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蘇るアイヌとしての自覚(戦後から現在まで)



伝説の中のアイヌの先達(古代から和人の到達まで)
和人・ロシア人との狭間で(和人の入植から明治維新まで)
同化政策と近代化の中で(北海道命名から戦争終結まで)

西暦

日本暦

アイヌ民族の辿ってきた歴史

主要な出来事

1945

昭和20

日本帝国敗戦・無条件降伏
沖縄では住民を捨石とした地上戦が戦われ、ヒロシマ・ナガサキには原爆を投下され、あまりにも多くの犠牲を出した後、本土での戦闘を前に日本政府は降伏文書に調印、玉音放送と共に無条件降伏した。15年のながきに渡り、広くアジアを巻き込んだ戦争はここに終結する。

ソ連参戦、日本政府がアイヌを殺戮した後に、不当に占拠・殖民を続けていたクナシリ・エトロフなどの「北の島々(アイヌから見ると東の島々)」を占領。この時の「ソ連による占拠」を不当と文句を言っているのが、いわゆる「北方領土」問題である。アイヌから見ればどっちも強盗。

皇民化・戦時体制化ではアイヌ協会などの活動も停止状態だっだが、敗戦による「解放」を期に盛んになった労働運動などと共に、大きな盛り上がりを見せ、幾つもの団体が出来る。

第二次世界大戦終結
GHQによる財閥解体指令

1946

昭和21

社団法人北海道アイヌ協会設立(現ウタリ協会)
静内町で「全道アイヌ大会」が開催され、多くのアイヌが集まり再結成されるも、次第に行政主体の組織の実体が明るみになる。機関紙「北の光」を発刊。

高橋真、札幌にアイヌ問題研究所を設立、アイヌ言論機関誌「アイヌ新聞(-48)」を発行、アイヌ協会の腐敗を「御用協会」と糾弾する。

第1次・第2次農地改革
進駐軍により農地が農民に払い下げられ解放されるが、同時に旧土人保護法で給付された土地も改革の対象となり、矛盾が発生する。

極東国際軍事裁判

1947

昭和22

「北海道」やっとで植民地ではなくなる。
4月、北海道初の第1回統一地方選挙により田中敏文が初の公選長官となる。
5月、北海道庁廃止、普通地方公共団体北海道が発足。同時に北海道庁長官は北海道知事になる。

インド独立
冷戦始まる

1948

昭和23

この時期を境に、アイヌ協会を始めとする諸々のアイヌの活動の多くは停滞した。

世界人権宣言採択

1949

昭和24

北大西洋条約機構(NATO)成立
中華人民共和国成立

1950

昭和25

朝鮮戦争勃発
かねてより続いていた米・ソのによる冷戦と世界分轄が、朝鮮半島を舞台とした戦争に発展。同じ民族同士が先祖の土地で殺し合いを行う悲劇が起こった。一方日本では、この戦争での物資需要による特需景気により経済が進展した。

翌年、サンフランシスコ講和条約。

1953 昭和28

知里真志保「分類アイヌ語辞典」

人類学会において、和人学者・河野広道がアイヌ人食い人種説を唱え、知里真志保が反論、決別する。

シャクシャイン300年祭
静内町真歌の丘で、ケパウの会がシャクシャイン300年祭を開催。当初は観光ではなく、教師や学生有志が集まって、アイヌとシャクシャインの歴史を語り合う祭りだった。

日本でのテレビ放送始まる 。
DNAの分子構造解明。

1955 昭和30

イヨマンテ(熊送り)禁止される

ワルシャワ条約機構成立、これにより東西冷戦に世界が分断される構図が成立。
電気炊飯器発売

1959 昭和34 金田一京助、金成イメカニ「ユーカラ集」

日米安保闘争
キューバ革命

1960

昭和35

北海道アイヌ協会、再建総会開催

60年安保闘争 YouTube

1961 昭和36

北海道アイヌ協会、北海道ウタリ協会に改称
暫く活動を停止していたアイヌ協会は名称変更し再出発を計る。
この当時(いまでも)激しい差別の為、「アイヌ」という呼称を当のアイヌが使用をためらったり、忌避したりする事件が多発していた。会員らからの要請もあり、一見してアイヌとはわからない同胞・親戚などを意味するアイヌ語である「ウタリ」へと呼称を変更した。
この当時は事務局は道庁の民生部内にあった。会員数は1500世帯、8500人ほど。
不良環境地区改善施設整備事業・開始される。

シャクシャイン祭り開始される
この年、静内の観光協会は真歌の丘の砦跡で行なわれたシャクシャイン300年祭りに注目、これを観光資源としてPRを開始。
静内のウタリ協会は観光主体の事業に不参加を表明。

1964

昭和39

全道アイヌ祭り
旭川市の支援の元、川村カネトアイヌは、全道からアイヌ約230名を招き、アイヌ民族の生活や文化の向上、紹介などを目的とした巨大な大会を開催する
市営球場でのイヨマンテ(実際には送らず)や川下り、料理教室、ウポポ大会、ユカラ大会、弁論大会などの16の行事を五日間に渡って開催、氏の「アイヌ根性」と、民族アイヌの健在ぶりを内外に誇示した。
尚、ウタリ協会は祭りの呼称に「アイヌ」を冠する事に抗議し、協力せず。
この当時は、ウタリ協会の謎の対応にみられる通り、アイヌにとって最も生き辛かった時代の一つであった。かような情勢の中、大会に邁進したカネト氏の「アイヌ根性」は誠に敬服に値する。

東京オリンピック。

アニメ・鉄腕アトム、鉄人28号放映。

1966

昭和41

「南北の塔」建立
かつて沖縄戦を戦った兵士であった、アイヌ民芸使節団の弟子豊治が沖縄に訪問。弟子豊治の戦った場所であった真栄平の地域住民と共に、アイヌの兵士、沖縄の人々など、あの戦いで亡くなった全ての人々を祭る慰霊碑を建立。北から南まで、多くの人々がここに眠ることから「南北の塔」と名付けた。碑の側面には「キムンウタリ」の銘も刻まれている。

ベトナム戦争が激化 。

1968

北海道百年記念祝典開催 札幌郊外に開拓記念塔を建設。これを山本多助が侵略の塔であると批判。
東大・日大で学園紛争発生。全学連結成。YouTube

1969 安田講堂攻防戦 学費の値上げに端を発した学生による反対闘争が激化、篭城を続ける学生に大学当局は警察による排除を強行。はじめて火炎瓶が使用される。YouTube

1970

昭和45

有珠火力発電書反対闘争開始
北海道電力は、伊達に火力発電所を建設すると発表。これに対し、このころ各地で問題化しつつあった公害問題に注目した周辺漁民が反対闘争を開始。アイヌの漁民の活動も活発化し、数年間に渡り実力闘争を継続、機動隊との衝突や反対派磯船の沈没、多数の逮捕者を出した激しい戦いであった。

北海道旧土人保護法廃止案、全道市長会総会で採択。

風雪の群像事件
旭川市常磐公園に北海道開拓を記念して5体の像からなる群像が建設された。「波涛」「大地」「沃野」「塑風」「コタン」と名付けられた群像の実体は、伸び伸びとした和人の彫像の中、アイヌの古老はただ一人、膝をついて和人の入植者たちを案内しているという、随分アイヌをバカにし、開拓という名の侵略を美化たものであった。
製作者・本郷新に対して様々な批判が展開されたが、作者はアイヌの古老を切り株に座らせたに留まった。
この姿勢を彫刻家・砂沢ビッキは激しく批判、街頭ででビラ撒きを展開した。

シャクシャイン像建設
シャクシャイン顕彰会が、静内町真歌の丘に、観光目的ではなく、松前藩と戦ったアイヌの記憶を伝える為に、シャクシャイン像を建立。

鳩沢佐美夫「対談・アイヌ」を日高文芸誌上で発表。

日米安保条約自動延長(70年安保闘争YouTube)。
万国博覧会。

三島由紀夫が自衛隊に押し入り割腹自殺。

アニメ・巨人の星、アタックNo1、あしたのジョー放映。

1971

昭和46

東アジア抗日武装戦線、興亜観音像、殉国七士の碑を爆破。
鳩沢佐美夫死去、遺骸は警察の手によって裸にされて転がされた。
この当時、ウタリ協会の会員数は15000人、アイヌの総人口は77000人ほど。

沖縄返還協定調印。

1972 昭和47

結城庄司・山本一昭ら、釧路より札幌に進出。部落解放同盟に触発され「アイヌ解放同盟」を結成。活発に活動を開始する。

アイヌ解放同盟・山本太助翁の人類学会批判
札幌で開催された第26回日本人類学会・日本民族学会連合大会に対し、結城庄司・山本太助らがアイヌを動物扱いしている研究を批判、雪の中ハンガーストライキを敢行した。これを萱野茂らが仲介。

シャクシャイン像台座損壊事件
9月20日、結城庄司らが、静内のシャクシャイン像の台座に刻まれた「北海道知事・町村金五書」の文字を、和人と戦ったシャクシャインがうかばれないと考え削り取った。→Esaman再現

侵略の碑・連続爆破事件
10月23日(シャクシャイン暗殺の日)東アジア抗日武装戦線などの和人の活動家の手により、旭川の風雪の群像と北大資料室が爆破される。また後日、東京で三井・三菱の工場(北海道を開拓した)も爆破され、死傷者が出る。この行動に触発され、白老博物館・知里真志保の碑・静内の北海道開拓の碑・黒田清隆像、クラーク像などが次々に汚損されるという事件も続発、京都や青森でも事件が発生し、混乱は全国区に発展した。

二風谷アイヌ資料館設立
萱野茂氏が建設。アイヌ自身の手による2番目の記憶の砦。

東京の山谷地区で、差別致傷事件発生
労務者の街・山谷で、アイヌ差別が元で刺傷事件が発生。
もみ合いの結果として刺された人(刺したアイヌの友人)に対し、警察官が走らせたり、適切な対処を許可せず、病院も山谷の住人である事を理由に迅速な対処をせず死亡させ、刺したアイヌが殺人罪で投獄される。
原告のアイヌは、事件を通じて「アイヌ」である事を自覚、数あるアイヌ差別を訴えた。刺傷事件の裁判を超えて、意義深いものとなった。
ウタリ協会は本件を関知しなかったが、旭川の川村カネト、荒井源次郎、白老の苫和三、帯広の高橋真らが支援。

この年は札幌オリンピックを控え、北海道での過激派の活動が活発化した。
同時期に結城庄司らの活動(台座損壊など)も活発化した事もあり、各地で(活動家でない人も含む)アイヌに対する盗聴・尾行・不当逮捕が多数発生する。そのような状況の中、自衛の意味もあり
旭川アイヌ協議会が設立される。

沖縄併合。
札幌冬季オリンピック
上野動物園にパンダが来る。
日本赤軍による浅間山荘事件発生。

アニメ・デビルマン放映。

1973

昭和48年

「全国アイヌの語る会」札幌で開催
砂沢ビッキが提唱、結城庄司らが事務局として活躍。札幌駅近くのクリスチャンセンター(住所現在と同じ・建物は別)で開催。アイヌがアイヌの為に、行政にも労働組合にも支援されず、自らの意思で集まった史上初めての大会。350人が参加した。

有珠火力発電書反対闘争の機関紙として新聞「アヌタリアイヌ」創刊。
この新聞は、反対闘争の経過報告のみならず、アイヌ自身アイヌについて、考え、戦った意義ある出版であった。

「ヤイユーカラ・アイヌ学会」「東京ウタリ会」発足。

大地の手・建立。
札幌郊外にある開拓記念塔の脇に、5200人の手形を集めた碑が建設される。この手形に、山本多助は「アイヌネノアンアイヌ」、結城庄司は「アイヌ解放」、と刻み参加した。一方、後に「アイヌ史資料集」を無断で発刊し、アイヌ民族の名誉を深く傷つけ、アイヌ民族の存在を否定する河野元道は、結城庄司の横で「人間解放」と刻んでいだ。

杉村キナラブック死去、85歳

石油危機
第四次中東戦争

1974 昭和49

北海道庁が、ウタリ福祉対策(第1次)開始、現在(第4次)も継続中。

萱野茂「ウェペケレ集大成」

結城庄司逮捕
シャクシャイン像の台座損壊事件を元に、アイヌ解放同盟の結城庄司らが逮捕される。その背景には、和人の過激派による一連の爆破事件をアイヌ解放同盟の仕業にしようとする官憲の意向があった。また、結城氏の逮捕は外事課(外国人を扱う課)が担当した。これは、アイヌとしての自由を求めるアイヌは日本人ではないという国家による明確な意思表示である。

ノッカマップイチャルパ開催
かつて強姦や酷使に耐えかねて「クナシリ・メナシ蜂起」が戦われ、多くのアイヌが虐殺されたノッカマップ岬において、アイヌ解放の戦士達のイチャルパが開催された。虐殺現場の特定やイチャルパの準備などで結城庄司らが活躍し、碑を建てる予定で資金も集まっていたが、建設されなかった。

東アジア反日武装戦線事件の首謀者逮捕 YouTube


上野動物園の「お猿の電車」26年間の運営の後、廃止される。

アニメ・アルプスの少女ハイジ、宇宙戦艦ヤマト、キューティーハニー、放映。

1975

昭和50

苫小牧ガスライター不当逮捕事件発生
タバコを吸わないアイヌの活動家が、壊れたガスライターを盗んだとして冤罪に問われ、8ヶ月間拘留される。

サイゴン陥落、ベトナム戦争終結。

1977

昭和52

「闇の土蜘蛛」が東本願寺大師堂を爆破
アイヌではなく和人の過激派が、東本願寺(真宗大谷派)は北海道開拓という侵略を行ったとして、建物を破壊し声明文を発表。
この犯人への対応を巡り、東本願寺内部でも意見が二分した(大谷派ブックレット1「アイヌ民族と真宗」に詳しい)。

東本願寺はこの事件を目の当たりにし、大政奉還による政権移行に伴い、新政権に取り入る為にカラーポスターを作り門徒動員キャンペーンを行い、北海道開拓に協力したことを「宗門の偉業」と掲げていたことを反省する素振りを見せたが、マイノリティを食い物にする同教団の本質が変わったわけではなかった。

1978

昭和53

伊達火力発電所建設差し止め訴訟。苫和三らが活躍。

1979

昭和54

イラン革命
イラン・イスラム共和国樹立
メッカ事件
ソ連・アフガン侵攻

1980

昭和55

「関東ウタリ会」発足

イラン・イラク戦争始まる(-1988)
アニメ・ベルサイユのバラ、機動戦士ガンダム、サイボーグ009、放映。

1982

昭和57

国際連合「先住民に関する作業部会」設置。
札幌豊平川で「アシリチェップノミ」開催。

ミュージックビデオ・スリラー発表

1983

昭和58

屈斜路湖畔でシマフクロウのイヨマンテ復活
このイヨマンテに、川村カネト記念館の跡取がが参加、地元旭川でのイヨマンテの復活を決意する。

東京で「アイヌ民族の現在を考えるレラの会(後のレラの会)」発足。
北海道ウタリ協会総会において、『「北方領土」問題に関する基本方針』をまとめ、北方領土に関しては先住権は主張しない事を基本方針とする。

1984 昭和59

アイヌ古式舞踊が重要無形文化財に指定される。
北海道ウタリ協会、旧土人保護法廃止と、「アイヌ民族に関する法律(案)」決議。

アニメ・風の谷のナウシカ上映。

1985 昭和60

「アイヌ肖像件裁判」提訴(1988に和解)
アイヌ民族誌という本に、山本一昭の妹、チカップ美恵子が映画に出演した際の写真が無断に掲載され、しかも「滅び行く民族」という見出しを使われた。このことに対し、チカップ美恵子らが更科源蔵などの研究者を相手取り「アイヌ肖像件裁判」提訴した(1988に和解)。この裁判の闘争ニュース「イメル」発刊される。

旭川でイヨマンテ復活
川村カネトの息子、川村・シンリツ・エオリパック・アイヌが、シマフクロウのイヨマンテに参加した事をきっかけとして決意していたイヨマンテの復活を敢行。実際にクマを送る事は勿論、その会場となるチセの建設、使われる道具、その材料の採取などの準備段階に至るまで、全てを伝統的なアイヌ式で執り行った、見世物ではない完全なイヨマンテの復活であった。
この劇的な復活劇は、1年にわたるTBSの取材を受け、特別番組として全国区で放映された。

男女雇用機会均等法。
アニメ・北斗の拳放映。

1986

昭和61

中曽根首相による「日本は単一民族国家、私もアイヌ系」発言
「日本はこれだけ高学歴社会になって、相当知的な社会になってきている。アメリカなんかより、は
るかにそうだ。平均点からみたら。アメリカには黒人とか、プエルトリコとか、メキシカンとか、そ
ういうのが相当おって、平均的に見たら非常にまだ低い。」
上記のような「日本は移民国家アメリカと違い教育が行き届いた単一民族国家だ」という発言にたいし、アメリカから強い抗議を受けた。アメリカの批判に対して「国内に差別を受ける少数民族はいない」と発言し、ウタリ協会から抗議を受ける。

ソ連でペレストロイカ(改革)始まる

1987 昭和62

旭川と二風谷でアイヌ語教室始まる(現在は全道で11教室)
第二回「全国アイヌの語る会」開催。
北海道ウタリ協会、国際連合の「先住民族に関する作業部会」に初参加。

聖地メッカでイラン人巡礼団が反米デモ、死傷者約1000人

1988

昭和63

ウタリ問題懇話会が 北海道旧土人保護法の廃止と「アイヌ新法(仮称)」制定の必要性を答申。

消費税公布。
イラン・イラク戦争停戦。
湾岸危機発生。
アニメ・となりのトトロ、火垂るの墓、AKIRA上映。

1989 平成1

札幌でアイヌ文化祭(ユカラ、アイヌ語劇、古式舞踊)、東京でアイヌ語弁論大会が開催。
札幌では、新法制定を要求する300人規模のデモ行進も行われた。
釧路でイタオマチプ(外洋帆船)復元される。

天皇ヒロヒト死ぬ。
ソ連・アフガンから撤退。

1990

平成2

笹島差別致死事件発生
名古屋駅裏の寄せ場笹島で辛辣なアイヌ差別が原因となった殺人事件が発生。差別をした側の和人は、かつてアイヌの民芸品店で働いた事のある人間だった。さらに、支援の際の対応のデリカシーの無さと欺瞞から、支援団体と支援を受けるアイヌとの間で深刻な軋轢が発生する。チカップ美恵子・長谷川修らが支援に活躍。尚、ウタリ協会は本件を支援せず。

セイクレッド・ラン、大地と命の為のランニング開催。
反核平和を訴え、ロンドンをスタートし、バルト三国経由でソ連のレニングラードまで至るランニナングが展開された。
山本一昭、川村シンリツ・エオリパック・アイヌらが協力。旭川からもアイヌ民族のランナーが参加した。

アイヌ・ソビエト親善交流協会(AS協会)、サハリンを訪問。

湾岸戦争勃発。

1991

平成3

北海道立ウタリ総合センター(ウタリ協会などが使用、かでる2・7内)設置。

アイヌ・モシリの自治区を取り戻す会発足。
新谷幸吉、山本一昭、チカップ美恵子、北川しま子らが活躍。

湾岸戦争終結。

1992

平成4

国際連合の「世界の先住民の国際年」の開幕式で野村義一が演説。
東京で、アイヌ新法の早期制定を要求する大規模なデモ行進が行われる。
萱野茂、比例代表の名簿順位次点で落選する。

アニメ・美少女戦士セーラームーン放映。

1993

平成5

二風谷ダム訴訟始まる(-1997 原告、萱野茂・貝沢正)
政府がアイヌ民族の多く住む日高地方二風谷にダム建設を強行。その工事作業により、地域のアイヌにとっての聖域であったチノミシリが破壊される。これに対し、水没予定地区の地主であった萱野茂・貝沢正・貝沢耕一らアイヌ民族が反対運動を展開、行政の数々の妨害に合いながらも裁判訴訟を貫徹し、「アイヌの人々の先住性」を認めた判決を勝ち取った。

1994 平成6

萱野茂、参議院議員に繰り上げ当選(アイヌ民族初の国会議員誕生)
国際連合の「世界の先住民の国際10年」はじまる。

日本TVによる金粉イヨマンテ事件発生
元日に放送された「お笑いウルトラクイズ」において、全裸で金粉、ペニスケースの芸人が多数登場し「イヨマンテの夜」を熱唱、抗議された。その放送Youtube お詫びYoutube

東京にアイヌ料理の店「レラチセ」がオープン

1995

平成7

北大人骨事件発生
北海道大学古川講堂にあった退官した教官の部屋(旧標本庫)から、ダンボール箱に詰められたアイヌ民族・朝鮮民族・ウィルタ民族などを含む6体の頭骨が発見され、あるアイヌがママチャリのカゴにいれて奪還。その処遇を巡り韓国まで問題が波及。現在も交渉は継続中。人骨の保持と交渉に山本一昭らが活躍する。尚、現在も本件は闘争継続中である。

山崎拓・衆議院議員による単一民族発言
「一民族、一国家、一言語の日本の国のあり方がこれほどの国力を作り上げた。日本人が日本人を思
いやる気持ちが阪神大震災の救済にも現われている」

阪神・淡路大震災。
地下鉄サリン事件。
アニメ・新世紀エヴァンゲリオン放映。

1996

平成8

「萱野茂のアイヌ語辞典」刊行。 二風谷ダム貯水開始。萱野茂参議院議員らが反発。

アニメ・攻殻機動部隊上映。

1997 平成9

二風谷ダム訴訟・判決
「民族の聖地を奪う」と訴えていた行政訴訟の判決公判が開かれ、収用裁決は違法との判断が示され原告側の主張がほぼ認められる。 判決文は「アイヌの先住性」にも言及した画期的なものであった。

アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」制定(通称、アイヌ文化振興法)
北海道旧土人保護法」、「旭川市旧土人保護地処分法」廃止
「(財)アイヌ文化振興・研究推進機構」設立

1999

平成11

アイヌの生活と現在を考える窓、Ainu puyarA開設。アイヌ自身の手による、アイヌについて考える初のホームページ。

2000

平成12

「児玉・馬場コレクションに見る北の国アイヌの世界展」
アイヌの墓を暴いて回り、千体にも上る人骨を獣医学部に放置し、副葬品を奪った児玉教授の業績を美化する展覧会が全国巡回を開始。児玉教授は、アイヌの墓を暴いて回った解剖学者。彼の集めた「児玉コレクション」は、彼の死後、千体にも上る人骨は北大の獣医学部に放置され、着物や副葬品などは娘の児玉マリが保持し、博物館やアイヌの伝承者に貸し出し、現在も巨利を得ている。

また、同時期に行なわれたアイヌ文化フェスティバルには埴原和朗が公演し、アイヌを研究対象としてしか見ていない発言を、多くの一般市民(子供もアイヌも含む)の前で披露した。oripakEsamanはその発言内容に対し、財団に抗議文を送付するも、未だに回答無し。

「アイヌ特別展を考える集い」が、AinupuyarAのoripakEsamanの呼びかけによって開催され、児玉教授の行為を隠蔽・美化し、現代に「アイヌは滅び行くもの」とした彼等の差別と権力を再現する行為であると痛烈に批判を行った。この一件以後、「児玉コレクション」の名前を冠した展覧会は、行なわれなくなった。
山本一昭らが直接参加し、長谷川修・小川隆吉らが支援。前回の展覧会の会場、広島での集会を行ったシサムの会の木戸宏(和人)は当日ドタキャンした、理由は不明。当然の事ながら、ウタリ協会は本件に対し支援も参加もせず。

2001

平成13

単一民族発言の一年…
森喜朗・元首相・衆議院議員による、単一民族国家&神の国発言

「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」
中川義男・参議院議員による、単一民族発言
「(日本は)小さな国土に、1 億2 千6 百万人のレベルの高い単一民族でぴちっと詰まっている」
平沼赳夫・衆議院議員による、単一民族発言
「小さな国土に、一億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている国。日本が世界に冠たるもの」と発言。ウタリ協会の阿部一司副理事長は「アイヌ民族が先住民族であるという歴史を知らない発言だ。一国の大臣がわざわざアイヌモシリ(人間の大地=北海道)で、こうした発言をするのはアイヌ民族に対する挑戦ではないか」と批判。
鈴木宗男・衆議院議員による、単一民族発言
「(日本は)一国家、一言語、一民族といっていい。北海道にはアイヌ民族がおりますが、今はまったく同化されておりますから。」この発言への対応を巡り、ウタリ協会、笹村理事長を解任。
ウタリ協会の吉田昇理事は「情けない。アイヌを一番知るはずの地元の鈴木代議士が正気で発言したとは思えない。中曽根康弘首相の単一民族発言から15年たつのに、相変わらずの認識だ」と批判。

アイヌ解放の戦士、山本一昭脳卒中で倒れる。現在も尚、病床から河野本道裁判闘争を継続中。

米の世界貿易センターに衝突テロ発生・世界が震撼。

2002 平成14 北朝鮮の金正日総書記が、日本人拉致問題を公式に認める。 スイスが国連に加盟
2003 平成15 鳥居泰彦・慶應義塾学事顧問・中央教育審議会会長による単一民族発言
衆議院憲法調査会にて「日本が犯罪率が低いのは単一民族の国だからだ」と発言。
ヒトゲノム解読完了
(アトム誕生)
2004 平成16 イラク日本人人質事件で自己責任論強まる。
製造業への人材派遣が解禁。
(フォード紀元年)
2005 平成17 麻生太郎・首相による単一民族発言
「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」「今は(世界各地で)人種、地域、宗教でいろんな争いが起きている。日本は一国家、一文明、一文化圏で、そういう国はあまりない」と発言。
スマトラ島沖地震
2006 平成18
2007 平成19 伊吹文明・文部科学大臣による単一民族発言
「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。極めて同質的な国」「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」と発言。
2008 平成20 中山成彬・国土交通大臣による単一民族発言
「日本は随分内向きな、単一民族といいますかね、あんまり世界と(交流が)ないので内向きになりがち」と発言。与野党からの非難を受け「誤解を招く表現であったので撤回します」と発表。
洞爺湖でG8サミット開催
平取で先住民族サミット開催
2009 平成21
2010 平成22 チカップ美恵子死去。アイヌ肖像権裁判で活躍。

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なお、本年表では、本来は「アイヌ以外の場所での出来事」も、
アイヌに対し密接な影響を与えた事件で、説明文が長くなるものは、
スペースの関係上もあり、「アイヌ民族の辿ってきた歴史」の欄に記載されています。
ですから、大和朝廷の記述が頻繁に出てくるからといって、
アイヌ民族が「日本の一部」という意味ではありませんので、あしからず。


このページは、アイヌ民族の生活と現在を考えるHP、Ainu puyarA上にあるページです。}{}{}{Ainu puyarA}{}{}{へ戻る