されました。陰謀の定義を拡大すればいわば民意によらず不公正な政治的決定が秘密裏になされそれが実行されることとなるのではないでしょうか。少年よ大志を抱けとは果たしてアイヌの少年のことだったのでしょうか。また、アイヌ語はどのように剥奪されていったのでしょうか。北海道開拓の計画性は、別に民主的に決定された結果できたものではありません.民族学の定義からすれば民族は第一に生物学的な単位であり第二に文化言語だとされます。しかし、東アジアには民俗学はあっても民族学は存在しないようですし言語学もそうです。しかし、そのユニークさをあいまいなまま誇示することはあるようです。日本の本当の民族構成は、朝鮮民族、漢民族、ツングース民族、そして先住民縄文アイヌ民族でしょう。日本民族や大和民族と言うのは幻想です。大体、単一民族説とはそうゆう複数の侵略民族が共謀して帝国主義的な結託を行っていることを隠蔽するために主張されてきたのであり、縄文人という民族単位は日本民族とか大和民族などと言う架空の単位よりはるかに現実的なものでしょう。大体アイヌの方々は、100年程前の生活がいわば平和的な狩猟を中心にした縄文人的な生活ではなかったのではないのですか。わたしのいう縄文とはそういう意味ですし、おそらく三内丸山の遺跡の時代からそれほど大きく変化はしてこなかったのではないかと思います。言語の習得については、他の先住民の場合もそうですが失われたものを半ば復旧すると言うような形で文化財のように修復されることが多いようですその典型がゲール語なのでしょう。ただアイヌの共同体社会が自治的に運営されれば当然教育は自由に自らの言語を中心にするようになっていくのではないでしょうか。言語は民族の重要な属性ですがそれがすべてであると言うわけではありません。そして、言語はチョムスキーさんの言うように人類に普遍の能力です、どの民族でもどんな言葉でも話すことはできるのですが誰も話さなくなるとその言語は失われます。そして、いったん失われるとほとんど永久に失われてしまうのです。沖縄の音楽でも同じことでしょう。
itak anakune aynu-yaynup sinrici ru ne.
アイヌ語は大切だ。
言語は権利である武器だから、私達には「ほんとうの母語」を取り戻す権利がある。
しかし、権利は中身の無いものてもあるから、何もないのと同じとも言える。
そして、アイヌ語をやっていれば民族性が回復する、というのは、暴力的な発想でもある。
>文化の最も中心にある言葉を失ってはもはや民族とはいえないのではないでしょうか?
半分だけ同意。
確かに、言語は色々なものの中心であるから、大切だ。
しかし『言語は民族の心の根幹』というのは、
半分は正しく(言語ごとの考え方・言いまわしがあると同時に、他民族との壁ともなり強い影響力となる)、
半分は妄想である(果たして、ブッタの教えはサンスクリット語でしか伝わらないか?)
壁を作るだけが解決の道だろうか?
否、和人とアイヌの両方を供養するアイヌの私は、すくなくとも『完全に純粋なアイヌ』ではないし、そんなものは妄想が生み出したマボロシであることも知っている。
大切なのは、防御壁(この場合は和人にわからない言語)を作る事ではなく、壁なとなくても侵害しない配慮とモラルである。
独立国や自治区を作らなくても、もっと簡単に言えば、アイヌが多数派にならなくても(つまり暴力を振るう側にならなくても)、アイヌとしての権利が保障され、無神経や不寛容などの暴力にさらされない社会を作る事である。
アイヌ語が話せなくても、アイヌであると自覚できうる社会を作る事である。
聾唖者として生まれたアイヌの子は、アイヌにはなれないのか?
既に言語を習得するには齢を重ねてしまったアイヌは(殆どのアイヌはアイヌ語がわからない)、努力しても、アイヌとしての心が不充分なのか?
既に異言語である言葉を修得するには、大量の時間と資金を投入する余裕か、多くを学べる恵まれた環境が必要である。
残念ではあるが、現在のアイヌには、経済力も、アイヌ語を学べる環境も、両方足りない。
それらを克服する情熱を持つ人間はいるだろうが、極めて稀、簡単な言葉でいえば「変態」の部類に入る(私もヘンタイである)。
私は、アイヌ語を使っていこうと覚悟はしている。
アイヌ語を話していたアイヌ達に、少しでも近づきたいから。
しかし、だからといって、アイヌ語を話せない者人達や、時間を割けない人達(普通である)を「努力が足りない」と差別する気は無い。
だから「言葉を失ってはもはや民族とはいえない」という発想には、私は両手を上げて反対である。
ましてや、奪ってノウノウとしている和人に言われるとは、困った物である。
(いま、私かあなたと日本語でこうやって話しが出来るのは、アイヌに日本語を押し付けたヤツラの悪行の成果なんですよ。いまアイヌ相手に「言語を失っては…」と和人が言うのは、その行為を大肯定する事になりませんかな?)
>>あんどうひろき さん
>アイヌ文化振興策そのものが陰謀だ、とか北海道開拓そのものが陰謀だ、
えー「陰謀」の定義がなにか、によるのではないですか?
また、陰謀史観と、陰謀は、ちょいと違うでしょう。
例えば…
●アイヌ文化振興法は、アイヌが求めてきた法律制定のフリをして、文化だけのホネヌキ法になった(摩り替え)、
●文化たけのホネヌキ法にすると同時に、旧土法がらみで燻っていた共有財産を「財団の資金にしてしまう」という毒が入っていた(政府に不利なカードの清算)、
●文化を出来るアイヌは少なく、たとえ恩恵にあずかれたとしても、限られた予算の中で、争いや足の引っ張り合いが起きるようになった(分断の激化)。
という大きな問題点があり、このような事を引き起こしている裏には「日本政府の打算(つまり陰謀)」が働いていると考えてもいいでしょう。
これは、具体的な利害と戦略に基づいているものなので、安易なコンスピラシーセオリーとは違います。
(その文化法の成立は、ユタヤ人の陰謀が…となったら、明確に妄想ですがね)
あと、北海道開拓は、陰謀というよりはたたの侵略行為です。
ま、北海道開拓前後に、道庁の警察部と医者が共謀して行ったアイヌに対する医学調査は、
「アイヌは生物学的に劣等人種であり、彼らが困窮しているのは彼等自身の内的要因によるものだ(実際には和人の開拓が原因)」
というデッチあげを作り上げ、旧土人保護法の成立根拠となった、という意味では、明らかに『陰謀』ですね。
これも、明白に証拠と利害関係が絡んでいる物なので、安易な陰謀史観てはないでしょう。
>究極の決断について
いま現在起こっている植民地主義的状況を克服するのに、
●北海道に住んでいる和人が内地に移り住む、とか
●アイヌたけの独立国家(日本のような単一民族優遇独裁国家)を作る、という選択は、
ただ単に状況をややこしくするだけで、お奨めできないと思います。
特に、北海道で生まれ育った人間を強制移住するというのは、たたの弾圧であって意味がありません。
また、移住の際、様々な冨を持っていくと思うので、より北海道か貧しくなるたけでしょうね。
現在のアイヌは、原野があればシアワセ、というほど原始人ではありませんし。
この問題は、痴漢対策としての「女性専用車両」と同じ方向性の問題を含んでいます。
効果があっても、一時凌ぎにしかなりません。
●北海道が独立国家になる、というのは、
ある程度の改善が期待できるかもしれませんが、独立国家に対しても植民地的状況は続きますし(アメリカとその周辺国を参考に)『独立国家・北海道』内においてもアイヌは小数派のままですよ。
なにより『日本(内地)』に住むアイヌの立場をより深刻にする側面もあるので、理想的な解決方法ではないと言えるでしょうね。
てすから、いまの私達が置かれている、この状況下において、どのようなことをすれば、小数派であるアイヌの置かれている境遇を、よりマシに出来るのか、という事を考える必要があると思います。
イスラエルの二の舞をして、いいわけがありません。
簡単に『解決』できる問題では、ありませんよ。
http://www.alles.or.jp/~tariq/
究極の決断について アイヌに人々に長年悪いことをしてきた、もしくはしていると感じる方はぜひとも北海道を離れアイヌの人々を植民地主義から解放するのに協力いたしましょう。と言うのは決断としてはよいほうではないでしょうか。
「弥生」時代と縄文時代は同列には論じられないと思う。弥生時代の定義と言われているのは、鉄器などの金属器使用と稲作だと思うが・・稲作は縄文時代にもあったし、鉄器も限られた地方の支配者層だけと言えそうなので・・「弥生時代」は均一のものとは言いがたいく、縄文から古代ヤマト朝廷確立までの過渡期と考えるべきではないかと思う。
それに比べると約1万年間の縄文時代は遺跡・遺物などの証拠物件も豊富で同質的といえると思う。縄文土器や貝塚という信仰がうかがえる場所や、狩猟採集という生産形態や色んな遺物から推測可能なアニミズム的な文化や信仰にもっとも近いのが蝦夷や、蝦夷と極めて似通っているアイヌ民族なのではないかと思う。あれほど長期で高度な内容の縄文時代が栄えた地域が、縄文文化とあまり関係ないとは言えないだろうと思う。
その長期で基層的な縄文文化というものが、日本人が千数百年間以上ものあいだ大陸からの渡来人に侵略されながらも同質的な理由だと思うし、またそれが、アイヌ民族と古代日本人の信仰にかんする言葉のほとんどが一致したり、信仰内容や言葉にも似通った点が多い理由ではないだろうかと思う。そして、現在のアイヌ人と日本人の信仰の類似点にまで影響しているのではないかと思う。僕はこのように仮説を組み立てるが・・もしもっときちんと説明可能な仮説が現われたらそれを土台にしてまた考えるし・・そういう繰り返しではないだろうかと思う。その他に、アイヌ民族と古代日本人の信仰の類似性や蝦夷とアイヌの類似性についてのより論理的に説明可能な仮説があるのなら是非教えていただきたい。
それと未来に関しては、いったんはほとんどバスク語が廃れてしまったバスク人のように、血統的云々ではなく・・バスク文化を愛し、自分がバスク人だと思い、特にバスク語を話そうとする人間がバスク人なのだ・・という方向こそが、回り道だけども、アイヌ民族の未来の方向だと思う。文化の最も中心にある言葉を失ってはもはや民族とはいえないのではないでしょうか?
究極の陰謀セオリー、それは、日米安保条約体制は陰謀だとか、天皇制そのものが陰謀だとか、アメリカ合衆国の存在そのものが陰謀だとか、アイヌ文化振興策そのものが陰謀だ、とか北海道開拓そのものが陰謀だ、とかというところまで行き着いてしまうがそこまで行くと世間に棹差すことになるので穏健な妥協点を探そうとするのが人情なのかもしれない。
エサマンさんへ 陰謀の歴史についてのホームページには、一概に否定できないものは多いようです。ただ、弥生人の犬食いの歴史や、古代の縄文人の受けた侵略に関しての考古学的証拠は多いのです。考古学ジャーナル紙のバックナンバーを拝見されればそういう研究の明白な証拠は山ほどあります。もちろん考古学の中にも嘘はありますが、そのほとんどは弥生考古学のほうでしょう。かつてアイヌはコロボックルが、アイヌより先に存在していた小さな民族と教えられたようですが、どうもそのこと自体が政治的なペテンであったとも言われています。また、アイヌ言語学者、金田一京助に関してもアイヌの言葉を意図的に消滅させたりその文化としての言語の機能を無力化するように画策した父子があります。そういうことは、ある程度か過去の政治的犯罪に近いものとして
告発しうるのではないかとさえ感じてもいます。
お勧めのコンスピラシーセオリーのホームページを拝見しました。わたしは頭にくると時々クマになってしまう癖があります。アメリカの映画にそういう題名のものがありますが、主演はメル・ギブソンです。陰謀についてはマイケル・ムーアさんのように明るく告発できればと思っています。オーハについてですが、orhaというアルファベットを知るのみですが、世界衝突教団の世界本部たる五角形の錯乱者の建物の中にある部署でしょう。もちろん、その教団の日本支部もあるようです。そういうことは二流のスパイ小説より退屈なものでしょう。ただ、それを正当化するマスメディアの情報かく乱、世論形成が精神的な健康にすこぶるよくないようです。陰謀の陰謀は陰謀だ世界に広げよう陰謀の輪には加わりたくないと感じております。エサマンさんも気をつけてください。あほで間抜けな日本人にはなりたくないですね。
くまのくまそさん、始めまして。
北海道のいい加減な当て字地名に対するいきどおり、ありがとうございます。
九州の地名も、日本語ではないものを当て字にしたのは、多分明白なことだろうと思います。
当て字にされた時期に、相当な違いはあるのでしょうが、その行為の意味する所は、おそらくは同じでありましょう。
ただ、日本各地には蝦夷や熊襲のような「まつろわぬ者」が居たという事や『日本語』ではない言葉を話していた、という事を、
「縄文人」という、実体のないブキミなシロモノでくくるのは、単一民族妄想の持つキケンな物と、同じものに繋がると思うので、頂けないとも思っています。
『縄文人』という単一民族が居たとおっしゃる皆さんは、その縄文人に、会った事あるんですかね?
骨や器や建物の跡しかみつからない人々を、勝手に同じ民族として括ってしまって、いいんですかね?
民族とは、DNAや衣服ではなく、私達は○○であるという帰属意識が大切であるはずなのに、遺骨にそれを確かめたとても言うのでしょうか?
少なくとも、アイヌである私は、今現在『縄文人』ではありません。
現代の朝鮮人が『弥生人』ではないのと同様に。
(アイヌに対して「縄文人の末裔」と言う方は、同様に朝鮮人に「弥生人の末裔」と言い放たなければ、平等ではありませんぞ)
縄文人が誰であったかを考える私達(つまり、今現在その人が誰であるかが大切)は、とか、
縄文人を考える事で、同じ心意気を共有する私達、という視点なら、多いに共感するのですがね。
マユか太いかどうかなんて、気にしたくないのですが(笑)。
http://www.alles.or.jp/~tariq/
あんどうさん、ご意見ありがとうございます。
コンスピラシーセオリーって、つまりは陰謀史観ですね。
私は、陰謀史観はたたの妄想なので信じませんが、利害を考えて、可能性のあるものを論じる分には、いい結果をもたらす事もあろだろうと思っています。
例えば、自衛隊派遣が決まっている段階(例えは選挙後)で、外交官が暗殺された場合、武装した自衛官の派遣の根拠を補強する事はあっても、中止への圧力形成にはならないのではないかと思います。何事にも流れがありますので。
そのような状況を考えると、少なくともアメリカは、日本の外交官が自衛隊派遣が決まってしまった後に暗殺さる危険があったとしても、積極的に阻止したりはせんでしょうね。
まぁ、外交問題に配慮して、表向き、最低限のことはやるフリはするでしょうが。
そういう状況に対して、アメリカの陰謀の可能性だってある、というのは、ま、アリなんじゃないですかぁ?
ただ、利害とか前後関係を無視して、たたのネガティプイメージだけで陰謀説を唱えるのは、頂けませんよね。
(ただ漠然と「ユダヤ人の陰謀だ」とか)
たとえば、活動をしているアイヌの間には「ウタリ協会・コンスピラシー」がありますし、
一部の考えの足りない(情報収集地からに劣る)アイヌの間には、上手く解かない事を、何でも俺のせいにする「エサマン・コンスピラシー」が存在します。
陰謀史観は、基本的にただの妄想ですが、理由となるものは存在しますからね。
例えば、なんてもかんてもウタリ協会の陰謀というのは言いすぎですが、政府からの資金を分配する機能を持っているウタリ協会には、政治資金の流れについて回るような闇の部分も少なくありません。
いろいろと、とんでもなく腹黒いことをしている人もおりますので陰謀もあるでしょう。
「ある程度のまとまった数のアイヌを把握している」のが同協会のセールスポイントで、私服を肥やしている一部の協会員にとっては「そのことを理由にカネが降りるシステムの保全とコントロール」が目的である、という事を考えた上で、陰謀(差金)であるかを判断する必要があります。
つまり、アイヌがウタリ協会外でアイヌとして集ってみたり、補助金が降りつづけるシステムを修正したり破壊したりしようとすると、利害の関係から「ウタリ協会で私腹を肥やす悪者(一部の人間です)」からの妨害を受ける可能性は否定できませんね。
上手く行かない事をエサマンの陰謀と考えるのも、ただの妄想ですか、エサマンの主張通りのことが実際に起こってしまったり、エサマンと同じ事を言って頑健に抵抗するアイヌがいたりすると「あいつのさしがね」と考えたくもなるのかもしれません。
インターネットという手段を使ったり、国連行ったりして、全国区で少しだけ目立っている(他に目立つ反抗者がいない)、のも一因と言えるでしょう。
ただ、そういった現象は、エサマン自身の見に起こっている事が、単に他のアイヌの身にも起こっている手だけで、そのことでエサマンのトクには全くなっていない、という事を考えれば、そのような考えが被害妄想てしかない事は、よくわかると思います。
しばらく前に、組織的に襲来した荒らし達が行っていた「エサマン・エセアイヌ説」も、同様といえます。
単に悪いウワサを流して妨害をしているだけで、目的は、国連・東京にまで顔を出すエサマンの妨害と、注目される掲示板での、自分達の宣伝。
そういえばあの連中、東京で行われた国連参加者の報告集会にも妨害に来たとか? なんとも単純な話しですね。
コンスピラシーについては下記が面白いですが…
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-41.html
「同じ民族同士の自然な連帯感」などという無茶な妄想(そんなものは存在しない)を書いていたりするので、著者の想像力には足りないものかあるようにも思います。
ところで、ペンタゴンのオーハって何ですか?
http://www.alles.or.jp/~tariq/