}{}{ アイヌ モシリ年表 }{}{
和人・ロシア人との狭間で(和人の入植から明治維新まで)



アイヌモシリの歴史は、本州から落ち延びた和人の豪族集団の到達を機に、大きく変化することになります。

アイヌモシリの山河を庭としていたアイヌの戦士たちは、他の地域の先住民族の多くがそうであったように、
毒矢を手に、鉄砲と進んだテクノロジーを持つ未来の世界からやってきた侵略者相手に、よく闘いました。
アイヌ豪族と和人豪族の初期の戦闘では、結果としてアイヌの指導者の暗殺という形で終結する
ものが多いとはいえ、結果としては、和人の活動領域を大幅に減らす事に成功しています。

ですが、和人集団の到達からわずか3世紀程の後には、多くの地域のアイヌ達は奴隷状態となってしまいました。
幕府の隠密として「異国・蝦夷地」に派遣された松浦武四郎や、アイヌの武装蜂起の鎮圧軍の司令官達は、
各地の商い場で行われた、アイヌに対する目を覆う凄惨な酷使の実体を記録しています。

アイヌの戦士を殺し、社会を解体し、支配し、奴隷として酷使し、蹂躙する事を可能にしたのは、
馬に乗った武士の刀や奸智ではなく、
共同体内部まで入り込み、アイヌの豪族達に酒や宝物をもたらした
和人商人・和人資本の力によるものである事を、けっして忘れてはなりません。

幕府の隠密の目を通して現代に伝えられる、無念の思いで過酷な時代を生きたアイヌ達の生き様は、
政府による解体政策真っ只中の今を生きる私達に、一体何を訴えかけているのでしょうか?

アイヌ民族自身が、自らを中心として「アイヌ」を巡る諸々を語る為に。

アイヌモシリ総合年表(古代から現代までの、アイヌの歩み)
伝説の中のアイヌの先達(古代から和人の到達まで)
同化政策と近代化の中で(北海道命名から戦争終結まで)
蘇るアイヌとしての自覚(戦後から現在まで)

西暦

日本暦

アイヌ民族の辿ってきた歴史

主要な出来事

1443 嘉吉3

安東盛季が南部氏に破れ、津軽十三湊を放棄し、蝦夷島に逃げ渡る。この後、多数の豪族が渡来、和人によるアイヌ・モシリへの本格的な移住始まる。

禁闕の変
訓民正音(ハングル)創製

1456

康正2

志乃利鍛冶屋がアイヌのオッカイ(男・少年だった模様)を殺した事を起因として、東部のアイヌ民族蜂起(シノリ事件)
安東政季、道南から出羽に移住、後に秋田氏を名乗る

1457 康正3

『コシャマイン戦争』
道南東部の首長コシャマイン率いるアイヌ諸部族の連合軍が道南の和人の砦12館中、茂別館、花沢館を除く10館を落とすが、翌年、和睦の席で武田信広によりコシャマイン暗殺される、この功により武田信広、蛎崎季繁の養子となり、蛎崎氏継ぎ松前藩の祖となる。これより約1世紀に渡りアイヌの蜂起が相次ぎ、生き残った和人の多くは松前付近に集結し、後の和人地の原型ができる
当時のアイヌ人口は、50万人(人口は川村カネトアイヌ記念館年表より)。

1469

再びアイヌの蜂起起こる

1473

アイヌの蜂起起こる

15世紀末

この時期、本州方面では京都を中心に応仁の乱が発生、山城の国一揆、加賀の一向一揆なども相次ぎ、室町幕府は衰退し、戦国時代に入る。

グラナダ陥落、イベリア半島のイスラム時代終焉

1482

夷千島王、朝鮮へ使いを送る。

1499

明応8

浄願寺弘賢、1471年頃より蝦夷地で布教、浄願寺を建てる。

1512

永正9

アイヌ蜂起し、函館、志苔、与倉前の三館陥落、河野・小林両家没落。浄願寺、蜂起を避けて秋田に撤退。

1513

松前の大館陥落、但し蛎崎光広がアイヌに仕業に見せかけて攻めたとの説もある。

1514

花沢館(上ノ国)の蛎崎光広、松前に本拠を移転、徳山館を構築。

1515

永正12

道南の東部首長のショヤ(庶野)、コウシ(匐時)、道南で蜂起、徳山を攻める。
蛎崎光広、徳山館の和睦の席で両者を暗殺、現在、松前にある蝦夷塚はこの時の犠牲者の塚であると言われる。

1521

コルテスがアステカ帝国(現メキシコ)征服

1528

アイヌ蜂起、徳山館を襲撃、松前義広が撃退。

1529

道南の西部首長タナカサシ蜂起
瀬田内で工藤九衛門の軍を破り、勝山の和喜館を攻める、蛎崎義広、和睦を呼びかけ弓矢でタナカサシを暗殺。

1531

亨禄4

アイヌ蜂起、松前の大館を襲撃。

1533

フランシスコ・ピサロがインカ帝国(現ペルー)征服

1536

天文5

タナカサシの女婿タリコナ蜂起、蛎崎義広、和睦と称し、酒宴の席で暗殺。
大谷派僧侶真徳・松前専念寺草創、以後専念寺は松前藩と何度も婚姻関係を結び、蝦夷地の仏教界で大きな力を持つ。

1550

松前の蛎崎李広、瀬田内の首長ハシタイン(道南西部の首長)、知内の首長チコモタイン(道南東部の首長)が会談、和人地を上ノ国から知内のラインより南として合意し和睦。

この和睦で確定された和人地は、コシャマイン戦争時の道南12館の占有地の約1/3に縮小。

この和睦により、アイヌ諸部族連合体は和人勢力を渡島半島の一角に追いやることに成功しており、コシャマインの蜂起以来の一世紀に渡るアイヌの戦いは、軍事的には成功したとも言える。
これより一世紀弱の間、平和な時代が訪れる。

1551

天文20

蛎崎李広、「夷狄の商舶往還の法度」を制定、アイヌに対する交易の優位を確立。

1565

ルイス・フロイスによりはじめてヨーロッパにアイヌの情報が伝わる、出羽国の秋田に、アイヌが多数交易にくる様子などを記録。

1591

東北の九戸政実の乱の際、篭城した兵士の中に夷人(アイヌ)が二人おり、酒を振舞ったところ、箸(パスイ?)のようなものを載せて酒を飲んだとの記録がある(氏郷記)。

翌年、豊臣秀吉が全国統一

1593

豊臣秀吉、蛎崎慶広(後に松前と改姓)に朱印状を与え、蝦夷島の支配権を公認。
これにより、秋田氏の代官から大名になる(松前藩成立)。慶広、この朱印状を道南地域東西のアイヌを集め、アイヌ語で読み聞かせる。

1599

慶長4

蛎崎慶広、大阪城で徳川家康性に謁見、蝦夷地の地図を献上、性を松前に改める

1604

松前慶広が征夷大将軍・徳川家康から黒印状によりアイヌとの交易権独占を認められる
この黒印状により、和人の商船は全て松前藩を通してアイヌとの交易を行う事になり、アイヌの本州島の和人との直接交易は禁止された。
また、黒印状の文面中に、但しアイヌの往来は自由、と記載されているが、従来記載されるまでもなかった自明の事が、「往来の自由」と記載される事自体が支配と干渉の開始を意味する。
近江商人が松前に進出。

この頃の交易レート、
干鮭100本=「蝦夷俵」一俵、内容は米2斗(干鮭1匹=米2合)

1000勺=100合=10升=1斗(18リットル)
但し、普通の「米俵」は、4斗で一俵

前年、徳川家康が江戸幕府を開く

1606

松前慶広、松前の地に福山城を建設、城下町を構築し、蝦夷地貿易の中継点とし、蝦夷地での交易を行うすべての商船に対し、松前城下での検閲を義務化する。

1609

薩摩藩、琉球王国を侵略し支配下に置く

1617

松前藩、金山の開発に着手、ゴールドラッシュとなる。
松前藩は財政難により、内地からやってくる砂金掘人夫を用意に受け入れた、この中には、迫害を逃れて渡航してきたキリシタンも多数いたといわれる。

1618-22

イエスズ会の宣教師アンジェリス、カルワーリュ、松前城下に潜入。
松前公広は幕府の禁令を無視し「松前は日本ではない」と称し、宣教師を歓待する。
両宣教師は、詳細な記録を本国に報告した。
アイヌから、ラッコの毛皮、鮭や鰊、緞子(蝦夷錦)などの交易品がもたらされる様子などの記録がある、また、蝦夷地に渡航する砂金掘りの人数は、1919に5万人、1920には3万人と記述。

1620-40頃

商場知行制確立
松前藩は幕府より公認された各地のアイヌとの交易権を、領地(俸禄)の代わりとして家臣に分け与えた、これによりアイヌの交易相手は、商場の支配者の松前藩の家臣に限定されることになる。かつて、カラフトやアムール川、津軽や南部まで出向いていたアイヌの自由な交易活動は完全的に禁止され、競争相手もいない「交易」により、不利な交換レートを強要される事が多くなった、これ以後、アイヌの生活は大きな圧迫を受ける事となる

この頃より、砂金掘り・浜辺での漁業・樵などの労働力として、和人の「入稼ぎ者」が多量に北海道各地へ流入を開始、砂金採掘の為に流域を荒らしたり、森林を破壊したり、河口で鮭を多量に捕獲しアイヌの魚場への遡上数が激減するなどの環境破壊を繰り返し、アイヌの生活を各地で圧迫する。南部・松前・秋田・津軽の出身者が多かった。
蝦夷地の産物を上方などへ輸送する「北前船」が、この頃より盛んになる。

1639

松前藩、幕府の圧力により、金山で働いていたキリシタン106名を処刑。

島原で天草四郎蜂起

1643

寛永12

西部の首長ヘナウケ蜂起、蛎崎利広が制圧。

1648-54

慶安1

イウォロ(狩場)を巡る争いから、親松前のメナシクル(東部アイヌ)カモクタインと、と反松前のシュムクル(西部アイヌ)オニビシが衝突。
この頃、松前藩がアイヌのシャモ地(松前藩領内)への渡航を禁止。

1663

寛文3

有珠山噴火、大地震発生、アイヌが多数死亡。

1668

シベチャリのシャクシャイン、ハエのオニビシを暗殺。

1669 寛文9

『シャクシャイン戦争』
川筋に侵入する和人商人などへの対応を巡っての部族同士の抗争が大規模な衝突に発展。
シャクシャインが対松前戦線の樹立を呼びかけ、東は幌別から釧路、西は増毛あたりまでのアイヌが参加した最大規模の軍事行動となる(宗谷・利尻・石狩は不参加)、アイヌ連合軍は松前藩の兵士や商人を355(273)名殺害、商船を19隻襲撃し道南に進出するも、国縫で松前泰広率いる鉄砲隊と衝突、20日間に渡る戦闘により進撃を阻まれ後退しシベチャリの砦に篭城、ゲリラ戦に入る。
冬季に入り戦局悪化を恐れた松前藩は和睦を呼びかけ、10月23日、ピポク(新冠)の和解の席で、シャクシャインを暗殺する、指導者を失った連合軍は解体され、敗退する。
この戦いの後、松前藩は各地のアイヌに対し、子々孫々まで刃向わないという起請文を強要する。

この頃の交易レート、
干鮭100本=「蝦夷俵」一俵、内容は米八升(干鮭1匹=米0.8合)

1000勺=100合=10升=1斗(18リットル)

1670

寛文10

石狩・シリフカのアイヌが松前攻撃の為にシリフカに集結するが、宗谷・利尻のアイヌらの仲介で未遂。
津軽藩、東西の蝦夷地に内密のうちに調査船を派遣、東蝦夷地では追い払われ失敗するも、西蝦夷地ではヨイチの首長と接触、津軽アイヌを通訳として貴重な記録を残す(津軽統一志)。

1688

貞亨5

水戸藩の水戸光圀、快風丸を派遣し石狩川流域の調査を行う

1692

アイヌ蜂起の噂でハボロの砂金掘りらが逃げ帰るが、風説だった

1696

朝鮮王朝の官吏イチハン、利尻島に漂着、アイヌとの交易などを元に「漂舟録」を記す

1697

ロシア帝国、カムチャッカ半島を征服し、千島列島を南下

1702

江戸に基盤を持つ材木商飛騨屋、蝦夷地の蝦夷檜(エゾマツ)に目を付け進出、松前藩よりエゾマツ伐採の独占権を獲得、沙流・釧路・石狩・夕張・天塩などの材木を江戸・上方に運び巨利を得る

1720頃

場所請負制が一般化する
知行地の交易を商人に一任し、税金として運上金を徴収する制度
実体としては、この時代の他の地域の藩もそうであったように、参勤交代やその他の財政上の理由から運営が困難になった松前藩やその家臣が、たまっていく負債をなんとかする為に、債権者である商人に交易権一任したもの
より過酷な利潤追求の結果、商場知行制の時よりも収奪・酷使は激化し、アイヌとの交易だけでは足りず、アイヌを労働力(つまり奴隷)として徴用・酷使し、直接産物を生産する行為がはじまる

このアイヌへの奴隷労働と搾取によって生産されたコンブは、道東地方のものは北陸や関東へ、釧路より東部のものは富山の薬売りが仲介して薩摩・琉球へ、道南地方のものは敦賀を経由して上方へ流通した。魚肥(ニシンなどの油を絞った粕・燐酸と窒素を含み、花付きを良くし植物を丈夫にする効果の高い肥料)は金肥と呼ばれ、近畿市場を中心に大量に流通し、綿花・菜種・藍などの商品農産物の生産性を大幅にを向上させ、上方や江戸に花開いた大衆の消費文化を支える基盤となった。
「蝦夷地」と中世日本の台所事情は密接に関係している。

百姓徒党の禁令

1741

寛保1

渡島大島が噴火し、大津波が発生。松前藩領内諸村で家屋破壊791棟、破船1521艘、溺死者1467人に達する。

1759

松前藩、ロシア人の接近を知る

ハレー彗星・予言通りに出現する

1765

ロシア人イバレンエンチ、千島列島に到達、周辺のアイヌに暴行して去る

1770-72

ウルップ島で、ロシア人狩猟者とクリルアイヌが衝突、ロシア人20名殺害し、周辺のアイヌはロシア人を千島列島から追放。

江戸幕府で田沼意次が台頭

1774

安永3

飛騨屋久兵衛、松前藩から室蘭・厚岸・霧多布・国後(翌年には宗谷も)場所での交易権を請け負う。
飛騨屋は定置網などの漁法を持ちこみ、地域のアイヌを奴隷として牛馬のように酷使、餓死者が頻発。
この頃の松前藩は、城下の大火事、江戸藩邸焼失、藩主の婚礼、参勤交代などで、巨額の借金があり、飛騨屋への債権は8183両にも及び、クナシリ方面の場所請負の権利は債権の「カタ」として譲られたものであった。

一方国後場所では、大舟で渡来した飛騨屋をエトロフ島の首長ツキノエらが拒絶、船の積荷を奪い追い返した。
この行動に対し、松前藩は報復として、北海道本当の他の和人に対し、ツキノエとの交易を禁止を指示、経済封鎖を行う。
ツキノエらは、ロシアと独自に交易を開始。

1778

安永7

ツキノエの案内によってロシア人がノッカマップに来航、日本語で松前藩と交易交渉をするも決裂。
ロシア人、同時にツキノエらとの交易も取りやめる。

1792

寛政4

蝦夷・後志(しりべし)地方で大地震、津波が発生。

1799

ロシア帝国エカテリーナ2世、クリル(アイヌ)への不法行為の禁止、課税の禁止をイルクーツク総督へ通告。
近藤重蔵が蝦夷地を探検。

1780

クリル列島で大震災、ロシアの使節ナタリア号難破、ウルップ島に漂着し皮舟で帰還。
石狩などで天然痘が流行、アイヌの死者647人に及ぶ。

1782

首長ツキノエら、飛騨屋との交易を承諾

この年より5年間、日本各地で大飢饉発生(天明の大飢饉)

1783

ソーヤ・メナシ・カラフトで飢饉、アイヌの餓死者がソーヤ・メナシでは800−900名、カラフトでは180名に及ぶ。
仙台藩医工藤平助『赤蝦夷風説考』で、ロシア人の南下による蝦夷地防衛の必要性を訴える。

1785

江戸幕府、蝦夷地に最上徳内らの調査隊を派遣、ツキノエらが協力し、エトロフ、ウルップ、カラフトまでを調査するも、翌年、老中・田沼意次が失脚し頓挫。

この時期松前藩は、黒印状の「蝦夷は蝦夷次第」を無視、アイヌに対して日本語・日本風の髪型を禁止、笠・蓑・草鞋の使用まで禁止し、アイヌを「禽獣の類」として区別し、奴隷として酷使する根拠を作る政策を取っていた(最上徳内・蝦夷国風俗人情沙汰)

1788

飛騨屋、クナシリ場所にて、大規模な搾粕製造を開始。
この頃の飛騨屋はアイヌ酷使にあたり、反発するアイヌに対し、脅迫、暴行、見せしめとしての毒殺などを繰り返した、老人や病人などの労働力として価値の無いものも虐殺した。
また、和人の支配人や番人らは、アイヌの女性を手当たり次第に強姦、抗議に来た夫を虐待し、さらに弁償させるという傍若無人の振る舞いを行った(新井田孫三郎・寛政蝦夷乱取調日記)。


「番人は場所稼方の者より見立てられ、無頼の博徒、帳外者と唱え候たぐい、父母親戚にも疎まれ候やから、、往々非道の儀もこれあり、饑凍に及び候老人小児も顧みず、波風はなはだしき節も強いて魚事相働かすなり、惨刻(ママ)の扱い方少なからず」「クスリ場所にては当時41人の番人36人まで、土人の女の子を奸奪して妾となし」(近世蝦夷人物誌)。

1789 寛政1

『メナシ クナシリ戦争』
過酷な収奪や酷使、虐殺を行った飛騨屋に対し、首長ツキノエの留守中にマメキリらが中心となって武装した41名が、国後トマリの運上屋や番屋を襲撃、商人や松前藩の兵士など22名を殺害、6日後、クナシリ島の対岸メナシのアイヌも蜂起、クナシリ島より渡航した蜂起集団と合流、200名余の集団となり、標津、忠類、薫津、植別の各地で36名を殺害、忠類に停泊していた飛騨屋の大通丸を襲撃、13名を殺害する、和人側の死者は総勢71名
事件から24日後、アイヌ蜂起の事実を知った松前藩は、新井田孫三郎を体長に260名余の鎮圧軍を編成、およそ一月後にノッカマップに到達。
出先から帰って事件を知ったツキノエ、アッケシの首長トコイトらは、ノッカマップ首長のションコらと会談し降伏を決定、蜂起したアイヌを説得し、クナシリから131名、メナシから183名、計314名が武装解除して投降、鎮圧軍はツキノエらに事件の首謀者38名を選出させる。

鎮圧軍は首謀者全員の処刑を決定し、ノッカマッブの丘で処刑を開始するが、6人目を処刑しようとした時に、牢内からペウタンゲ(アイヌの行う危急の叫び声)が発生、周囲のアイヌと共に暴動を起こしそうだったので、鎮圧軍は牢柵の中の残りの首謀者達に向け鉄砲を射撃、息のあるものは槍で突き殺し、首謀者37名の首を跳ね(1名は逃亡に成功)、塩漬けにして持ちかえった。
鎮圧軍は藩主への御目見えとして、さらに43名のアイヌを松前城下に連行し、首謀者の塩漬け首のうち中心人物8名を松前城下・立石野で晒し首とした。

江戸幕府はこの事件を重大視し、南部・秋田・八戸の各藩に出兵の準備を指示し、青島俊蔵、笠原五太夫、最上徳内らの探検家を隠密として蝦夷地に派遣する。

この頃の交易レート、
干鮭140本=「蝦夷俵」一俵、内容は米八升(干鮭1匹=米0.48合)

1000勺=100合=10升=1斗(18リットル)

日本全国で百姓一揆頻発

1790

「夷酋列像」蛎崎波響

1792

ロシア施設ラックスマン、根室に来航、通商を求めるが翌年拒絶される。

1796

ブロートン率いる英国船プロビテンス号が虻田に来航、翌年根室に来航する。

1798

江戸幕府、蝦夷地に調査隊を派遣。一行中の近藤重蔵(当時28)、翌年アイヌとロシア人の多数住むエトロフ島に到達し「大日本恵登呂府」の標柱を勝手に立てる。
蝦夷地で馬鈴薯を試作

1799

江戸幕府、対露緊張切迫に伴い、松前藩には対応能力が無いと判断、東蝦夷地を直轄地とし、津軽・南部両藩に蝦夷地の警備を指示(第一次幕僚期・22年間)。
「三章の法」を発布、キリスト教の禁止やアイヌ同志の窃盗や殺人を幕府が裁定するとの振れを出す
松前藩による場所請負制度を廃止し、幕府の直捌制度にする(しかし内実は全く同じだった)。
また同時に幕府は道東のアイヌを中心に、それまで禁止していた和語の修得を指示し、アイヌの風俗を禁止し、和服や農耕などをし、同化・改俗を計る。
しかしこの時期、幕領下のクスリで起こった殺人事件を制札(三章の法)に従って裁こうとした所、地元のアイヌが蜂起の気配を見せたので処分できなかったという事件も発生する。
「蝦夷島奇観」村上島之上

19世紀頃

ロシアの南下に伴い、松前の支配を廃し蝦夷地を直轄領とした江戸幕府は、アイヌがロシア人に接近する事を禁止し、諸外国に対し蝦夷地を自国領として主張するために、アイヌを日本人化する政策を開始、蝦夷地の内国化を推し進めた。
この世紀の後半より、アイヌの表記が「蝦夷」より「土人」が多くなる。

1801

寛政12

伊能忠敬、蝦夷南東海岸と奥州街道の略測図を完成。

1802

江戸幕府、蝦夷奉行を設置、アイヌに対する和人風俗化、農耕の指導を禁止。

1804

文化1

江戸幕府、土人教化の為に、有珠に善光寺(浄土宗)、様似に等樹院(天台宗)、厚岸に国秦寺(臨済宗)を設立(蝦夷三官寺)。
これらの寺は現在の寺院とは異なり、檀家を持たない、全て財政は幕府持ちの出先機関であり、蝦夷地における和人の橋頭堡確保、アイヌ教化(同化)の為の拠点であった。

長崎での交渉決裂に伴い、ロシア船がカラフト・エトロフ島を襲撃、商場の番人を連行、江戸幕府は、南部・津軽・秋田・庄内・仙台・会津な各藩に出兵を命ずる。 蝦夷奉行を函館奉行と改称。
この頃、幕府の把握しいたアイヌの人口は26800人

ロシア使節ザレノフ、長崎に来航、通商を求めるも決裂

1807

江戸幕府、西蝦夷地も直轄とし、松前藩を奥州梁川へ転封(9000石)。これにより、蝦夷地全体が幕府の直接の支配下となる。

1808-9

間宮林蔵、カラフト・アムール川下流域を調査。

1811

江戸幕府、ロシア船の船長ゴローニンら八名をクナシリ島で捕らえ、松前に2年間拘禁する(ゴローニン事件)。

1812

ロシア帝国、高田屋嘉兵衛(エトロフ島場所請負人)をクナシリ沖で捕らえカムチャッカに連行する。
江戸幕府、間宮林蔵を蝦夷地へ派遣。

1817

文化14

石狩で天然痘が流行、石狩場所のアイヌ、2130名中833名死亡す、以後何度も天然痘が猛威を振るう。

1821

文政4

幕府は東西蝦夷地を松前藩に戻す(松前藩復領期・34年間)。

1822

文政5

有珠山が噴火、大被害
この頃、幕府の把握しいたアイヌの人口は23720人、石狩・宗谷・積丹6131人、釧路・根室・斜里5975人

1845

松浦武四郎、蝦夷地の太平洋岸を探検。

1846・49

松浦武四郎、蝦夷地の日本海岸を経て樺太に至る(再航蝦夷日誌)。

1853

米国使節ペリー、浦賀に来航(黒船来航)

1854

江戸幕府、函館奉行を設置。
この頃、幕府の把握しいたアイヌの人口は17810人、石狩・宗谷・積丹3400人、釧路・根室・斜里3609人

ロシア使節プチャーチン、長崎に来航、日露和親条約締結(千島は得憮水道を境界とし、樺太は雑居の地とする)

神奈川条約により、アメリカ船函館に至り、日米和親条約締結、箱館・下田を開港

1855

日露和通好条約締結
江戸幕府とロシア帝国は、エトロフ島までを江戸幕府の領域、千島は得憮水道を境界、カラフトは両国の雑居地であると、住民を無視して勝手に決定する。

江戸幕府、松前氏の居城附近を除く蝦夷地を全て直轄とし、諸藩に警備を命ずる(第二次幕僚期・13年間)
松浦武四郎、蝦夷御用雇となり、これ以後4年間、幕府の蝦夷政策の問題点に関する報告を行った(三航蝦夷日誌・東西蝦夷山川地理取調日誌)。

1856

江戸幕府、和人の蝦夷地への入植を奨励、箱館奉行、アイヌの本格的な和風(同化)政策を開始。
アイヌの風習である耳輪、刺青、髭などを禁止し、和服や農耕、日本語名などを強制、さらに各地のアイヌを襲い剃髪・剃髭を強行、同化・改俗を強制する。和風化したアイヌを「帰俗土人」「新シャモ」などと呼び、俸禄まで与えて奨励する。

また、この「土人同化」の手柄を競った役人の先行により、各地では大混乱となり、改俗を嫌うアイヌ達は各地から逃亡し、逃げられない女子供には自殺者まで発生する事態となる。
この時期、クスリ場所に住むアイヌ1326のうち483人までは髪を日本風に改めたという報告書が提出されていたが、松浦武四郎が調査したところ、実際に日本風の髪型のアイヌは13人だけであった、という事件も発生した。

1857

安政4

函館奉行、二人の医師を東西蝦夷地に派遣、各地の和人とアイヌに、天然痘の予防の為の巡回種痘を実施。その際、シマコマキのリクンニキ、シラヌシのヲケラなど、各地の首長が自ら率先して種痘(ウエボソ)を受けて見せた。
この頃、江戸幕府支配下でも天然痘が流行していたが、巡回種痘は一切行われておらず、実態としては、危険で不慣れな輸入技術をアイヌで人体実験したもの。

1858 安政5

石狩場所の請負制度廃止、これより以後各地で順次請負制度が廃止に向かう。
松浦武四郎、近世蝦夷人物誌において、虐げられたアイヌの生活を詳細に記録するも、松前藩の妨害にあい、明治45まで刊行されず。 登別に初めて温泉宿が作られる

彗星出現

1859

江戸幕府、蝦夷地を東北六藩に分領し、警備を命ずる。

1862

「知床日誌」松浦武四郎
…斜里、網走では、女は年頃(16・7)になるとクナシリ(この当時、現地のアイヌは酷使によって全滅していた)に連行されて、諸国からきている和人に体を弄ばれる、男も年頃になると連行され、働ける間は遠い土地で酷使され、病気になり動けなくなって帰るものが多い、夫婦で連行されたものは、夫は遠い漁場で酷使され、妻は番屋で慰み女とされる…そして子供が出来た場合、和人達はそれを突き殺し、押し殺す…そのような事情で、斜里、網走では、漁を行う労働力が無く、老人・病人・子供などが、仕方が無く浜辺で拾い漁を行っている(知床日誌)。


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