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伝説の中のアイヌの先達(古代から和人の到達まで)


アイヌを巡る歴史は、アイヌモシリへの和人の到達
(正確には、本格的な和人の権力集団の移住の開始)から、おおきく変わって来ました。
ここでは、その和人の移住が本格化したきっかけと言われる、道南への安東氏の移住より以前の記録を集めました。
ですが、文字を必要としない民族であったアイヌは、人の言い伝えでカバーできる範囲を超えた歴史、
(自分たちの発祥の神話や、祖父の言い伝え、今を生きる人々の間の物語など)特に古代期に関する資料が大変少ないです。

発掘によって発見される土器や遺骨、遺跡などから様々なことを推察できますが、
それらによって推測できる「人々の動き」では、その人々が何を考え、自分たちをどう捉えていたのか、
という意識の部分に関しては、全く判りません。
よく「縄文人」などという人間集団が存在したかのように語られますが、それは心有る人間を、
骨と土器の特徴によって分類しただけの大変乱暴な断定であって、民族呼称ではありえません。

結果として、この時代の記録の多くは、アイヌ民族を夷狄(支配すべき異民族)として
見ていた人々の視線によるものが中心になり、あまり好ましくない表現も多数含まれています。
(蝦夷は獣のようだとか、尻尾が生えているとか)

まぁ、別に戦国時代や奈良時代の切った張ったの物語を知っていても、
その人の今に、何かが変わるものではないように、
歴史上のの細かな事例よりは、今どう生きるかがが大切であると考えますが、
「アイヌ」を巡る歴史の流れをおおまかにでも掴む事によって、現代を生きるアイヌが、みずからの中の
「アイヌ」と向き合う事に、何かの一助になるものがあると思い、出来る範囲で、
「アイヌだと思われる人々」の動きがわかるような資料を収集しました。

なお、年表内の「蝦夷・粛慎・骨鬼・苦夷・狄・夷人」などの表記は、それぞれの視点の民族や集団が、
アイヌ、もしくはアイヌの近隣の諸民族に対してつけた呼称で、
それぞれが現代の何民族をさしているのかどうかは、時代や状況によって変化し、定かではありません。

とりあえずは、古代の日本の記録における「蝦夷」はエゾ・エミシと呼称し、
アイヌ民族そのもの、あるいはアイヌに大変近しい民族に対して呼んだ呼称であると推測されています。
また「夷俘」「俘囚」「熟蝦夷」とは、「蝦夷」の中で、和人の政権に恭順した、あるいは恭順しているフリをしている人々、
捕まってしまった人、大和朝廷に組み込まれてしまった人々を指す、大和朝廷側の勝手な政治的呼称であって、
この資料を読むときには、それぞれの立場に合わせて適時「エミシ」「東北人」「アイヌ」などに呼び換えて読んでください。

また、この時代のアイヌに関わる資料は、日本の資料が中心となっており、
当然、当時の和人政権の最前線であった東北地方の歴史が多くを占めますが、
これは、現在東北地方に住む人々や、縁故を持つ人々までを、当人達の意思に関わらず、
「アイヌ、あるいはアイヌにゆかりのある人々」であると断定するものではありません。

アイヌモシリ総合年表(古代から現代までの、アイヌの歩み)
和人・ロシア人との狭間で(和人の入植から明治維新まで)
同化政策と近代化の中で(北海道命名から戦争終結まで)
蘇るアイヌとしての自覚(戦後から現在まで)

西暦

日本暦

アイヌ民族の辿ってきた歴史

主要な出来事

637

舒明9

この年、蝦夷が反乱するとの記述がある

647-648

大化3

大和朝廷、渟足柵(ぬたりのさく・新潟市)、磐船柵(いわふねさく・新潟県村上市)、
都岐沙羅柵(つきさらのさく・秋田県)を設置、現在の新潟〜秋田南部を分割支配する

655

斉明1

大和朝廷、難波宮で越と陸奥の蝦夷を歓待、柵養蝦夷と津軽蝦夷を叙位

クルアーン編纂

658-660

斉明4

大和朝廷の阿倍比羅夫、軍船200隻を率い日本海を北上、蝦夷に侵出
渡島蝦夷(アイヌ?)と接触、「粛慎(アシハセ、実在の民族かどうかすら不明)征伐」の為に、陸奥の蝦夷を連れて大河の河原に至る、との記述(日本書紀)この「大河」は、アムール河口川、石狩川河口、岩木川河口など諸説ある

アリー暗殺、正統カリフ時代終焉

659

斉明5

大和朝廷の阿部比羅夫、後方羊諦(シリベシ・正確に何処の事かは不明)に郡領を設置
遣唐使、陸奥蝦夷を唐に連れていく

696

持統10

大和朝廷、渡島蝦夷・伊奈理武志(イナリムシ)、粛慎・志良守叡草(シラスエ)らに錦などを送る

8世紀初頭

大和朝廷、平城京建設
イスラム軍、イベリア半島に侵入

709

和銅2

大和朝廷、巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍に、佐伯石湯を征越後蝦夷将軍に任じ、陸奥と越後の蝦夷を討伐させる

710

元明天皇、元旦の朝議に蝦夷と隼人を参列させる。

718

養老2

渡度島蝦夷87人が大和朝廷に対し、馬千匹を送る

724

神亀1

陸奥・海道の蝦夷が大規模な蜂起
大和朝廷、藤原宇合(うまかい)を持節大将軍に任命し派遣、多賀城(宮城県多賀城市)設置、東北支配の為の政治的な拠点。

727

神亀4

渤海王の使節高斉徳ら24人が出羽の海岸に到着、しかし途中蝦夷に襲撃され、入京できたものは8人だった。

737

天平9

大和朝廷の鎮守将軍・大野東人が大軍を率い、
多賀城から出羽柵の交通ルート確立の為に出撃するも敗退

750-780

大和朝廷、桃生城、雄勝城、伊治城などの城柵を東北各地に設置、支配を強める
陸奥地方に多数の金山を開発し、本格的に採掘を行う

中央アジアのタラス河畔で、イスラム軍が唐軍を撃破、中国の製紙法が伝播
唐僧鑑真来日、大仏を開眼する

760頃

大和朝廷の東北支配の拠点、秋田城が確立

774

宝亀5

蝦夷宇漢迷公宇屈波宇(ウカンメノキミウクハウ)が城作より逃亡、それと共に蝦夷・俘囚(恭順した、あるいは恭順しているフリをしている蝦夷)が大和朝廷への朝貢停止、陸奥の海道(気仙地方)蝦夷が桃生城を攻略。
大和朝廷の大伴駿河麻呂、軍勢を率いて東北に侵攻
(以後811年まで東北地方では「38年戦争」が継続する)

778

宝亀8

大和朝廷の出羽方面の軍が蝦夷に敗退。
大和朝廷はこのころ、蝦夷への軍事行動には俘囚(つまりは蝦夷と同じ人達)から編成した俘軍を多数動員し、中央政府から派遣された軍隊は少数だった。

780

宝亀11

砦麻呂の蜂起
同僚からの差別や、城作の造営への地域住民の酷使などを起因として、俘囚(つまりこの場合は柵の役人の一人の蝦夷)の陸奥国上治郡大領、伊治公・砦麻呂(イジノキミ・アザマロ)が蜂起、伊治城にいた参議・陸奥国按察使紀広純(あぜちきのひろずみ)、道嶋大楯(みちしまのおおだて)らを殺害。
多賀城陥落、出羽地方の蝦夷へも蜂起拡大。

784

大和朝廷の光仁、大伴家持(海ゆかばの作者)を征東将軍として陸奥に派遣するが、高齢の為にまもなく死亡

788 延文7 大和朝廷の桓武、蝦夷の鎮圧の為に紀古佐美に5万の大軍を与え派遣する

789

延文8

衣川の戦い(巣伏の戦い)
5万の大軍を率いた大和朝廷の紀古佐美は多賀城を北進、北上川を渡河し、エミシの集落を焼き払いながら侵攻するも、胆沢(岩手県水沢市)のアテルイ(阿弖流為)の巧みな戦術により敗北する、アテルイ側の兵力は1500名だったと伝えられる(第1次東北侵攻)

790

延暦9

大和朝廷の桓武、対蝦夷戦争継続のために軍事改革に乗出す。
幾度も諸国に武器と食料の生産を指示

794

延暦13

第2次東北侵攻
大和朝廷の桓武、大伴弟麻呂、百済王俊哲、坂上田村麻呂らにに10万の大軍を与え東北に派遣するも、翌年撤退

大和朝廷、
平城京から平安京へ遷都

801

延暦20

第3次東北侵攻
大和朝廷、征夷大将軍・坂上田村麻呂に4万の兵を与え派遣、胆沢蝦夷を制圧。
大和朝廷、胆沢城(いままでの城柵とは違い政治的拠点だった)を設置し、東北支配の中枢とする
この戦役に協力し、捕らえられ、あるいは降伏した「まつろわぬ蝦夷」である俘囚や夷俘は、全国各地に強制移住される事になる

カール大帝戴冠

802

延暦21

アテルイとモレ(母礼)、500余人を率いて降伏、平安京に連行される。
大和朝廷、狄土(つまり蝦夷地)の産物の私的交易を禁止(つまり貿易統制)
しかし、これ以後も頻発する

カンボジア王国成立

803 延暦22

アテルイ父子、京都(平安京)の帰りに大阪(河内国杜山・現枚方市)で虐殺される。
大和朝廷、志波城(盛岡市)を設置

811

弘仁2

大和朝廷の征夷大将軍・文室錦麻呂、爾薩体、弊伊(ニサッタイ、ヘイ、それぞれ岩手県)の蝦夷を侵略。

855

斉衝2

東北地方で大規模な飢饉、陸奥の俘囚同士が衝突。

875

貞観17

渡島の荒狄(アイヌ?)が水軍80隻で秋田地方に襲来、百姓21名殺害。

878

出羽国の夷俘が秋田城を襲撃(元慶の乱)
大和朝廷、藤原保則らを出羽国権守に任命、蝦夷の盗伐に派遣する。

893

寛平5

渡島の狄(つまり蝦夷)が奥地の蝦夷と戦闘をしようとしていると出羽国が大和朝廷に報告。

939

天慶2

出羽国で俘囚が蜂起(天慶の乱)

これ以後、記録はほぼ途絶え、詳細はわからなくなる。
1000年頃には、東北の豪族同士の争いである前九年(1051-62)の役、後三年の役(1083-87)などが発生し、混乱を極めた。

970、カイロにアズハル・モスク建設、
世界最古の大学

1019

刀伊(女真)の入寇

1057

天喜5

施屋、仁土呂志、宇曽利の夷人、蝦夷管領・安倍頼時(俘囚の系譜に繋がる豪族)の軍と衝突

1067

治暦3

源頼俊・清原貞衝らが、衣曽別嶋(えぞのわけしま?)を侵略

平清盛、太政大臣に

1185

文治2

屋島・壇ノ浦の合戦、平家滅亡

1189

文治5

鎌倉軍閥の源頼朝、奥州に侵攻し藤原氏滅亡、奥州惣奉行を設置、御家人を行政官として派遣し奥州の支配を強化。結果、津軽周辺以外の「俘囚」の豪族の勢力は衰退・解体される。

第三回十字軍
源義経死亡

1191

建久2

源頼朝、京中を荒らした強盗ら10名を夷島に流刑(都玉記)。他にも罪人を多数、夷島に流刑したとう記述がある(吾妻鏡)

1192

建久3

源頼朝、征夷大将軍となり鎌倉幕府を設立。


1206年のモンゴル高原の統一に伴い、モンゴル軍(後の元軍)の活動が活性化、1211年華北に侵入、1231年高麗に侵入、1259に服属。 この拡大は、アムール川流域で活動領域が接触していたアイヌの諸勢力にも影響を与える。

インドのイスラム化進行

13世紀頃

津軽に十三湊(とさみなと)成立、西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。アイヌの交易舟や京からの交易船などが多数往来した。

1216

鎌倉幕府、京都東寺の強盗海賊50余人を奥州に送致、夷島に流刑を命ずる。

1219

源氏滅亡、北条執権開始

1264

文永5

元軍がアムール川下流域に侵出、東征元帥府を設置、服属する吉里迷(ギリミ、ニブフ?)と対立している、周辺の骨鬼(クイ、アイヌ?)と衝突。これ以後、元軍は骨鬼と44年間もの戦いを展開する

トマス=アキナス
神学大全

1268

東北地方で、蝦夷が大規模な蜂起を起す
同時に蝦夷管領の安藤氏にも内紛が発生、これに対し、鎌倉幕府は大軍を派遣。(奥州征伐)この幕府軍に南部氏が甲斐から従軍した。この戦争で安藤氏は未開人である蝦夷に首を取られたと日蓮が記述。これ以後、一世紀ほど蝦夷の蜂起は相次ぎ、蒙古襲来と合間って、鎌倉幕府衰退の大きな原因となる

1274

元軍(高麗軍)が北九州に襲来し、鎌倉幕府が迎撃(文永の役)

マルコポーロ東方見聞録

1281

元軍が北九州に再び襲来(弘安の役)

1284-6

元朝のフビライ、軍勢をカラフトに派遣、現地の骨鬼と衝突する

1296

元軍、琉球の沖縄本島に襲来、島民130人を連行

1297

骨鬼、海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突

1308

骨鬼、毛皮の朝貢を条件に元軍と和睦

バビロン捕囚開始

14世紀頃

この時期には、流刑者や敗退した武士、季節労働者として渡来していた東北・北陸方面の人々などが、ある程度、道南地方に定住していた模様。

英仏百年戦争
ルネサンス興る

1323

元亨3

戸上宮寺の聖徳太子絵伝完成(太子蝦夷鎮撫の絵が含まれる)。

1326

正中3

鎌倉幕府、陸奥蝦夷の鎮圧のため工藤祐貞を派遣 。

1333-7

鎌倉幕府滅亡・室町幕府成立・南北朝時代に突入
このころ、日本人政権の中枢では二つの天皇と二つの将軍府が覇権を争い、京都で市街戦などを展開、住民は重税と戦火に喘いだ。鎌倉幕府の管理システムは崩壊し、各地の豪族は勝手に行動し、東北などへの管理も行き届かなくなる。

1356

延文1

『諏訪大明神絵詞』のなかで蝦夷(アイヌ)のことに言及。
文面の中で、蝦夷の呼称として「アイヌ(と推察される当て字)」と当てている、記述対象が現在の「アイヌ民族(自分たちをアイヌと呼称している事が確かな「蝦夷」)」の直接の先祖に当たると断定できる最古の資料。

ヨーロッパでペスト大流行

1387

東征元帥府の元軍崩壊、骨鬼の勢力、アムール川流域まで進出。

15世紀初頭

この頃、津軽十三湊を拠点とする安藤氏、日本海貿易を独占し、安藤水軍成立。

室町幕府、明と勘合貿易開始

1411

明の官吏イシハ、アムール川下流域まで進出し、元の東征元帥府跡に奴児干(ヌルカン)郡司を設置し、出先機関の「衛」をカラフトなど3箇所に設置、苦夷(アイヌ)と交易する。

1443 嘉吉3

安東盛季が南部氏に破れ、津軽十三湊を放棄し、蝦夷島に逃げ渡る。この後、多数の豪族が渡来、和人によるアイヌ・モシリへの本格的な移住始まる。


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なお、本年表では、本来は「アイヌ以外の場所での出来事」も、
アイヌに対し密接な影響を与えた事件で、説明文が長くなるものは、
スペースの関係上もあり、「アイヌ民族の辿ってきた歴史」の欄に記載されています。
ですから、大和朝廷の記述が頻繁に出てくるからといって、
アイヌ民族が「日本の一部」という意味ではありませんので、あしからず。


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