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この年表は、あくまで大雑把な出来事をまとめたものです
もっと詳しい年表は、それぞれの時代に区切ったものを下記に用意する予定です


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「歴史」といいましても、アイヌ民族には文字を使って物を記録するという習慣が無かったので、
近現代(明治期〜現代)になって行われたアイヌ自身の手による活動の記録意外は、
多くは和人の研究者、あるいは、その他の民族の研究者や、国家の視点によるものが中心となっています。
特に、言い伝えの記憶の届かぬ、遥か昔の古代の記録は、主にアイヌを夷荻(見下した異民族)として
記録する側のものが中心となり、不確かで恣意的なものが多くなります。
(近現代の和人の研究者の記録の視点も十二分に、恣意的・視姦的ですが)

そもそもが「歴史」というもの自体が、その視点の中心に位置する民族や国家、個人の
恣意によって形成されているものであるのも確かです。
ここでは、異民族(つまり、アイヌから見た異民族、和人・中国人・ロシア人など)のもたらした記述を活用しながら、
「アイヌ」を巡る大きな流れを把握し「アイヌ側からの歴史」の再構築の一助となる資料を提供したいと思います。

アイヌ民族自身が、自らを中心として「アイヌ」を巡る諸々を語る為に。

伝説の中のアイヌの先達(古代から和人の到達まで)
和人・ロシア人との狭間で(和人の入植から明治維新まで)
同化政策と近代化の中で(北海道命名から戦争終結まで)
蘇るアイヌとしての自覚(戦後から現在まで)

西暦

日本暦

アイヌ民族の辿ってきた歴史

主要な出来事

658

斉明4

大和朝廷の阿倍比羅夫、軍船200隻を率い日本海を北上、蝦夷に侵出。
渡島蝦夷(アイヌ?)と接触。

8世紀

初期には蝦夷との供物のやり取りの記述が幾つかあり、この時期、大和朝廷は東北地方以北の蝦夷に対し供物や官位を与え、懐柔策をとりつつ、城柵など拠点を増築しいてった模様。
中期には、大和朝廷は東北から金を採掘する為に、多くの技術者を派遣、城作や施設の造営に地域住民を酷使し、反感も高まっていった。

平城京建設
イスラム軍、イベリア半島に侵入
大仏落成
タラス河畔の戦い

724

神亀1

陸奥・海道の蝦夷が大規模な蜂起。
大和朝廷、多賀城(宮城県多賀城市)設置、東北支配の為の政治的な拠点。

774

蝦夷・俘囚(恭順した、あるいは恭順しているフリをしている蝦夷)が大和朝廷への朝貢停止、陸奥の海道蝦夷が桃生城を攻略。
大和朝廷の大伴駿河麻呂、軍勢を率いて東北に侵攻。

780

俘囚の砦麻呂が蜂起、多賀城陥落、出羽地方の蝦夷へも蜂起拡大。

788 延文7 大和朝廷の桓武、遠征軍を派遣するも、翌年胆沢のアテルイに多賀城の北で敗北する(第1次東北侵攻・衣川/巣伏の戦い)

794

延暦13

大和朝廷の桓武、東北地方に10万の大軍を派遣するも、翌年撤退(第2次東北侵攻)。

大和朝廷、平城京から平安京へ遷都

801

延暦20

大和朝廷、征夷大将軍・坂上田村麻呂に4万の兵を与え派遣、胆沢蝦夷を制圧(第3次東北侵攻)
アテルイらは翌年降伏し、平安京に連行される。
大和朝廷、胆沢城を設置し、東北支配の中枢とする。
この戦役に協力し、捕らえられ、あるいは降伏した「まつろわぬ蝦夷」である俘囚や夷俘は、全国各地に強制移住される事になる。

カール大帝戴冠

803 延暦22 アテルイら、京都(平安京)の帰りに大阪(河内国杜山)で虐殺される。

811

弘仁2

大和朝廷、爾薩体、弊伊(ニサッタイ、ヘイ、それぞれ岩手県)の蝦夷を侵略。

1189

文治5

鎌倉軍閥の源頼朝、奥州に侵攻し藤原氏滅亡、奥州惣奉行を設置、御家人を行政官として派遣し奥州の支配を強化。結果、津軽周辺以外の「俘囚」の豪族の勢力は衰退・解体される。

第三回十字軍

13世紀頃

津軽に十三湊(とさみなと)成立、西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。アイヌの交易舟や京からの交易船などが多数往来した。

1264

元軍がアムール川下流域で骨鬼(アイヌ?)と衝突。

1268

東北地方で、蝦夷が大規模な蜂起を起し、鎌倉幕府は大軍を派遣。
これ以後、一世紀ほど蝦夷の蜂起は相次ぎ、蒙古襲来と合間って、鎌倉幕府衰退の大きな原因となる。

1274-81

元軍が北九州に二回にわたり襲来する(文永の役・弘安の役)。

マルコポーロ
東方見聞録

1284-8

元軍がカラフトに侵攻、骨鬼と衝突する。

1297

骨鬼、海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。

14世紀頃

この時期には、流刑者や敗退した武士、季節労働者として渡来していた東北・北陸方面の人々などが、ある程度、道南地方に定住していた模様。

英仏百年戦争
ルネサンス興る

1356

延文1

『諏訪大明神絵詞』のなかで蝦夷(アイヌ)のことに言及。

ペスト大流行



1443 嘉吉3

安東盛季が阿部氏に破れ、津軽十三湊を放棄し、蝦夷島に逃げ渡る。この後、和人によるアイヌ・モシリへの移住が本格化する。

禁闕の変
訓民正音(ハングル)創製

1456

康正2

志乃利鍛冶屋がアイヌのオッカイ(男?)を殺した事を起因として、アイヌ民族蜂起(シノリ事件)

1457 康正3

コシャマイン戦争
コシャマイン率いるアイヌ諸部族の連合軍が道南の和人の砦12館中10館を落とすが、翌年、和睦の席で武田信広によりコシャマイン暗殺される、この功により武田信広、蛎崎氏を継ぎ松前藩の祖となる。これより1世紀に渡りアイヌの蜂起が相次ぎ、生き残った和人の多くは松前付近に集結し、後の和人地の原型ができる。 当時のアイヌ人口は、50万人。

15世紀末

この時期、京都を中心に応仁の乱が発生する、山城の国一揆、加賀の一向一揆なども相次ぎ、室町幕府衰退し、戦国時代に入る。

グラナダ陥落、イベリア半島のイスラム時代終焉

1515

永正12

アイヌのショヤ(庶野)、コウシ(匐時)、道南で蜂起、徳山を攻める。蛎崎義広、和睦の席で両者を暗殺。

1529

道南の首長タナカサシ蜂起、勝山の和喜館を攻める。蛎崎義広、和睦を称して弓矢でタナカサシを暗殺する。

1536

天文5

タナカサシの女婿タリコナ蜂起。蛎崎義広、和睦と称し、酒宴の席で暗殺。

1551

天文20

蛎崎李広、東西のアイヌの首長と和睦、和人地を確定(1457から1/3に減少)

この和睦により、アイヌ諸部族連合体は和人勢力を渡島半島の一角に追いやることに成功しており、コシャマインの蜂起以来の一世紀に渡るアイヌの戦いは、軍事的には成功したとも言える。
これより一世紀弱の間、平和な時代が訪れる。


翌年、松前藩は「夷狄の商舶往還の法度」を制定し、アイヌに対する支配体制と交易の優位を確立した。

1593

文禄2

豊臣秀吉、蛎崎慶広(後に松前と改姓)に朱印状を与え、蝦夷島の支配権を公認。(松前藩成立)

1604

慶長9

松前藩が征夷大将軍・徳川家康から黒印状によりアイヌとの交易権独占を認められる。
結果として、アイヌの本州島の和人との直接交易は禁止された。

1620-40頃

商場知行制確立
松前藩は幕府より公認された各地のアイヌとの交易権を、領地の代わりに家臣に分け与えた。
これによりアイヌの交易相手は、商場の支配者の松前藩の家臣に限定されることになる。かつて、カラフトやアムール川、津軽や南部まで出向いていたアイヌの自由な交易活動は完全的に禁止され、競争相手もいない「交易」により、不利な交換レートを強要される事が多くなった、これ以後、アイヌの生活は大きな圧迫を受ける事となる。

1643

寛永12

西部の首長ヘナウケ蜂起、蛎崎利広が制圧。

1648

慶安1

東部で反松前のメナシクル(十勝方面のアイヌ)と、親松前のシュムクル(日高方面のアイヌ)が衝突。

1669 寛文9

シャクシャイン戦争
川筋に侵入する和人商人などへの対応を巡っての部族同士の抗争が大規模な衝突に発展。
シャクシャインが対松前戦線の樹立を呼びかけ、東は幌別から釧路、西は増毛あたりまでのアイヌが参加した最大規模の軍事行動となる(宗谷・利尻・石狩は不参加)、アイヌ連合軍は松前藩の兵士や商人を355(273)名殺害、商船を19隻襲撃し道南に進出するも、国縫川で松前泰広率いる鉄砲隊に進撃を阻まれ後退しシベチャリの砦に篭城、ゲリラ戦に入る。
しかし、10月23日に松前藩が和解の席でシャクシャインを毒殺する事で終結。
この戦いの後、松前藩は各地のアイヌに対し、子々孫々まで刃向わないという起請文を強要する。

1720頃

場所請負制が一般化する
知行地の交易を商人に一任し、税金として運上金を徴収する制度。
実体としては、この時代の他の地域の藩もそうであったように、参勤交代やその他の財政上の理由から運営が困難になった松前藩やその家臣が、たまっていく負債をなんとかする為に、債権者である商人に交易権一任したもの。
これにより過酷な利潤追求の結果、商場知行制の時よりも収奪・酷使は激化し、アイヌとの交易だけでは足りず、アイヌを労働力(つまり奴隷)として徴用・酷使し、直接産物を生産する行為がはじまる。

このアイヌへの奴隷労働と搾取によって生産されたコンブは大阪・富山を経由して沖縄にまで流通、魚肥(ニシンなどの油を絞った粕)は金肥と呼ばれ、近畿市場を中心に大量に流通し、綿花・菜種・藍などの商品農産物の生産性を大幅にを向上させ、上方や江戸に花開いた大衆の消費文化を支える基盤となった
「蝦夷地」と中世日本の台所事情は密接に関係している

1770-72

ウルップ島で、ロシア人狩猟者とクリルアイヌが衝突、ロシア人を千島列島から追放。

1774

安永3

飛騨屋久兵衛、松前藩から室蘭・厚岸・霧多布・国後(翌年には宗谷も)場所での交易権を請け負う。
飛騨屋は定置網などの漁法を持ちこみ、地域のアイヌを奴隷として牛馬のように酷使、餓死者が頻発。

一方国後場所では、大舟で渡来した飛騨屋をエトロフ島の首長ツキノエらが拒絶、船の積荷を奪い追い返した。
この行動に対し、松前藩は報復として、北海道本当の他の和人に対し、ツキノエとの交易を禁止を指示、経済封鎖を行う。
ツキノエらは、ロシアと独自に交易を開始。

1778

安永7

ツキノエの案内によってロシア人がノッカマップに来航、日本語で松前藩と交易交渉をするも決裂。
ロシア人、同時にツキノエらとの交易も取りやめる。

1780

石狩などで天然痘が流行、アイヌの死者647人に及ぶ。

1783

ソーヤ・メナシ・カラフトで飢饉、アイヌの餓死者がソーヤ・メナシでは800−900名、カラフトでは180名に及ぶ。
仙台藩医工藤平助『赤蝦夷風説考』で、ロシア人の南下による蝦夷地防衛の必要性を訴える。

天命の大飢饉

1785

江戸幕府、蝦夷地に最上徳内らの調査隊を派遣。
この時期松前藩は、黒印状の「蝦夷は蝦夷次第」を無視、アイヌに対して日本語・日本風の髪型を禁止、笠・蓑・草鞋の使用まで禁止し、アイヌを「禽獣の類」として区別し、奴隷として酷使する根拠を作る政策を取っていた(最上徳内・蝦夷国風俗人情沙汰)

1788

飛騨屋、クナシリ場所にて、大規模な搾粕製造を開始。
この頃の飛騨屋はアイヌ酷使にあたり、反発するアイヌに対し、脅迫、暴行、見せしめとしての毒殺などを繰り返した、老人や病人などの労働力として価値の無いものも虐殺した。
また、和人の支配人や番人らは、アイヌの女性を手当たり次第に強姦、抗議に来た夫を虐待し、さらに弁償させるという傍若無人の振る舞いを行った(新井田孫三郎・寛政蝦夷乱取調日記)。

1789 寛政1

メナシ クナシリ戦争
過酷な収奪や酷使、虐殺を行った飛騨屋に対し、首長ツキノエの留守中にマメキリらが中心となって蜂起、国後島の番屋を襲う、それに呼応して対岸のメナシでもアイヌが蜂起、クナシリのアイヌと合流した200名余りのアイヌ勢は各地の商人や松前藩の兵士、飛騨屋の交易舟などを襲撃、計71人を殺害した。
これに対し松前藩は鎮圧軍を派遣、アイヌ側はツキノエらの説得によって、314名が闘わず武装解除して投降、ツキノエらが蜂起の首謀者38名を選出し引き渡す。
投降した首謀者38名は、ノッカマップの丘にて処刑を執行されるが、処刑の執行中に暴動状態となり、鎮圧軍は牢柵の中に向けて鉄砲を射撃、虐殺する、その首は塩漬けにされて松前に持ち去られ、城下で晒し首とされた
さらに鎮圧軍は藩主への御目見えとして、さらに43名のアイヌを松前城下に連行した。

江戸幕府はこの事件を重大視し、南部・秋田・八戸の各藩に出兵の準備を指示し、青島俊蔵、笠原五太夫、最上徳内らの探検家を隠密として蝦夷地に派遣する。

翌年、蛎崎波響が夷酋列像を制作

日本全国で百姓一揆頻発

1792

ロシア使節ラックスマン、根室に来航。

1799

江戸幕府、対露緊張切迫に伴い、松前藩には対応能力が無いと判断、東蝦夷地を直轄地とし、津軽・南部両藩に蝦夷地の警備を指示(第一次幕僚期・22年間)、1807年には西蝦夷地も直轄にとする。
幕府はアイヌに対し、禁止していた和語の修得を指示し、改俗を計る。
「蝦夷島奇観」村上島之上

19世紀頃

ロシアの南下に伴い、松前の支配を廃し蝦夷地を直轄領とした江戸幕府は、アイヌがロシア人に接近する事を禁止し、諸外国に対し蝦夷地を自国領として主張するために、アイヌを日本人化する政策を開始、蝦夷地の内国化を推し進めた。
この世紀の後半より、アイヌの表記が「蝦夷」より「土人」が多くなる

1802

江戸幕府、アイヌに対する和人風俗化、農耕の指導を禁止。

1804

文化1

江戸幕府、土人教化の為に、有珠に善光寺、様似に等樹院、厚岸に国秦寺を設立(蝦夷三官寺)
これらの寺は現在の寺院とは異なり、檀家を持たない、全て財政は幕府持ちの出先機関であり、蝦夷地における和人の橋頭堡確保、アイヌ教化(同化)の為の拠点であった。
ロシア船ががカラフト・エトロフ島を襲撃、幕府は、東北諸藩に出兵を命ずる。

ロシア使節ザレノフ、長崎に来航、通商を求めるも決裂

1817

文化14

石狩で天然痘が流行、2130名中833名死亡す、以後何度も天然痘が猛威を振るう。

1821

幕府は東西蝦夷地を松前藩に戻す(松前藩復領期・34年間)。

1845

松浦武四郎はこの年から6回にわたり蝦夷地を探検、虐げられたアイヌの生活を記録するも、松前藩などの妨害に会い、その記録は生前には発表されなかった。

1855

日露和親条約締結
江戸幕府とロシア帝国は、エトロフ島までを江戸幕府の領域、千島は得憮水道を境界、カラフトは両国の雑居地であると、住民を無視して勝手に決定する。

江戸幕府は松前周辺以外をのを再び直轄とし、諸藩に警備を命ずる(第二次幕僚期・13年間)

前年、日米和親条約により箱館・下田を開港

1856

江戸幕府、蝦夷地への入植を奨励、アイヌの本格的な和風(同化)政策を開始。
アイヌの風習である耳輪、刺青、髭などを禁止し、和服や農耕、日本語名などを強制、さらに各地のアイヌを襲い剃髭を強行、同化・改俗を計る。和風化したアイヌを「帰俗土人」「新シャモ」などと呼び奨励する。

1857

東西蝦夷地で天然痘の予防の為の巡回種痘を実施。実態としてはアイヌを利用した人体実験であった。

1859

江戸幕府、蝦夷地を東北六藩に分領し、警備を命ずる。



1868

明治1

戊辰戦争
榎本武揚、幕府の残党を率い五稜郭へ撤退し篭城。

1869 明治2

函館戦争
五陵郭で榎本武揚率いる旧幕府軍と明治政府軍が激突、榎本武揚が降伏し終結。

明治政府、開拓使設置、アイヌモシリを主のない土地であると日本帝国に併合し、北海道と命名。(当時の北海道内の和人の人口は12万人)

場所請負人を廃止

兵部省、旭川アイヌを石狩に強制移住させようとするが、首長クーチンコロの抗議で解消

東本願寺、北海道「開教」を開始
大政奉還により、朝廷側だった西本願寺が台頭。徳川側だった東本願寺はこの事態に焦り、新政権におもねる為に新政府のメイン事業である北海道開拓に現如上人を投入、「生き仏が開かれる大地」との宣伝文句のカラーポスターを作り、一大キャンペーンを展開、東北の門徒を中心に大量に動員した。

1871 明治4

開拓使(明治政府)、耳輪、入墨、家屋葬送、禁止される。 日本語の使用を強制。
戸籍法制定、アイヌを「平民」に編入。

1872

明治5

黒田清隆、開拓使仮学校付属北海道土人学校設立、アイヌの男女36名を東京へ連行。
この学校に連行されたアイヌの内、4名死亡、3名入院、1名脱走、役所の官吏として4名、官営企業に1名採用、あとは全て帰郷する(現在地・東京の芝・増上寺←実は東京タワーのすぐ下)。

開拓使(明治政府)、イヨマンテ(熊送り)を禁止。

1875 明治8

開拓使(明治政府)、カラフト、チシマ交換条約により、108戸841人のカラフトアイヌを北海道に強制移住させる。
最初の屯田兵198戸が琴似(札幌市)に入植、以後各地に相次ぐ。

1876 明治9

開拓使(明治政府)、アイヌ一般に氏(うじ)を用いるように通達、アイヌの戸籍完成。
仕掛け弓・毒矢の使用禁止、鹿狩規則を定める。
宗谷に移住したアイヌが石狩国対雁に再び強制移住させられる。

1877

明治10

西南戦争勃発
明治新政府への士族の反発が鬱積し、西郷らを中心に集まった士族らが武装蜂起を起こし、熊本、宮崎、鹿児島を中心に7カ月に及ぶ戦いが展開、近代国家日本の経験した初の本格的な内戦。

1878

明治11

開拓使(明治政府)、アイヌの呼称を「旧土人」と統一。 札幌郡内の河川で鮭漁禁止。

1883 明治16 明治政府、北海道各地で旧土人救済方法を実施、強制移住や農耕指導を行う。 鮭漁の禁止。

1884

明治17

明治政府、クリルアイヌ97名、占守島から色丹島に強制移住。

秩父貧民党事件

1887 明治20

石狩川上流、旭川、永山、当麻、比布などに敷居していたアイヌ40戸が、自衛のために近文の一角に自ら移住、これが現在のチカップニコタンとなる。
これより数10年に渡り、腸チフス・ジフテリア・天然痘・結核などの伝染病が北海道各地で猛威を振るい、和人もアイヌも多数死亡する。特に、強制移住や伝統的な風俗の禁止の強制、劣悪な住宅の強制、狩猟の禁止などの連続で、生活環境の劣化が進んでいた地域のアイヌの死亡率は高かった。

1889 明治32

北海道庁(明治政府)、道内の鹿猟を全面禁止。 北海道各地でアイヌの「保護地」への強制移住が起こる。
ジョン バチェラーの「アイヌ語辞典」

1894

明治27

明治政府(北海道庁)、近文(旭川市)の、アイヌへの付与予定地を決定。

日清戦争

1899

明治32

北海道旧土人保護法制定
(1万5千坪以内の土地を付与、教育・共有財産管理などを規定)。
第二期、近文アイヌ給与地問題発生
第七師団の旭川への設置により、近文アイヌの転出計画が持ち上り、反対運動が展開される。

1900

明治33

道庁が近文のアイヌの給与予定地、大倉喜八郎(現在のサッポロビールなどの創設者)らへの払い下げを決定、アイヌ側の反対運動により取り消される。

1901

明治34

旧土人児童教育規程公布(和人児童と区別し、低い教育を実施)

1902 明治35

演習中に遭難した青森歩兵第五聯隊救助のため、八雲アイヌ捜査隊八甲田山で活躍。

1903 明治36

近文アイヌ給与地問題再燃、旭川の川村モノクテ、土地問題で道庁へ。

1904

明治37

カラフトアイヌ山辺安之助、上川アイヌ北風磯吉らアイヌ民族63名が日露戦争に従軍。劇的な活躍を見せる。

日露戦争

1905

明治38

ポーツマス条約により南樺太が日本領となる

1906 明治39

明治政府、給与地一戸、五町歩を一町歩に改める。旧土人給与予定地、貸付30年期限とする。
対雁に強制移住させられたアイヌの多くがカラフトに戻る。

1910 明治43

金成イメカニ(マツ)近文聖公会伝導所赴任 知里幸恵、旭川へ。
自瀬中尉ら南極探検隊が開南丸で出港、探検隊をカラフトアイヌ・山辺安之助が先導し連れていく。

1914

大正3

第一次世界大戦

1916 大正5

旭川にて川村イタキシロマが「川村アイヌ記念館(現・川村カネトアイヌ記念館)」開設、アイヌの手による始めての博物館、記憶の砦。
大正政府、新冠村の80戸のアイヌを、御料牧場の都合で上貫気別に強制移住。

1920 大正9

知里幸恵、心臓病で東京にて死去。

1923

大正12

知里幸恵編「アイヌ神謡集」刊行。

関東大震災

1926-7

近文アイヌ、解平社結成。十勝アイヌ、十勝旭明社創設。

1930 昭和5

北海道アイヌ協会設立(現ウタリ協会・十勝旭明社が中心となり、旭川のアイヌは不参加)、「蝦夷の光」創刊。
違星北斗遺稿「コタン」刊行。
旭川の川村カネトカアイヌ率いる測量隊、難所で知られた長野県飯田線の測量を行なう。

1932 昭和7

第3期・近文旧土人給与地問題にて、荒井源次郎氏、陳情のために上京して運動を展開。

1933

昭和8

樺太島域のアイヌに日本国籍。

1934 昭和9 旭川旧土人保護地処分法」公布

1941

昭和16

日本軍・南部仏印進駐、太平洋戦争勃発
日本軍は石油などの物資確保の為、当時フランス領であったインドネシアなどの南方諸島を占領。ハワイの真珠湾に停泊中のアメリカ艦隊へ奇襲攻撃を行い、全面的な戦争へ突入する。

1944

サイパン島陥落・本土爆撃開始
アメリカを始めとする連合国に、物量・戦力共に劣る日本軍は、太平洋上に広がる広範囲な戦域を維持できず各地で敗退、武器も無く退路を失った日本の兵士達は、それぞれの島で餓死した。
また、サイパン島が陥落したのを始まりとして、長距離爆撃機(B29)による本土爆撃が開始され、大阪・名古屋・東京を始めとする諸都市が、住民諸とも灰燼に帰した。

学徒勤労令



1945

昭和20

日本帝国敗戦・無条件降伏
沖縄では住民を捨石とした地上戦が戦われ、ヒロシマ・ナガサキには原爆を投下され、あまりにも多くの犠牲を出した後、本土での戦闘を前に日本政府は降伏文書に調印、玉音放送と共に無条件降伏した。15年のながきに渡り、広くアジアを巻き込んだ戦争はここに終結する。

ソ連参戦、日本政府がアイヌを殺戮した後に、不当に占拠・殖民を続けていたクナシリ・エトロフなどの「北の島々(アイヌから見ると東の島々)」を占領。この時の「ソ連による占拠」を不当と文句を言っているのが、いわゆる「北方領土」問題である。アイヌから見ればどっちも強盗。

皇民化・戦時体制化ではアイヌ協会などの活動も停止状態だっだが、敗戦による「解放」を期に盛んになった労働運動などと共に、大きな盛り上がりを見せる事となる。

大日本帝国敗戦
第二次世界大戦集結
GHQによる財閥解体指令

1946

昭和21

社団法人北海道アイヌ協会設立(現ウタリ協会)
静内町で「全道アイヌ大会」が開催され、多くのアイヌが集まり再結成される。機関紙「北の光」を発刊。
高橋真「アイヌ新聞(-48)」を刊行しアイヌ協会を批判。

1950

昭和25

朝鮮戦争勃発
かねてより続いていた米・ソのによる冷戦と世界分轄が、朝鮮半島を舞台とした戦争に発展。同じ民族同士が先祖の土地で殺し合いを行う悲劇が起こった。一方日本では、この戦争での物資需要による特需景気により経済が進展した。

翌年、サンフランシスコ講和条約。

1953 昭和28 知里真志保「分類アイヌ語辞典」

日本でのテレビ放送始まる

1955 昭和30

イヨマンテ(熊送り)禁止される

1959 昭和34 金田一京助、金成イメカニ「ユーカラ集」

1960

昭和35

北海道アイヌ協会、再建総会開催。翌年、北海道アイヌ協会、北海道ウタリ協会に改称。

1964

昭和39

全道アイヌ祭り
旭川市の支援の元、川村カネトアイヌは、全道からアイヌ約230名を招き、アイヌ民族の生活や文化の向上、紹介などを目的とした巨大な大会を開催する。
市営球場でのイヨマンテ(実際には送らず)や川下り、料理教室、ウポポ大会、ユカラ大会、弁論大会などの16の行事を五日間に渡って開催、氏の「アイヌ根性」と、民族アイヌの健在ぶりを内外に誇示した
尚、ウタリ協会は祭りの呼称に「アイヌ」を冠する事に抗議し、協力せず。

東京オリンピック。

アニメ・鉄腕アトム、鉄人28号放映。

1966

昭和41

アイヌ民芸使節団の弟子豊治、沖縄の真栄平に「南北の塔」建立。

1970

昭和45

有珠火力発電書反対闘争開始
北海道電力は、伊達に火力発電所を建設すると発表、。これに対し、このころ各地で問題化しつつあった公害問題に注目した周辺漁民が反対闘争を開始。地域のアイヌの漁民の活動も活発化し、数年間に渡り実力闘争を継続、機動隊との衝突や反対派磯船の沈没、多数の逮捕者を出した激しい戦いであった。

北海道旧土人保護法廃止案、全道市長会総会で採択。

風雪の群像事件
旭川市常磐公園に北海道開拓を記念して5体の像からなる群像が建設された。「波涛」「大地」「沃野」「塑風」「コタン」と名付けられた群像の実体は、伸び伸びとした和人の彫像の中、アイヌの古老はただ一人、膝をついて和人の入植者たちを案内しているという、随分アイヌをバカにし、開拓という名の侵略を美化たものであった。

鳩沢佐美夫「対談・アイヌ」を日高文芸誌上で発表。

日米安保条約自動延長(70年安保闘争)。
万国博覧会。

三島由紀夫が自衛隊に押し入り割腹自殺。

アニメ・巨人の星、アタックNo1、あしたのジョーなどを放映。

1971

昭和46

東アジア抗日武装戦線、興亜観音像、殉国七士の碑を爆破。

沖縄返還協定調印

1972 昭和47

アイヌ解放同盟結成・山本太助翁らと共に人類学会批判
札幌で開催された第26回日本人類学会・日本民族学会連合大会に対し、結城庄司らがアイヌ研究を批判、萱野茂が仲介。

シャクシャイン像台座損壊事件
9月20日、結城庄司らが、静内のシャクシャイン像の台座に刻まれた「北海道知事・町村金五書」の文字を、和人と戦ったシャクシャインがうかばれないと考え削り取った。→Esaman再現

侵略の碑・連続爆破事件
10月23日(シャクシャイン暗殺の日)東アジア抗日武装戦線などの和人の活動家の手により、旭川の風雪の群像と北大資料室が爆破される。後日、東京で三井・三菱の工場も爆破され死傷者が発生、京都や青森でも事件が発生し、混乱は全国区に発展した。

二風谷アイヌ資料館設立
萱野茂氏が建設。アイヌ自身の手による2番目の記憶の砦。

東京の山谷地区で、差別致傷事件発生
アイヌ差別が元で刺傷事件が発生。ウタリ協会は本件を関知しなかったが、川村カネト、荒井源次郎、苫和三、高橋真らが支援。

この年は札幌オリンピックを控え、北海道での過激派の活動が活発化する。同時期に結城庄司らの活動(台座損壊など)も活発化した事もあり、各地で(活動家でない人も含む)アイヌに対する盗聴・尾行・不当逮捕が多数発生する。そのような状況の中、自衛の意味もあり旭川アイヌ協議会が結成される。

沖縄併合。
札幌冬季オリンピック。
日本赤軍による、浅間山荘事件発生。

アニメ・デビルマン放映。

1973

昭和48年

「全国アイヌの語る会」
札幌で開催される。砂沢ビッキ、結城庄司らが活躍。

有珠火力発電書反対闘争の機関紙として新聞「アヌタリアイヌ」創刊。
「ヤイユーカラ・アイヌ学会」「東京ウタリ会」発足。

開拓記念塔の脇に、大地の手・建立。
札幌郊外にある開拓記念塔の脇に、5200人の手形を集めた碑が建設される。この手形に、山本多助は「アイヌネノアンアイヌ」、結城庄司は「アイヌ解放」、と刻み参加した

石油危機
第四次中東戦争

1974 昭和49

北海道庁が、ウタリ福祉対策(第1次)開始、現在(第4次)も継続中。

萱野茂「ウェペケレ集大成」

結城庄司逮捕 シャクシャイン像の台座損壊事件を元に、アイヌ解放同盟の結城庄司らが逮捕される。

ノッカマップイチャルパ開催
かつて強姦や酷使に耐えかねて「クナシリ・メナシ蜂起」が戦われ、多くのアイヌが虐殺されたノッカマップ岬において、アイヌ解放の戦士達のイチャルパが開催された。

アニメ・アルプスの少女ハイジ、宇宙戦艦ヤマト放映。

1975

昭和50

苫小牧ガスライター不当逮捕事件発生
タバコを吸わないアイヌの活動家が、壊れたガスライターを盗んだとして8ヶ月間拘留される。

サイゴン陥落、ベトナム戦争終結。

1977

昭和52

「闇の土蜘蛛」が東本願寺大師堂を爆破

1980

昭和55

「関東ウタリ会」発足

イラン・イラク戦争始まる(-1988)
アニメ・ベルサイユのバラ、機動戦士ガンダム放映。

1982

昭和57

国際連合「先住民に関する作業部会」設置。
札幌豊平川で「アシリチェップノミ」開催。

1983

昭和58

屈斜路湖畔でシマフクロウのイヨマンテ復活

東京で「アイヌ民族の現在を考えるレラの会(後のレラの会)」発足。
北海道ウタリ協会総会、『「北方領土」問題に関する基本方針』をまとめ。北方領土に関しては先住権は主張しない事を基本方針とする。

1984 昭和59

アイヌ古式舞踊が重要無形文化財に指定される。
北海道ウタリ協会、旧土人保護法廃止と、「アイヌ民族に関する法律(案)」決議。

アニメ・風の谷のナウシカ上映。

1985 昭和60

「アイヌ肖像件裁判」提訴(1988に和解)
アイヌ民族誌という本にチカップ美恵子が映画に出演した際の写真が無断に掲載され、しかも「滅び行く民族」という見出しを使われた。このことに対し、チカップ美恵子らが更科源蔵などの研究者を相手取り「アイヌ肖像件裁判」提訴した(1988に和解)。

旭川でイヨマンテ復活
川村・シンリツ・エオリパック・アイヌが、実際にクマを送り、全てを伝統的なアイヌ式で執り行う見世物ではない完全なイヨマンテを復活。その過程は1年にわたるTBSの取材を受け、特別番組として全国区で放映された。

男女雇用機会均等法。

1986

昭和61

中曽根首相による「日本は単一民族国家、私もアイヌ系」発言

1987 昭和62

旭川と二風谷でアイヌ語教室始まる(現在は全道で11教室)
第二回「全国アイヌの語る会」開催。
北海道ウタリ協会、国際連合の「先住民族に関する作業部会」に初参加。

1988

昭和63

ウタリ問題懇話会が 北海道旧土人保護法の廃止と「アイヌ新法(仮称)」制定の必要性を答申。

イラン・イラク戦争停戦。
アニメ・となりのトトロ、火垂るの墓、上映。

1989 平成1

札幌でアイヌ文化祭(ユカラ、アイヌ語劇、古式舞踊)、東京でアイヌ語弁論大会が開催。
札幌では、新法制定を要求するデモ行進も行われた。
釧路でイタオマチプ(外洋帆船)復元される。

ソ連・アフガンから撤退。

1990

平成2

笹島差別致死事件発生
名古屋駅裏の寄せ場笹島で、辛辣な差別が原因となった殺人事件が発生。さらに、支援の際の対応のデリカシーの無さから支援団体と支援を受けるアイヌとの間で深刻な軋轢が発生する。尚、ウタリ協会は本件を支援せず。

セイクレッド・ラン、大地と命の為のランニング開催。
アイヌ・ソビエト親善交流協会(AS協会)、サハリンを訪問。

湾岸戦争勃発。

1991

平成3

北海道立ウタリ総合センター(ウタリ協会などが使用、かでる2・7内)設置。
アイヌ・モシリの自治区を取り戻す会発足。

湾岸戦争終結。

1992

平成4

国際連合の「世界の先住民の国際年」の開幕式で野村義一が演説。
東京で、アイヌ新法の早期制定を要求する大規模なデモ行進が行われる。
萱野茂、比例代表の名簿順位次点で落選する。

1993

平成5

二風谷ダム訴訟始まる(原告、萱野茂、貝沢正)

1994 平成6

萱野茂、参議院議員に繰り上げ当選(アイヌ民族初の国会議員誕生)
国際連合の「世界の先住民の国際10年」はじまる。

日本TVによる金粉イヨマンテ事件発生 お笑いウルトラクイズにおいて、全裸で金粉、ペニスケースの芸人が登場し「イヨマンテの夜」を熱唱、当然抗議された。

東京にアイヌ料理の店「レラチセ」がオープン

1995

平成7

北大人骨事件発生
北海道大学古川講堂「旧標本庫」から、アイヌ民族・朝鮮民族を含む6体の頭骨が発見され、その処遇を巡り韓国まで問題が波及。人骨の奪還・保持に山本一昭らが活躍する。尚、現在も本件は闘争継続中である。

阪神・淡路大震災。
地下鉄サリン事件。
アニメ・新世紀エヴァンゲリオン放映。

1996

平成8

「萱野茂のアイヌ語辞典」刊行。 二風谷ダム貯水開始。萱野茂参議院議員らが反発。

1997 平成9

二風谷ダム訴訟の判決で「アイヌの先住性」が認められる。

アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」制定(通称、アイヌ文化振興法)
北海道旧土人保護法」、「旭川市旧土人保護地処分法」廃止
「(財)アイヌ文化振興・研究推進機構」設立

1999

平成11

Ainu puyarA開設。
アイヌ自身の手による、アイヌについて考える初のホームページ。

2000

平成12

「児玉・馬場コレクションに見る北の国アイヌの世界展」
アイヌの墓を暴いて回り、千体にも上る人骨を獣医学部に放置し、副葬品を奪った児玉教授の業績を美化する展覧会が全国巡回を開始。同時期に行なわれたアイヌ文化フェスティバルで埴原和朗が公演し、アイヌを研究対象としてしか見ていない発言を、多くの一般市民(子供もアイヌも含む)の前で披露した。

「アイヌ特別展を考える集い」が、oripakEsamanの呼びかけによって開催され、児玉教授の行為を隠蔽・美化する姿勢に対し痛烈に批判を行った。この一件以後、「児玉コレクション」の名前を冠した展覧会は、行なわれなくなった。山本一昭らが参加、長谷川修・小川隆吉らが支援。ウタリ協会は本件を関知せず。

2001

平成13

鈴木宗夫「アイヌは同化されていなくなった、日本は単一民族」と発言
この発言への対応を巡り、ウタリ協会、笹村理事長を解任。


アイヌ解放の戦士、山本一昭脳卒中で倒れる。現在も尚、病床から河野本道裁判闘争を継続中。

世界貿易センターに衝突テロ発生。



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