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同化政策と近代化の中で(北海道命名から戦争終結まで)


アイヌモシリ総合年表(古代から現代までの、アイヌの歩み)
伝説の中のアイヌの先達(古代から和人の到達まで)
和人・ロシア人との狭間で(和人の入植から明治維新まで)
蘇るアイヌとしての自覚(戦後から現在まで)

西暦

日本暦

アイヌ民族の辿ってきた歴史

主要な出来事

1868

明治1

戊辰戦争
明治政府、函館裁判所設置。
榎本武揚、幕府の残党を率い五稜郭へ撤退し篭城。

明治政府、江戸を東京と改名
廃仏毀釈運動

1869 明治2

函館戦争
五陵郭で、榎本武揚率いる旧幕府軍と明治政府軍が激突、新撰組壊滅、榎本武揚が降伏し終結。

明治政府、開拓使設置アイヌ(ヤウン)モシリ植民地として日本帝国に併合。
アイヌ モシリ(人間の大地)を、明治政府は主のない土地であると日本領土に勝手に併合し、北海道と命名(松浦武四郎が「北加伊道(アイヌはアイヌモシリを「カイ」とも呼称した為)」と発案し、それが採用される)。

場所請負人を廃止

第1期、上川アイヌ地問題
兵部省は、旭川を近衛師団を配置する為に占拠、周辺に居住していたアイヌを石狩に強制移住させようとするが、首長クーチンコロの抗議で解消する。

東本願寺、北海道「開教」を開始
大政奉還により、朝廷側だった西本願寺が台頭。徳川側だった東本願寺はこの事態に焦り、新政権におもねる為に新政府のメイン事業である北海道開拓に現如上人を投入、「生き仏が開かれる大地」との宣伝文句のカラーポスターを作り、一大キャンペーンを展開、東北の門徒を中心に大量に動員した。

時の北海道内の和人の人口は12万人

明治政府、京都から東京へ遷都・版籍奉還

1871 明治4

開拓使(明治政府)、アイヌの習慣である耳輪、入墨、家屋葬送、禁止される。 日本語の使用を強制。
戸籍法制定、アイヌを「平民(旧土人)」に編入

明治政府、廃藩置県・戸籍法

1872

明治5

開拓使仮学校付属北海道土人学校設立
黒田清隆、100名のアイヌ子女徴用する計画を立案、北海道各地よりアイヌの子供・男女36名を東京へ連行し「留学」を実施。また、旭川地方のアイヌの男子15名を札幌に連行し教育を試みる。

「留学」とはいっているが、内実は現在の留学という言葉が連想させるものとは程遠いものであった。
アイヌにとって必要の無い農業や和裁の教育を実施し、見世物として都内を連れまわした。
東京に連行されたアイヌの内、4名死亡、3名入院、1名脱走、役所の官吏として4名、官営企業に1名採用、あとは全て帰郷を熱望し、計画は完全に失敗(現在地・東京の芝・増上寺←実は東京タワーのすぐ下)札幌に連行されたアイヌの子らは、3・4ヶ月の内に殆どが親が郷里に連れ帰った。

開拓使(明治政府)、アイヌ民族の精神を象徴する儀式であるイヨマンテ(熊送り)を禁止。

福沢諭吉の「学問のすすめ」ベストセラー
新橋−横浜間に鉄道が開通

1874

明治7

開拓使仮学校付属北海道土人学校、廃止。

1875 明治8

開拓使(明治政府)、カラフト、チシマ交換条約により、108戸841人のカラフトアイヌを北海道に強制移住させる。
最初の屯田兵198戸が琴似(札幌市)に入植、以後各地に相次ぐ。

米独伊仏がメートル条約に調印

1876 明治9

開拓使(明治政府)、鹿狩規則を定め、アイヌの伝統猟法、仕掛け弓・毒矢の使用禁止し銃器を使用する事を命令。各地のアイヌ民族が反発するも、実施を強行した。
アイヌ一般に氏(うじ・苗字)を用いるように通達、この頃、アイヌの戸籍がほぼ完成する
宗谷に移住したアイヌが石狩国対雁に再び強制移住。

この時期、廃藩置県で藩がなくなり、徴兵令の実施で士族の武力も不必要となり、士族の家禄は打ち切られ、かわりに公債が支給された。この為、士族は生活に大きな打撃をうけた。とくに、明治維新で活躍した、薩摩、長州など西日本の士族は政府への不満を強めていた。このため、各地で士族による反乱が発生していた。また各地で農民による一揆も発生した。

明治政府、廃刀令布告・秩禄処分

1877

明治10

西南戦争勃発
明治新政府への士族の反発が鬱積し、西郷らを中心に集まった士族らが武装蜂起を起こし、熊本、宮崎、鹿児島を中心に7カ月に及ぶ戦いが展開される。数々の新兵器が投入された本格的な戦闘となり、約31000人の死傷者を出した。、近代国家日本の経験した初の本格的な内戦。

1878

明治11

開拓使(明治政府)、アイヌの呼称を「旧土人」と統一 札幌郡内の河川で鮭漁禁止。


1879

明治12

日本帝国、沖縄併合(琉球処分)
エジソンが電灯を発明

1880

明治13

平取村、有珠村(伊達市)にアイヌの子弟を収容する土人学校設立。

1882

開拓使廃止され、札幌・函館・根室の三県が設置さる。

1883 明治16 明治政府(根室県)、で旧土人救済方法を実施、強制移住や農耕指導などを行う。 鮭漁の禁止。

1884

明治17

明治政府(根室県)、クリルアイヌ97名、占守島から色丹島に強制移住。

秩父貧民党事件

1886

明治19

北海道道庁設置
函館県・札幌県・根室県を廃止して北海道庁が置かれる。北海道を管轄する内務省直轄の地方行政官庁。1947年まで存在。

1887 明治20

石狩川上流、旭川、永山、当麻、比布などに敷居していたアイヌ40戸が、自衛のために近文の一角に自ら移住、これが現在のチカップニコタンとなる。
これより数10年に渡り、腸チフス・ジフテリア・天然痘・結核などの伝染病が北海道各地で猛威を振るい、和人もアイヌも多数死亡する。特に、強制移住や伝統的な風俗の禁止の強制、劣悪な住宅の強制、狩猟の禁止などの連続で、生活環境の劣化が進んでいた地域のアイヌの死亡率は高かった。

1888

明治21

イギリス人宣教師ジョン・バチェラー、幌別村(登別市)にアイヌ児童教育施設「愛隣学校」設立。
1886-1888の天然痘による死者、全道で2265名

1889 明治22

明治政府(北海道庁)、道内の鹿猟を全面禁止。 北海道各地でアイヌの「保護地」への強制移住が起こる。
ジョン バチェラーの「アイヌ語辞典」

1893

明治26

「北海道土人保護法案」、第5回帝国議会に提出、廃案。

1894

明治27

明治政府(北海道庁)、近文(旭川市)の、アイヌへの付与予定地を決定。
1892-1894の天然痘による死者、全道で2557名
日英通商航海条約
治外法権が撤廃、同時に従来制限されていた外国人の居住・旅行・外出が自由化。国内の外国人の活動が活発化。

日清戦争
国際オリンピック委員会設立

1897 明治30 北海道国有未開発地処分法
(和人への)土地払い下げ条件が緩和。北海道への移住者が増加。これにより「開拓」の邪魔になるアイヌの強制移住多数発生。また、この時期に農業適地の多くが(入植した和人に)払い下げられて、後の旧土人保護法による払い下げ地は農業に不適な土地ばかりとなった。

1899

明治32

北海道旧土人保護法制定
(1万5千坪以内の土地を付与、教育・共有財産管理などを規定)。
第二期、近文アイヌ給与地問題発生
近衛師団・第七師団の旭川への設置に伴い、近文アイヌの転出計画が持ち上り、利権屋が暗躍する。これに対し、旭川のアイヌによる反対運動が展開される。アイヌの地道な活動により、事件は中央政界の汚職問題へと発展し、移転は阻止される。
1897-1898の天然痘による死者、全道で300名

1900

明治33

道庁が近文のアイヌの給与予定地、大倉喜八郎(現在のサッポロビールなどの創設者)らへの払い下げを決定、アイヌ側の反対運動により取り消される。

1901

明治34

旧土人児童教育規程公布(和人児童と分離し、低い教育を実施)。 1911までに、全道に21の土人学校を開設する。

田中正造、足尾鉱毒事件で直訴

1902 明治35

演習中に遭難した青森歩兵第五聯隊救助のため、八雲アイヌ捜査隊八甲田山で活躍。

1903 明治36

近文アイヌ給与地問題再燃、旭川の川村モノクテ、土地問題で道庁へ

1904

明治37

カラフトアイヌ山辺安之助、上川アイヌ北風磯吉らアイヌ民族63名が日露戦争に従軍。劇的な活躍を見せる。
結核による死者全道で1600名

日露戦争

1905

明治38

ポーツマス条約により南樺太が日本領となる。

1906 明治39

明治政府、給与地一戸、五町歩を一町歩に改める。旧土人給与予定地、貸付30年期限とする。
対雁に強制移住させられたアイヌの多くがカラフトに戻る

「SOS」の採用

1909

明治42

伊藤博文(元・千円冊)暗殺

1910 明治43

金成イメカニ(マツ)近文聖公会伝導所赴任 知里幸恵、旭川へ。

自瀬中尉ら南極探検隊が開南丸で出港、探検隊の案内人としてカラフトアイヌ活躍。
同時期に最新装備で南極点到達を目指したイギリス隊は全滅、スコットランド隊は北極点に到達。山辺安之助率いる犬ソリが日本隊の白瀬を乗せて北極点近くまで到達した。この快挙は世界を注目を集め、乗っかっていっただけの白瀬中尉の「偉業」として刻まれたが、実質上の達成者である山辺と犬達は不遇の半生を送る。

1913

大正2

災害が重なり、全道で収穫が半減する大凶作となる

1914

大正3

しょう紅熱・ペスト・パラチフスなどが全道で流行、結核による死者全道で2600名

第一次世界大戦

1916 大正5

旭川にて川村イタキシロマが「川村アイヌ記念館(現・川村カネトアイヌ記念館)」開設、アイヌの手による始めての博物館、記憶の砦。
大正政府、新冠村の80戸のアイヌを、御料牧場の都合で上貫気別に強制移住。
この年の調査によると、北海道旧土人保護法の給付地の歩留まり率は50%ほどで、半分の土地は収公(取り上げ)されている。

ファイサルの軍事顧問T・E・ロレンスが、アラブ反乱軍を指導

1918 大正7

武隈徳三郎「アイヌ物語」刊行

シベリア出兵・米騒動発生

1919

大正8

朝鮮半島で三・一運動、中国大陸で五・四運動

1920 大正9

アイヌ伝道団「ウタリグス」創刊。

国際連盟成立

1921

大正10

全国水平社結成・日本農民組合結成・日本共産党結成。

1922 大正11 知里幸恵、心臓病で東京にて死去。

1923

大正12

知里幸恵編「アイヌ神謡集」刊行。

関東大震災

1926

大正15

近文アイヌ、解平社結成、砂沢市太郎らが活躍。

1927

昭和2

十勝アイヌ、十勝旭明社創設。

1929

昭和4

違星北斗、結核で死去、29歳。

世界恐慌はじまる

1930 昭和5

北海道アイヌ協会設立(現ウタリ協会)北海道庁の主唱により結成。現・ウタリ協会の前身。
ただし、十勝旭明社が中心となり、旭川のアイヌは不参加。機関紙「蝦夷の光」創刊。
違星北斗遺稿「コタン」刊行。
旭川の川村カネトカアイヌ率いる測量隊、難所で知られた長野県飯田線の測量を行なう。

1931

昭和6

「全道アイヌ青年大会」札幌で開催。
バチェラー八重子「若きウタリに」、貝沢藤蔵「アイヌの叫び」出版。
全道で冷害による凶作

満州で関東軍が暗躍、
日中戦争開始

1932 昭和7

第3期・近文旧土人給与地問題にて、荒井源次郎氏、陳情のために上京して運動を展開。
開墾地削減反対、旧土人保護法撤廃を内務省、大蔵省に陳情する。
全道で冷害と水害による大凶作

五・一五事件

1933

昭和8

樺太島域のアイヌに日本国籍。

明治政府、国際連盟から脱退
ドイツでナチス政権成立

1934 昭和9

旭川旧土人保護地処分法」公布
全道で冷害による凶作

1935

昭和10

全道で冷害と水害による大凶作
この時期、連年続いた凶作により・出稼ぎ・身売り・田売りが続出し、農村は荒廃

1936

昭和11

二・二六事件

1937

昭和12

知里真志保「アイヌ民潭集」、森竹竹市「原始林」出版。
北海道旧度人保護法改定、土人学校が廃止される。

蘆溝橋事件発生・日本の中国への軍事介入本格化

1938 昭和13 アイヌ民芸協会設立

国家総動員法制定

1939

昭和14

ノモンハン事件
第二次世界大戦始まる

1940

昭和15

日独伊三国同盟結成

1941

昭和16

日本軍・南部仏印進駐、太平洋戦争勃発
日本軍は石油などの物資確保の為、当時フランス領であったインドネシアなどの南方諸島を占領。ハワイの真珠湾に停泊中のアメリカ艦隊へ奇襲攻撃を行い、全面的な戦争へ突入する。

1944

サイパン島陥落・本土爆撃開始
アメリカを始めとする連合国に、物量・戦力共に劣る日本軍は、太平洋上に広がる広範囲な戦域を維持できず各地で敗退、武器も無く退路を失った日本の兵士達は、それぞれの島で餓死した。
また、サイパン島が陥落したのを始まりとして、長距離爆撃機(B29)による本土爆撃が開始され、大阪・名古屋・東京を始めとする諸都市が、住民諸とも灰燼に帰した。

学徒勤労令

1945

昭和20

日本帝国敗戦・無条件降伏
沖縄では住民を捨石とした地上戦が戦われ、ヒロシマ・ナガサキには原爆を投下され、あまりにも多くの犠牲を出した後、本土での戦闘を前に日本政府は降伏文書に調印、玉音放送と共に無条件降伏した。15年のながきに渡り、広くアジアを巻き込んだ戦争はここに終結する。

ソ連参戦、日本政府がアイヌを殺戮した後に、不当に占拠・殖民を続けていたクナシリ・エトロフなどの「北の島々(アイヌから見ると東の島々)」を占領。この時の「ソ連による占拠」を不当と文句を言っているのが、いわゆる「北方領土」問題である。アイヌから見ればどっちも強盗。

皇民化・戦時体制化ではアイヌ協会などの活動も停止状態だっだが、敗戦による「解放」を期に盛んになった労働運動などと共に、大きな盛り上がりを見せる事となる。


第二次世界大戦終結
GHQによる財閥解体指令


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蘇るアイヌとしての自覚(戦後から現在まで)へ続く


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