}{}{ アイヌ モシリ年表 }{}{
この年表は、あくまで大雑把な出来事をまとめたものです
もっと詳しい年表は、それぞれの時代に区切ったものを下記に用意する予定です
西暦 |
日本暦 |
アイヌ民族の辿ってきた歴史 |
主要な出来事 |
658 |
斉明4 |
大和朝廷の阿倍比羅夫、軍船200隻を率い日本海を北上、蝦夷に侵出。 |
|
8世紀 |
初期には蝦夷との供物のやり取りの記述が幾つかあり、この時期、大和朝廷は東北地方以北の蝦夷に対し供物や官位を与え、懐柔策をとりつつ、城柵など拠点を増築しいてった模様。 |
平城京建設 |
|
724 |
神亀1 |
陸奥・海道の蝦夷が大規模な蜂起。 |
|
774 |
蝦夷・俘囚(恭順した、あるいは恭順しているフリをしている蝦夷)が大和朝廷への朝貢停止、陸奥の海道蝦夷が桃生城を攻略。 |
||
780 |
俘囚の砦麻呂が蜂起、多賀城陥落、出羽地方の蝦夷へも蜂起拡大。 |
||
794 |
延暦13 |
大和朝廷の桓武、東北地方に10万の大軍を派遣するも、翌年撤退(第2次東北侵攻)。 |
大和朝廷、平城京から平安京へ遷都 |
801 |
延暦20 |
大和朝廷、征夷大将軍・坂上田村麻呂に4万の兵を与え派遣、胆沢蝦夷を制圧(第3次東北侵攻) |
カール大帝戴冠 |
811 |
弘仁2 |
大和朝廷、爾薩体、弊伊(ニサッタイ、ヘイ、それぞれ岩手県)の蝦夷を侵略。 |
|
1189 |
文治5 |
鎌倉軍閥の源頼朝、奥州に侵攻し藤原氏滅亡、奥州惣奉行を設置、御家人を行政官として派遣し奥州の支配を強化。結果、津軽周辺以外の「俘囚」の豪族の勢力は衰退・解体される。 |
第三回十字軍 |
13世紀頃 |
津軽に十三湊(とさみなと)成立、西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。アイヌの交易舟や京からの交易船などが多数往来した。 |
||
1264 |
元軍がアムール川下流域で骨鬼(アイヌ?)と衝突。 |
||
1268 |
東北地方で、蝦夷が大規模な蜂起を起し、鎌倉幕府は大軍を派遣。 |
||
1274-81 |
元軍が北九州に二回にわたり襲来する(文永の役・弘安の役)。 |
マルコポーロ |
|
1284-8 |
元軍がカラフトに侵攻、骨鬼と衝突する。 |
||
1297 |
骨鬼、海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。 |
||
14世紀頃 |
この時期には、流刑者や敗退した武士、季節労働者として渡来していた東北・北陸方面の人々などが、ある程度、道南地方に定住していた模様。 |
英仏百年戦争 |
|
1356 |
延文1 |
『諏訪大明神絵詞』のなかで蝦夷(アイヌ)のことに言及。 |
ペスト大流行 |
|
|||
安東盛季が阿部氏に破れ、津軽十三湊を放棄し、蝦夷島に逃げ渡る。この後、和人によるアイヌ・モシリへの移住が本格化する。 |
禁闕の変 |
||
1456 |
康正2 |
志乃利鍛冶屋がアイヌのオッカイ(男?)を殺した事を起因として、アイヌ民族蜂起(シノリ事件) |
|
コシャマイン戦争 |
|||
15世紀末 |
この時期、京都を中心に応仁の乱が発生する、山城の国一揆、加賀の一向一揆なども相次ぎ、室町幕府衰退し、戦国時代に入る。 |
グラナダ陥落、イベリア半島のイスラム時代終焉 |
|
1515 |
永正12 |
アイヌのショヤ(庶野)、コウシ(匐時)、道南で蜂起、徳山を攻める。蛎崎義広、和睦の席で両者を暗殺。 |
|
1529 |
道南の首長タナカサシ蜂起、勝山の和喜館を攻める。蛎崎義広、和睦を称して弓矢でタナカサシを暗殺する。 |
||
1536 |
天文5 |
タナカサシの女婿タリコナ蜂起。蛎崎義広、和睦と称し、酒宴の席で暗殺。 |
|
1551 |
天文20 |
蛎崎李広、東西のアイヌの首長と和睦、和人地を確定(1457から1/3に減少) |
|
1593 |
文禄2 |
豊臣秀吉、蛎崎慶広(後に松前と改姓)に朱印状を与え、蝦夷島の支配権を公認。(松前藩成立) |
|
1604 |
慶長9 |
松前藩が征夷大将軍・徳川家康から黒印状によりアイヌとの交易権独占を認められる。 |
|
1620-40頃 |
商場知行制確立 |
||
1643 |
寛永12 |
西部の首長ヘナウケ蜂起、蛎崎利広が制圧。 |
|
1648 |
慶安1 |
東部で反松前のメナシクル(十勝方面のアイヌ)と、親松前のシュムクル(日高方面のアイヌ)が衝突。 |
|
シャクシャイン戦争 |
|||
1720頃 |
場所請負制が一般化する |
||
1770-72 |
ウルップ島で、ロシア人狩猟者とクリルアイヌが衝突、ロシア人を千島列島から追放。 |
||
1774 |
安永3 |
飛騨屋久兵衛、松前藩から室蘭・厚岸・霧多布・国後(翌年には宗谷も)場所での交易権を請け負う。 |
|
1778 |
安永7 |
ツキノエの案内によってロシア人がノッカマップに来航、日本語で松前藩と交易交渉をするも決裂。 |
|
1780 |
石狩などで天然痘が流行、アイヌの死者647人に及ぶ。 |
||
1783 |
ソーヤ・メナシ・カラフトで飢饉、アイヌの餓死者がソーヤ・メナシでは800−900名、カラフトでは180名に及ぶ。 |
天命の大飢饉 |
|
1785 |
江戸幕府、蝦夷地に最上徳内らの調査隊を派遣。 |
||
1788 |
飛騨屋、クナシリ場所にて、大規模な搾粕製造を開始。 |
||
メナシ クナシリ戦争 |
日本全国で百姓一揆頻発 |
||
1792 |
ロシア使節ラックスマン、根室に来航。 |
||
1799 |
江戸幕府、対露緊張切迫に伴い、松前藩には対応能力が無いと判断、東蝦夷地を直轄地とし、津軽・南部両藩に蝦夷地の警備を指示(第一次幕僚期・22年間)、1807年には西蝦夷地も直轄にとする。 |
||
19世紀頃 |
ロシアの南下に伴い、松前の支配を廃し蝦夷地を直轄領とした江戸幕府は、アイヌがロシア人に接近する事を禁止し、諸外国に対し蝦夷地を自国領として主張するために、アイヌを日本人化する政策を開始、蝦夷地の内国化を推し進めた。 |
||
1802 |
江戸幕府、アイヌに対する和人風俗化、農耕の指導を禁止。 |
||
1804 |
文化1 |
江戸幕府、土人教化の為に、有珠に善光寺、様似に等樹院、厚岸に国秦寺を設立(蝦夷三官寺) |
ロシア使節ザレノフ、長崎に来航、通商を求めるも決裂 |
1817 |
文化14 |
石狩で天然痘が流行、2130名中833名死亡す、以後何度も天然痘が猛威を振るう。 |
|
1821 |
幕府は東西蝦夷地を松前藩に戻す(松前藩復領期・34年間)。 |
||
1845 |
松浦武四郎はこの年から6回にわたり蝦夷地を探検、虐げられたアイヌの生活を記録するも、松前藩などの妨害に会い、その記録は生前には発表されなかった。 |
||
1855 |
日露和親条約締結 |
前年、日米和親条約により箱館・下田を開港 |
|
1856 |
江戸幕府、蝦夷地への入植を奨励、アイヌの本格的な和風(同化)政策を開始。 |
||
1857 |
東西蝦夷地で天然痘の予防の為の巡回種痘を実施。実態としてはアイヌを利用した人体実験であった。 |
||
1859 |
江戸幕府、蝦夷地を東北六藩に分領し、警備を命ずる。 |
||
|
|||
1868 |
明治1 |
戊辰戦争 |
|
函館戦争 |
|||
開拓使(明治政府)、耳輪、入墨、家屋葬送、禁止される。 日本語の使用を強制。 |
|||
1872 |
明治5 |
黒田清隆、開拓使仮学校付属北海道土人学校設立、アイヌの男女36名を東京へ連行。 |
|
開拓使(明治政府)、カラフト、チシマ交換条約により、108戸841人のカラフトアイヌを北海道に強制移住させる。 |
|||
開拓使(明治政府)、アイヌ一般に氏(うじ)を用いるように通達、アイヌの戸籍完成。 |
|||
1877 |
明治10 |
西南戦争勃発 |
|
1878 |
明治11 |
開拓使(明治政府)、アイヌの呼称を「旧土人」と統一。 札幌郡内の河川で鮭漁禁止。 |
|
1884 |
明治17 |
明治政府、クリルアイヌ97名、占守島から色丹島に強制移住。 |
秩父貧民党事件 |
石狩川上流、旭川、永山、当麻、比布などに敷居していたアイヌ40戸が、自衛のために近文の一角に自ら移住、これが現在のチカップニコタンとなる。 |
|||
北海道庁(明治政府)、道内の鹿猟を全面禁止。 北海道各地でアイヌの「保護地」への強制移住が起こる。 |
|||
1894 |
明治27 |
明治政府(北海道庁)、近文(旭川市)の、アイヌへの付与予定地を決定。 |
日清戦争 |
1899 |
明治32 |
北海道旧土人保護法制定 |
|
1900 |
明治33 |
道庁が近文のアイヌの給与予定地、大倉喜八郎(現在のサッポロビールなどの創設者)らへの払い下げを決定、アイヌ側の反対運動により取り消される。 |
|
1901 |
明治34 |
旧土人児童教育規程公布(和人児童と区別し、低い教育を実施) |
|
演習中に遭難した青森歩兵第五聯隊救助のため、八雲アイヌ捜査隊八甲田山で活躍。 |
|||
近文アイヌ給与地問題再燃、旭川の川村モノクテ、土地問題で道庁へ。 |
|||
1904 |
明治37 |
カラフトアイヌ山辺安之助、上川アイヌ北風磯吉らアイヌ民族63名が日露戦争に従軍。劇的な活躍を見せる。 |
日露戦争 |
1905 |
明治38 |
ポーツマス条約により南樺太が日本領となる |
|
明治政府、給与地一戸、五町歩を一町歩に改める。旧土人給与予定地、貸付30年期限とする。 |
|||
金成イメカニ(マツ)近文聖公会伝導所赴任 知里幸恵、旭川へ。 |
|||
1914 |
大正3 |
第一次世界大戦 |
|
旭川にて川村イタキシロマが「川村アイヌ記念館(現・川村カネトアイヌ記念館)」開設、アイヌの手による始めての博物館、記憶の砦。 |
|||
知里幸恵、心臓病で東京にて死去。 |
|||
1923 |
大正12 |
知里幸恵編「アイヌ神謡集」刊行。 |
関東大震災 |
1926-7 |
近文アイヌ、解平社結成。十勝アイヌ、十勝旭明社創設。 |
||
北海道アイヌ協会設立(現ウタリ協会・十勝旭明社が中心となり、旭川のアイヌは不参加)、「蝦夷の光」創刊。 |
|||
第3期・近文旧土人給与地問題にて、荒井源次郎氏、陳情のために上京して運動を展開。 |
|||
1933 |
昭和8 |
樺太島域のアイヌに日本国籍。 |
|
1941 |
昭和16 |
日本軍・南部仏印進駐、太平洋戦争勃発 |
|
1944 |
サイパン島陥落・本土爆撃開始 |
学徒勤労令 |
|
|
|||
1945 |
昭和20 |
日本帝国敗戦・無条件降伏 |
大日本帝国敗戦 |
1946 |
昭和21 |
社団法人北海道アイヌ協会設立(現ウタリ協会) |
|
1950 |
昭和25 |
朝鮮戦争勃発 |
翌年、サンフランシスコ講和条約。 |
日本でのテレビ放送始まる |
|||
イヨマンテ(熊送り)禁止される |
|||
1960 |
昭和35 |
北海道アイヌ協会、再建総会開催。翌年、北海道アイヌ協会、北海道ウタリ協会に改称。 |
|
1964 |
昭和39 |
全道アイヌ祭り |
東京オリンピック。 |
1966 |
昭和41 |
アイヌ民芸使節団の弟子豊治、沖縄の真栄平に「南北の塔」建立。 |
|
1970 |
昭和45 |
有珠火力発電書反対闘争開始 |
日米安保条約自動延長(70年安保闘争)。 |
1971 |
昭和46 |
東アジア抗日武装戦線、興亜観音像、殉国七士の碑を爆破。 |
沖縄返還協定調印 |
アイヌ解放同盟結成・山本太助翁らと共に人類学会批判 |
沖縄併合。 |
||
1973 |
昭和48年 |
「全国アイヌの語る会」 |
石油危機 |
北海道庁が、ウタリ福祉対策(第1次)開始、現在(第4次)も継続中。 |
アニメ・アルプスの少女ハイジ、宇宙戦艦ヤマト放映。 |
||
1975 |
昭和50 |
苫小牧ガスライター不当逮捕事件発生 |
サイゴン陥落、ベトナム戦争終結。 |
1977 |
昭和52 |
||
1980 |
昭和55 |
「関東ウタリ会」発足 |
イラン・イラク戦争始まる(-1988) |
1982 |
昭和57 |
国際連合「先住民に関する作業部会」設置。 |
|
1983 |
昭和58 |
屈斜路湖畔でシマフクロウのイヨマンテ復活 |
|
アイヌ古式舞踊が重要無形文化財に指定される。 |
アニメ・風の谷のナウシカ上映。 |
||
「アイヌ肖像件裁判」提訴(1988に和解) |
男女雇用機会均等法。 |
||
1986 |
昭和61 |
中曽根首相による「日本は単一民族国家、私もアイヌ系」発言 |
|
旭川と二風谷でアイヌ語教室始まる(現在は全道で11教室) |
|||
1988 |
昭和63 |
ウタリ問題懇話会が 北海道旧土人保護法の廃止と「アイヌ新法(仮称)」制定の必要性を答申。 |
イラン・イラク戦争停戦。 |
札幌でアイヌ文化祭(ユカラ、アイヌ語劇、古式舞踊)、東京でアイヌ語弁論大会が開催。 |
ソ連・アフガンから撤退。 |
||
1990 |
平成2 |
笹島差別致死事件発生 |
湾岸戦争勃発。 |
1991 |
平成3 |
北海道立ウタリ総合センター(ウタリ協会などが使用、かでる2・7内)設置。 |
湾岸戦争終結。 |
1992 |
平成4 |
国際連合の「世界の先住民の国際年」の開幕式で野村義一が演説。 |
|
1993 |
平成5 |
二風谷ダム訴訟始まる(原告、萱野茂、貝沢正) |
|
萱野茂、参議院議員に繰り上げ当選(アイヌ民族初の国会議員誕生) |
|||
1995 |
平成7 |
北大人骨事件発生 |
阪神・淡路大震災。 |
1996 |
平成8 |
「萱野茂のアイヌ語辞典」刊行。 二風谷ダム貯水開始。萱野茂参議院議員らが反発。 |
|
二風谷ダム訴訟の判決で「アイヌの先住性」が認められる。 |
|||
1999 |
平成11 |
Ainu puyarA開設。 |
|
2000 |
平成12 |
「児玉・馬場コレクションに見る北の国アイヌの世界展」 |
|
2001 |
平成13 |
鈴木宗夫「アイヌは同化されていなくなった、日本は単一民族」と発言 |
世界貿易センターに衝突テロ発生。 |