『アイヌ』にまつわるQ&A 『アイヌ』として生きていると、よくされる質問集。Tweet

(作成:Esaman&AinupuyarA。 2007年4月-2008年6月。更新随時。和人の皆様との対話、自ら経験し考えたこと、薫陶を受けたエカシ・フチとの対話のなかから作成)


●アイヌは『民族』か? 『人種』か?

●純血なアイヌは、もういないのですか?

●アイヌの人口は何人ですか?

●『アイヌ』と『ウタリ』はどう違うか?

●『アイヌ(系)』と呼ぶと差別なので『民族』とつけるべきか?

●どのような呼称をするのが適切ですか?

● 『日本人』と『和人』は、どのように違いますか?

●アイヌは「日本人」と考えてよいのですか?

●アイヌと和人を両親に持つ人たちは、自分をアイヌと思っていますか、和人(日本人)だと思っていますか?

●アイヌの歴史を簡単に教えて下さい。

●アイヌの文化はどのようなものですか?

●アイヌ語はどのような言葉ですか?

● 「先住民族」とは、どのような人たちですか。

● 「酋長」という言葉は差別語ですか?

●「土人」「原住民」という言葉は差別語ですか?

● 「先住民」と「先住民族」には、どのような違いがありますか。

●インディアンという言葉は正しくないと聞いたのですが。

●私はアイヌを差別していません。

●「アイヌは同化した」という発言は差別ですか?

● アイヌの人はルーツがあっていいですね。

●東北のエミシはアイヌですか?

●アイヌの人たちが求めているものは何ですか?

●若い世代のアイヌが目指しているものは何ですか?

●アイヌは縄文人なのですか?

●アイヌはヒッピーでゴキゲンなのですか?

●アイヌの人たちは何を食べていますか?

●このQ&Aの信憑性は?




●アイヌは『民族』か? 『人種』か?

ほんらい「アイヌ」とは「民族」であり、人種ではありません*1。

 『人種』とは…自然科学・生物学から見ると「ペキン原人」「アウストラロピテクス」などの現行の人類以外の人たちが、いなくなってしまった現代において、世界に『人種』は「ホモ=サピエンス」一種類しかいません。全ての『人種』は交配可能ですし、事実自然に交配しています。全ての人間は生物学的には、たんなる『同一種』でしかありません。
 ですから「人種」は存在しないもので、「アイヌ」も同様に「人種」ではありえません。

 ですが、人類学者や民間の多くの人たちは、肌の色、髪の色、目の色、鼻の大きさ、頭の形、手足の長さ、歯型、DNA、消化酵素、血液組成、言語、宗教、生活習慣、経済状態、文化、などの違いにより、生物学的には同一種でしかない『人間』に、あたかも動物の種の違いのように、違いがあると思い込んで調査をしてきましたし、それを盲目的に信じていました。その結果発達した、人間を動物種のように管理・改良できると考えた学問を『優生学』といいます*2。優生学と人種差別思想の浸透の結果引き起こされた悲劇には『ユダヤ人虐殺』『ハンセン病患者の断種と隔離』『ルワンダ大虐殺』などがあります。アイヌ民族に対して行われた『滅び行く劣等民族』という差別もこれに含まれます。

 『民族』とは…、文化、言語、宗教、社会組織や、地域的なつながりによって区別される人々のことをいいます。
人種概念は、実は捏造されたものなので『アイヌ』は、おそらく『民族』にあたります。
 ただし、日本語の言論世界ににおいて「民族」という言葉は、英語におけるnationの概念(政治的な意味を含み「国民」とも訳される)と、ethnic groupの概念(文化的な意味での集団。「国民」とは訳されない)が常に混用されており、注意が必要です。…ですが民族も、時に捏造されるので要注意です。

*1ただし、アイヌ語本来の意味としての『アイヌ』という用法も、アイヌ語話者を中心に一部で生きており、文脈によって『アイヌ』には、民族とも人種とも違う意味合いが含まれることがあります。また、政府政策による同化が進んでしまっている現在、おおくのアイヌにとって『民族』とはなんなのか(つまり『アイヌとは何か』)、分かりにくくなっているにもかかわらず、人種差別だけは執拗に残っているので、人種的な意味合いで使用する当事者も少なくありません。
*2日本において優生学に基づく断種政策を含む差別的な法律『優生保護法』が完全に撤廃されたのは1997年です。




●純血なアイヌは、もういないのですか?

 もともと、そんな奴は、いません。

 このような発想は、当のアイヌも、よくしているのですが、『アイヌ』とは人種ではないので、そもそも『純血のアイヌ』なんてものは、この世の中に存在しません。

 昔のアイヌたちは、現代の人達が想像するよりも、はるかに広範囲な活動範囲もをっていました。
 異民族との婚姻もよくおこなわれており、良いことだとされていました。混血であるから美しい、という表現もユカラにみられるほどです。ですから、もともと『純血な民族』ではありません*1。

 また、アイヌは野蛮な原始人であるから、同じ地域から出ずに旧態然とした生活をしていたので、他の民族(人種)に比べ純血度が高いはずである、というのは、近代の研究者達の妄想によるものです。

ですが、アイヌ民族の多く、特に差別の厳しかった世代の人たちは、差別をする人たち、学校の教師(差別する人もしない人もいた)、アイヌを研究する人たち、そして、その差別を解消しようとしている、自称『理解のある人たち』の全てから、一貫して『人種』として扱われてきていました。

そのようなことから、アイヌは人種であり、純血の世代がいて、いまはもう『純血のアイヌ』いなくなっている、という語り方をする人がいるのも事実です*2。

そのように、アイヌ民族を「血の濃い薄いの問題」として捉えることは、民族としてのアイヌの可能性を減ずるだけでなく、「純血幻想」の構造上、「アイヌ」が減ることはあっても、増えることはないので「滅亡への罠」(*3)であるといえます。


*1 ここではあえて「人種」概念にのっかって話をしているが、『人種』は、本当は存在しないものである点にも留意。
*2 アイヌは人種なので、和人と混血して血を薄めれば子や孫の世代で差別はなくなる、という話を信じていた人も少なくありませんでした。
『多少馬鹿でもシャモ(和人)もらえ』という言葉が存在し、その言葉どおりに、DVに耐えながら子育てをした人もいましたが、それで差別がなくなったという訳ではありませんでした。


*3 「純血幻想…滅亡への罠」。アイヌ民族が和人政府・研究者によって行われた恣意的な認証のこと。

A: 仮に、何人でも良いが、ある時点、特定の地域に住んでいる人を「100%の血統」として認定する。
B: その後、その地域にもともと住んでいた人以外との通婚を「混血」として認定し、通婚のたびに、1/2、1/4と勘定する。
C: そのようなルールのもと、「○○人の混血率」という経過観察を行った場合、「○○人」は、減ることはあっても増えることは、絶対にない。

純血のアイヌ民族は何人いるか、血は何分の一か、というような発想をすることは、人種ではなくて民族であるはずのアイヌ民族が一方的に減ってゆく、という印象を想起したり、共有することになります。ただし、実際にそのような人種差別を幼少の頃より強く受けてきており、自らを「純血のアイヌ」であると(時には誇りを、あるいは、他のものを持って)呼称する高齢の世代も多く、「純血幻想についての語り方」には、語り手の経験に配慮した状況に応じた配慮も必要です。


●『アイヌ』と『ウタリ』はどう違うか?

「アイヌ」とは、本来「人間」を意味する言葉であり、個人への尊称としても使われていました。*1
和人との接触以降、民族呼称としての意味合いも含まれるようになりましたが、主にアイヌ語話者によって本来の意味でも使われていました。ですが、和人社会による差別が、あまりにも厳しかったため、当の「アイヌ」たちもその呼称を嫌うようになり、同胞や親戚を意味する「ウタリ」を代替呼称として使うようになりました。
 北海道ウタリ協会*2の設立当初の名称も「アイヌ協会」でしたが、同様の理由によって現在の呼称となりました。文化振興財団の設立や、近年の社会情勢の変化に伴い、毎年のようにアイヌ協会に戻そうという議題が出るものの、否決されていました。これは現在に残る差別の根深さを表しています。(2008年5月、来年度に正式にアイヌ協会に戻そう、という決議がおこなわれましたが、反対意見もすくなくありませんでした)。
 そのような情勢ですが、現在も「アイヌ」という言葉の本来の意味が失われたわけではありません。

*1「シャクシャイン」「コシャマイン」などの名前も、語尾に尊称として「○○アイヌ」とつけたものが省略されたものです。
*2 同協会は日本語名は「社団法人ウタリ協会」ですが、英語名は「Ainu Association of Hokkaidou」です。(2008年5月現在)
(追記:2009年4月、ウタリ協会はアイヌ協会に名称を変更しました。)



●『アイヌ(系)』と呼ぶと差別なので『民族』とつけるべきか?

 つけたほうがいい場合もあります。
 ただ単に「アイヌ」といった場合、それが何を指すのかがわからない事が多いからです。

○「日本国内には日本人以外の民族はいない」という意識が意外と浸透している。
○アイヌは先住民族であり、在日○○人の人々のように「1世の住んでいた独立国家」が存在しない。
○現在のアイヌもまた、長い同化政策と時代の変遷の結果、言語や習慣の多くは日本化している。


 このような理由から、現在「アイヌ」といった場合、その内容に何が含まれるかは、人によって、文脈によって、ずいぶんと違います。本来は尊敬を込めた呼称であったり民族呼称であったりしたわけですが、差別するための言葉として使われた期間が長く、また現在も差別は存在しています。

 このような状態ですから、どのような意味合いで「アイヌ」を使っているのかをはっきりとさせるために*1
「アイヌ民族の」という表現をした方がいい場合もあります。ですが、日常生活の中で、いちいち「アイヌ民族の○○さん」といわれると、少々くどい感じをうけるのも確かですので*2、そこはケースバイケースで考えてください。

 また「アイヌ系」という表現も、何をさしているのかが不明なので、微妙な表現だと思います。
おそらく、この言葉の原型は「アイヌ系日本人」(:3)という言葉なのではないかと思いますが、この場合の「アイヌ」がさしているものが、もし「人種」だとしたら、あまり良い表現ではない可能性が高いです。

*1 私は「アイヌ」「アイヌ民族」「先住民族アイヌ」という言葉を、意識して使い分けるようにしています。同様に「先住民」と「先住民族」、「和人」「日本人」「ヤマト民族」「日本国籍の人」も、意識して使い分けています。
*2 みなさんも紹介のとき、逐一「大和民族の○○さんです」とか「関東人の○○さんです」といわれた、困りませんか?
*3 「アイヌ系日本人」という言葉は、「日本の中に組み込まれた人種としてのアイヌ」という事を連想させる構造を持っています。実際にそのような意味で使っている人もいるでしょう。似た状態を表すならば
「日系アイヌ人」という言葉でも良いはずですが、なぜか使われているのを見たことがありません。あくまでアイヌ系の日本人という表現に個室する方の中には「日本に同化された民族」という意味を強調している人も、いるかもしれません。



●どのような呼称をするのが適切ですか?

 現代は、その人にとって『アイヌという現実』が何かが、全て違いますので、どのような呼ばれたたいかは人によって違います。その人ごとに聞いてみてください。話題にしていく事が大切です

 とはいえ、それも面倒ですね。現段階では『アイヌの人』という呼称が無難かもしれません。

 また『アイヌさん』という、これまた微妙な表現を使っている人を時々見かけるのですが、どうしてこのような呼び方をするのか、と幾人かに聞いてみたところ『なんだか呼び捨ては失礼な気がする』のだそうです。これは『パリっ子』のような、親しみを込めた呼称のアイヌ版なのかもしれませんが、言われるほうとしてムズムズする言葉なので、なにか他に良い言葉はないものか、と思います。



● 『日本人』と『和人』は、どのように違いますか?

 使う人によるでしょうが、微妙に違う言葉です。

 「日本人」とは、誰か?
 この質問に答える前に、まず「日本人」とはなにか、ということを定義しなければなりません。
 たとえば、アメリカにおいて「アメリカ人」と言った場合、アメリカ国籍をもった人、ということになり、民族的、人種的、言語的な話は「それとは別のもの」であるということが、前提として共有されていると思います。
 ですが、日本において「日本人」といった場合、はたしてそれが国籍を指すのか、民族を指すのか、人種を指すのかが、曖昧なまま、延々と混同して使われ続けています。まず、このことが問題です。

 アイヌの中には、自分はアイヌだけれども、日本人でもある、という表現をする人も一定数いると思われます。この場合『日本人』と『アイヌ』が、どのような使い分けをされているのかは、調査があったわけではないので不明ですが、民族と国籍で使い分けをしていると考えるのが無難でしょう。

 「和人」とは?
 さて「和人」とは「アイヌ以外の日本人」のことをさすといわれます。ですが、在日の人たちや、沖縄の人、帰化した外国人の二世などのことを「和人」とは言わないような気がするので、やはり「民族としての日本人(大和民族?)」のことを指すのではないか、と思われます。
 歴史的な経緯を見れば、日本人は、アイヌ民族がもっとも長く接してきた「異民族」です。
 また、この場合のもっとも長く接してきた…というのは、もっとも仲の良い、という意味とは限らない点に注意してください。そして、現在は、アイヌの『国』は、日本に併合されてしまったので、現代のアイヌのほとんどは日本国籍をもっています。

 アイヌは「日本人」の中に含まれるときがありますが、歴史的経緯と、いろいろな現状を考えると、やはり違う部分があります。しかし、同化政策によって、現在では、日本人と変わらない部分も少なくありません。「自分は日本人ではなくてアイヌである」という強い意識を持つ人はいますが、その良し悪しは別として、大多数というわけではなさそうです。またそのような生き方は、多くの人にとって「ラク」ではありません。
 そのような現実を表現している言葉として「日本人と和人」という表現の違いがあるのではないかとも、思います。

 人によって言葉の使い分けは違うと思いますが『日本人』の中にアイヌが含まれる可能性は、それなりにあるとしても、『和人』の中に『アイヌ』が含まれる可能性は、まずないでしょう。



●アイヌは「日本人」と考えてよいのですか?

 わかりません。
 そう考える人もいれば、そうは思わない人もいます。

 ですが、現在のアイヌの多くが日本国籍をもち、日本語を話し、アイヌを民族として意識しうる、様々な事柄から離れて生活しているのは、日本政府の連綿たる同化政策の賜物であるということだけは、歴史の事実として、忘れてはならない点だと思います。

 また、日本政府は認めていませんが、日本の領域内に住んでいる先住民族であることは確かです。
(追記:2008年6月、政府はアイヌ民族を先住民族だと認めました。)



●アイヌと和人を両親に持つ人たちは、自分をアイヌと思っていますか、和人(日本人)だと思っていますか?

 人によります。

 ただし「日本人だ」と思う人より「和人だ」と思う人のほうが、少ないかもしれません。
 その人が自分は和人だと思っていても、差別は依然として残っているからです。

 そもそも、差別などなく、全く同化している(鈴木宗男の発言)ならば「和人」という言葉を意識することすら、ないでしょう。



●アイヌの歴史を簡単に教えて下さい。

 アイヌ民族は、北海道を中心に、樺太・千島・東北の一部に住んでいた、日本語とは異なる独自の言語、日本人とは異なる独自の文化・宗教・習慣をもった民族です。居住範囲が大変広範囲に広がっているので、それぞれの地域である程度の違いはありますが、お互いに意思の疎通のできる言語を使い、神話や物語を共有していました。生産手段としては、狩猟と採集を中心として、小規模な農耕も行いつつ、様々な品物を中国・沿海州・日本などと交易して一大文化圏を構築していました。

 ただし、アイヌ語には、近世になるまで文字で記録を残すという習慣がなかったために、歴史の記述がほとんどなく、そうした時代の様子は、アイヌ民族と接触したり交易したり戦闘したり支配した人々の記録によって類推するしかありません。
 歴史上に出て来る「現代のアイヌにつながると思われる人々」には、大和朝廷と戦った「蝦夷(エミシとエゾ)」や、元軍と戦った「骨鬼(クイ)」がいます。アイヌ語で英雄譚や神々の話を謡う口承文芸の「ユカ」には、こうした時代の闘いの記憶が謡いこまれていると言われています。

 アイヌ民族は、長い間、和人と交易をしている関係だったのですが、江戸自体の初期から中期にかけて、和人の豪族が北海道南部に進出し、その豪族が中央政権(豊臣と徳川)から「アイヌとの交易の独占権」を領地のかわりに授けられ(当時の北海道は米が取れませんでした)、それをきっかけに、長い時間をかけて、すこしづづ、支配が強められてゆきました。この間、アイヌ民族は和人豪族との間に3度の大きな戦争を行いました。

 日本が内戦の後に明治新政府になると、蝦夷地と呼ばれていた土地は、日本の植民地として併合され「北海道」となりました。このとき、アイヌ民族は独自の言語や習慣を禁止され、住んでいる土地から強制移住をされ、日本人になるよう同化政策を受けました。
 北海道には、とても多くの数の和人が入植し、無理のある開拓で環境が破壊され、疫病が大流行し多くのアイヌと和人の両方がなくなりました。自分たちの言語や伝統的な生活を禁止されていても、それを続けていく人はいましたが、多くの人たちは時代の流れに逆らえず、日本人となって、日本各地に仕事を求めて散っていきました(この部分は、在日朝鮮人・韓国人の少なくはない人たちが、仕事を求めて内地に多く移住「せざるおえなかった」のと、経緯は似ていると思います)。

 太平洋戦争後、和人社会での社会活動が活発になると同時に、諸々の活動も活発化しますが長く続きませんでした。戦後しばらくたって、やってきた北海道の観光ブームの到来によって経済的に豊かになった人も一部いたようです。学生運動などが活発になった時期にはアイヌの運動も活発化、ごく一部ですが和人の過激派と共闘した人たちもいました。各種裁判、国連―の参加、アイヌ新法制定運動などが行われ、運動はじわじわと盛り上がりますが、文化振興法の制定によってアイヌ文化ブームが到来、文化イベントが各地で開催され、各種の運動は次第に消沈、現在に至ります。

日本政府は、2007年9月の国連での先住民族の権利宣言の採択の際に、賛成票を投じるも「アイヌの人々が、先住民族であるかどうかは、わからない」と発言。よくわからない態度をとりました。このように、日本政府はアイヌ民族を先住民族とは認めていませんでしたが、洞爺湖で開催されるG8を直前に控えた2008年6月、国会で先住民族だと認定をする決議を行いました。この、ごくあたりまえのことを認める決議をマスコミ等は大きく宣伝、さながらアイヌの抱える問題が、先住民族と認知するだけで解決するような報道が行われましたが、今後のアイヌ民族についての施策をどう決定するかは、また別の話なので、注目を要します。



●アイヌの文化はどのようなものですか?

それは、いつの時代のアイヌの話ですか?

「アイヌの○○」といった話題を話す場合、それが「いつのアイヌにとっての、どのアイヌとっての」ということが、常に問題となります。 たとえば、アイヌ出身のロックミュージシャン(あるいは料理人・芸人・作家・パフォーマー・ウェブマスター・等)がいたとして、彼が『そのこと』を意識して制作活動をしていた場合、それは、現代のアイヌ文化である、といえるのではないでしょうか?

プリミティブ・アイヌ・カルチャー

 さて、こういった質問の場合、ほとんどの場合は「ふるい時代の伝統的なアイヌ文化とは何か」という質問になると思いますので、そちらを説明します。
 代表的なものとしては、ユカと呼ばれる口承文芸、熊送りと訳されるイオマンテなどの動物の霊送りの儀礼、数々の生活用具や衣装の作成、などがあります。
 ユカとは、独特の節をつけて語られる話しで、アイヌ語の中でも独自の雅言葉を使って語られます。英雄の話、神(動物)の話など、無数のユカラが存在し、お祭りなどで人が集ったときなどに、炉ぶちで演じられたものです。内容は、昔のはなしや教訓、生活規範のようなものが謡われていることもあれば、切ったはったの大活劇の場合もあり様々です。話の構成上、複数の話をくっつけたり切り離したりできるので、長いものになると、3日3晩語っても終わらないものもあります。

 イオマンテとは、熊送りだけのことを指す言葉ではありませんが、代表的なものとして熊の場合を説明します。山に熊猟にいったとき、母熊をしとめた時に小熊がいた場合、それを預かってきて、家で大切に育て、おおきくなった頃、近隣の人々を集め、おもてなしの宴を開いて、熊を送り返す(殺す)儀式です。そういった宴を開いて丁重に熊を送り返すことにより、再び熊が良い噂を広め、訪問して(つかまって)くれるといわれています。儀礼の所作の一つ一つ、解体の作法一つ一つに意味があり、大変日数のかかる儀式です。また、イオマンテは定期的に開かれる一大イベントであり、人の行き来がおこなわれる祭りでもありました。

 自然素材から、数々の生活用具を作成する技術も、現代では「アイヌの文化」とされていることと思います。昔の人達は、様々な自然素材を用いて、木彫りを作ったり、カゴを作ったりコザを編んだりしました。また、これは最近でも活発ですが、衣装に独特のアイヌ模様を刺繍して晴れ着を作りました。儀式の際に身に着ける装束にも、いろいろなものがありました。

 一言に『文化や言語』といっても、そこの含まれるものは、ほんとうに多様です。

アイヌ民族博物館ホームページ



●アイヌ語はどのような言葉ですか?

 日本語とは違う、独自の言葉です。
 お隣の言葉ですから、日本語と多少の語彙は共通していますが、違う言語です。

 また、ラッコ・コンブ・トナカイ・シシャモなど、日本語の中でつかわれている言葉もあります。
長い同化政策と差別により、現在、話者はたいへん減っています。

STVアイヌ語ラジオ講座
第六回アイヌ語弁論大会発表作品「アイヌとアイヌ語の今に思う事」


● 「先住民族」とは、どのような人たちですか。

 近代国家の成立時に『割を食った』人たちのことです。

 一定地域に暮らしていて、近代国家の成立の時に主要民族として関与できなかった人たちのことです。多くの場合、その国家を支配する主要な民族から、強制移住させられたり、言語や宗教や習慣を禁止されたり、差別的な待遇をうけたりしています。その多くが、独自の民族としての権利回復のために、先住権と自決権を主張しています。ただし、この『自決権』が、すぐに分離独立して近代国家を樹立する、ということを意味するわけではありません。

 代表的なものとしては、南北アメリカの『インディアン・インディオ(ネイティブアメリカン)』、オーストラリアのアボリジニ、ニュージーランドのマオリ、カナダのイヌイット、ロシアの少数民族、北アフリカのベルベル、日本のアイヌ、などが含まれます。

 ただし、アフリカ諸国や日本、中国の場合は『新大陸発見』によって一連の侵略が発生した、というわけでもなかったり、現在進行形で民族同士の関係が入り乱れたりしているので、それぞれの国の政府は、誰が『先住民』であるかは不明瞭であると主張しています。また日本政府は、アイヌが先住民族であるかはわからない、と主張していました。
(2008年6月、日本政府は、洞爺湖で開催されるG8開催を前に、いまさらながら、アイヌを先住民族だと認知しました。これは、ごくあたり前のことをそうだと認めただけのことで、特にすごい話ではありません。)

 先住民族問題については、近代国家成立に伴って発生した不利益を中心にすえているので、エミシがヤマトに侵略された、というような大昔の話は、一般的には含まれません。

 また、パレスチナ問題やロマの人々は、問題が似ている部分もありますが『先住民族問題』としての扱いはしないようです。

 なお、日本においては、沖縄人も先住民族である、という主張をしているグループも存在します。異なる言語と文化、それが原因で行われた同化政策や差別的待遇、独自の歴史、などを考えると、沖縄の人たちも先住民族といえるのではないかと、私は思います。



● 「酋長」という言葉は差別語ですか?

 使わないほうが好ましいでしょう。

 辞書によると「酋長」というのは「野蛮人や盗賊のかしら」のことを指すとかかれています。
 アイヌは野蛮人でも盗賊でもありません。

 ですが、人権意識がいまほど発達していなかった頃、観光地などで活躍するアイヌ達が、和人にわかりやすい言葉を選択する上で、自ら「アイヌ酋長」という呼称を名乗っていたことは、割と一般的に行われていました。ですから少し古い絵ハガキや、おみやげ物などには「酋長」の文字が普通にみられますし、中には自ら顧客サービスのために「アイヌ酋長」とサインをしていた方もおられたようです。また、そのころの記憶から、現在でも「酋長」と言われることが敬意を込めたものである、と感じる人もいるかもしれません。ですが、辞書にのっている言葉の意味が、よくないものであることは確かなので、なるべく使わないようにしたほうがよいでしょう。

 なお、アイヌ語では、村落の代表のことを「コタンコロクル」と言います。



●「土人」「原住民」という言葉は差別語ですか?

 使わないほうが好ましいでしょう。

 辞書によると「土人」というのは「土着の人々」のことを指すとかかれています。「原住民」も同様です。この意味からすると、別に差別語でもないような気がしますが、メディアでの扱われ方などを考えると「土人」や「原住民」という言葉から想起されるイメージは、あまり好ましいものではないと思います。

 また、特に「土人」という呼称は、日本政府によって、アイヌが「旧土人」や「土人」という表記をされていたことから、抵抗感を持つ人が大変多い言葉であり、使わないほうが良い言葉です。
 「先住民」「先住民族」という言葉のほうが的確ではないかと思います。

 余談ですが、台湾の語彙では、漢語の語彙との関係上「先住民」という言葉はあまりよい印象がないので「原住民」という言葉を使うそうです。



● 「先住民」と「先住民族」には、どのような違いがありますか。

 厳密にいうと意味の違う言葉ですが、日本ではあまり意識されていないように思います。

 国連での議論の過程で、アイヌやインディアンのような人たちのことを、indigenous peoplesと表記するか、indigenous peopleと表記するかで意見の対立がありました。『s』を付けると、国際法上の自決権の存在を表すとのことです。各国政府は、先住民族の独立を懸念して『s』をつけないように、先住民族代表は、その逆に『s』をつけるように運動を展開しました。日本語において、indigenous peoplesにあたるものが『先住民族』、indigenous peopleにあたるのが『先住民』ということになっていますが、日本のメディアなどにおいて、この使い分けは、実際にはあまり浸透していないようにも思われます。

 また、これらのどちらの言葉とも違うindigenous population(先住住民)という言葉も存在します。



●インディアンという言葉は正しくないと聞いたのですが。

 私は『インディアン』ではないのでなんともいえませんが、そうでもないようですよ。

 たしかに『インディアン』という言葉は、アメリカ大陸をインドと勘違いしたことに単を発した言葉で、勘違いがもとで付けられた言葉です。よって、ネイティブアメリカンという言葉のほうが正しい、という議論も存在します。ですが『アメリカ』という呼称も、この大陸を『発見』したヨーロッパ人の名前であって一方的なものであり、それも間違っている、という議論も一部あるようです。

 より『正しいこと』を基準とするならば、いわゆる『インディアン(ネイティブアメリカン)』と呼んで一緒にしてしまっている人たちは、実際には、それぞれの言葉による独自の自称があり、それぞれの人たちを、それぞれの言葉で呼称する必要があるでしょう。

 ですが現実の活動面において、民俗的な違いではなく政治的な団結のために『インディアンとして』行動する必要性があり、当事者のある程度の人達は、他に適切な呼称もないので『インディアン』として活動しているという事実があるのも確かなようです。

 そのような事情から、インディアンという呼称を使ったからといって、全てが差別であるというわけでもないようです。



●私はアイヌを差別していません。

 本当ですか?

 差別の話題を扱うときに、自分達は北海道に住んでいないし、アイヌの人に会ったこともないので、差別をしていません、といったり、知らないので差別していません、といったり、私は差別したくないのでしません、という人もいます。

 ですが、これはアイヌの問題に限らないことですが「知らないことが差別」であることも、あるのです。また、語られることが少ない問題については、善意がかえって問題を引き起こすことも、ないわけではありません。差別というのは人の心を深く傷けるもので、その体験が語られることは稀です。

 大切なのは、自分が差別をしたかどうかを気にする、ことではなくて、相手の身の上に、何が起こっているのかを、よく聞いて理解することです。まず、話を聞くようにしてください。



●「アイヌは同化した」という発言は差別ですか?

 文脈によります。

 2001年、衆議院議員(当時)の鈴木宗男氏は、「アイヌは同化したので日本は単一民族だ」という趣旨の発言をして、アイヌの民族団体を含む関係各所から猛烈な抗議をされました。この発言は、日本が単一民族国家であるという、現実を無視した妄想発言であり、差別的な発言にあたります。

 現代のアイヌが、和人に同化してしまっている部分がおおいのは事実かもしれません。

 ですが、それは多くのアイヌの生活破壊を含む、連綿と続く同化政策の結果であり、「めでたいこと」ではありません。和人に責任のある、哀しい歴史の一部なのですから、その点は考慮する必要があります。確かに、過去のアイヌの活動には、和人に積極的に同化していこう、というものも一部ありましたが、同化よりも民族としての誇りを取り戻そう、という活動も近年活発になっています。そのような動向を十分に考慮した上で、「同化」について語ってほしく思います。

 また、和人がアイヌの同化について語るとき「アイヌ(の文化や権利対象が)は、ずっと日本の一部であってほしい」という下心がある場合が、少なくないように思います。過去の歴史を振り返るとき、そのような事を嗜好する事自体が、失礼なのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか?


鈴木宗男氏の発言の全貌



● アイヌの人はルーツがあっていいですね。

 そうですかね? なにかを勘違いしていませんかね?

 「ルーツ」という言葉が、なにを指しているのか、よくわからないので、なんともいえませんが、一般的によくいわれることで「先祖・拠り所・根」だと考えると、木の又から生まれた人でもない限り、全ての人に「ルーツ」は存在するので、別にアイヌだから特別にある、というわけではありませんので、不自然です。和人もアイヌも、先祖の価値に違いはありません。

 こういうことを言うと「アイヌの人たちは、文化を受け継いだり、集まることができている(ように見える)」のでうらやましいんです。という人がいますが、あくまでそれは「みえる」だけです。

 アイヌの子孫といっても、親が文化伝承に関わっていたり、コミュニティに関係したりしている人は、多くはありません。むしろ、政府の政策と差別により、文化伝承に携わったり、アイヌであることを表に出すことは、よいことではない、とされた期間がかなり長く、また現在もそう思っている人も、けっして少なくないことを考えると、そのような「文化伝承のチャンス」に恵まれている「アイヌの子孫」は、潜在的な全体数からみれば、かなり少数であると考えたほうがよいでしょう。

 このような事情から、伝統文化に携わるチャンスは、和人のそれよりも、はるかに少ないと考えられます。そのようなアイヌからみれば、文化伝承に気軽に携われるし、差別もないわけですから「ルーツがあって」うらやましいのは、むしろ和人のほうかも知れません。

 また、そのようなチャンスに恵まれたとしても、血統的にアイヌだからといっても、特殊能力がある訳ではないので「文化伝承」ができているのは、当人の努力があったればこそです。また、必然的に血縁者が多く集まる場所での人間関係などは、特に若い人にとっては、相当「やっかいなもの」でしょうから、文化伝承にたいするもの意外にも、かなりの苦労があるのだと思います。

 「ルーツ」を羨望のまなざしでみるのではなく、その人の努力を評価してください。



●東北のエミシはアイヌですか?

 その可能性は高いですが、全てがそうだと断言できるほどではありません。

 江戸時代、アイヌは『蝦夷(エゾ)』と呼ばれていました。また、東北地方にもアイヌは多数住んでいました。江戸時代には弓兵として東北地方の戦国大名の傭兵として活躍していたこともあったようです。

 古代にヤマト朝廷と戦った『エミシ』や『エゾ』が、全てアイヌ民族、あるいはアイヌ民族と近縁関係にある人たちであるかどうかは、はっきりとはわかりません。ヤマト朝廷は、自分達に従わない異民族のことを『エミシ・エゾ』という呼称でよんでいただけで、その呼称で呼ばれる人たちが、相互に同じ言語で話していたかどうかなどの記録はないからです。

 東北のエミシの英雄である『アテルイ』と『モレ』は、日本語とは思われない言葉ですが、アイヌ語とも断言できるわけではありません。ですが、アイヌ語だとして解釈できる説が、いくつか存在します。また、東北地方にアイヌ語の地名は、かなり存在するのですが、その南限は仙台平野・秋田・山形県境にかけた線でした。これはアテルイが基盤としていた地域が含まれます。



●アイヌの人たちが求めているものは何ですか?

 曖昧な質問であり、返答不能です。

『アイヌの人たち』とは、誰でしょうか?

 「アイヌの人たち」と一言にいっても、その生活は多様化しています。
 自分たちはアイヌだというアイデンティティをもっている人もいれば、いない人もいます。
 また、もっていても、あるいは、もちたいと思っていても、いろいろな差別と格差があるために、それを表に出したり、現実味のある問題として考えられない人もいる一方「アイヌであることはカッコイイ」として、前面に押し出す人たちもいます。

 それらの多様な人々の中には、それぞれ、差別を経験した人・していない人、経済的に裕福な人・そうではない人、アイヌとしての文化や教育にアクセスのある人・ない人、家庭の中で「そのこと」を普通に話せる人・全く話せない人、の両方が含まれます。

 そのような多様で、格差の激しい状況において「アイヌのひとたちの求めるもの」を、ひとつにまとめることは難しいと思います。

 最大の課題は何か?

 ひとつだけ、確かなことは…
 「アイヌであるという事による差別や格差」は、事実存在しており、その解消は必要である、という点では、少なくとも、共通する見解…ではないのかな、と、私は思います。

 ですが「差別の解消」のためには、どのような方法がよいかは、意見は分かれると思います。
(アファーマティグアクションの有効性・文化活動の有効性・逆差別の可能性・基金やインフラの利権化の恐れ・そもそもアイヌとは誰なのか・等)



●若い世代のアイヌが目指しているものは何ですか?

 わかりません。

 差別をうけたことがなく、アイヌの文化的なインフラ(保存会・サークル・各種会合や協会・資金など)アクセスのある「恵まれた」人たちの一部には、「アイヌであることをカッコイイと捉えて前面に出す」ことを通じて「アイデンティティを獲得」している人たちも、いるようですね。

 とはいえ「その人にとって『アイヌ』とは、一体どういうことなのか」については、人それぞれ全く違うものなので、なんともいえない、というのが正直なところです。

 わたしは「カッコよくなくてもアイヌはアイヌ」だと思っていますので、そういった一つ一つのケースに、丁寧に寄っていくことが大切だと思います。



●アイヌは縄文人なのですか?

 知りません。

 一般的によくいわれる話としては、日本列島に『縄文人』という狩猟採集生活の人たちが住んでいたところに、大陸からわたってきた『弥生人』という農耕文化を持つ人たちが入ってきて、現在の日本人が形成された、という話になっています。そしてその『縄文人』の生き残りが、沖縄人とアイヌだということが、一般的に語られています。この日本列島に住みついた人の流れとしては、大筋では、そんな感じだったのではないかと、私も思います。

 ですが、そんな大昔のことは、気にしてもはじまらない可能性があります。歴史ロマンを語ることと、目の前にいる人間と話をすることを、混同しはいけません。アイヌは現代人の一人であって、大昔の生活を続けている原始人ではありませんし、その顔に古代人の面影が刻まれているわけでもありません。

 また、縄文幻想に伴って、アイヌが『日本人のルーツ』という言い方をされることがありますが、この言い方には、かなり不自然な部分があります。

 もし縄文人=アイヌ・沖縄ならば、弥生人=朝鮮・中国人であるわけですから『日本人のルーツ』には、朝鮮人と中国人も含まれるはずです。ですが、現代の韓国の人や北朝鮮の人、中国の人相手に、同様のこと言う人は、私がアイヌだからかもしれませんが、ほとんどお目にかかることがありません。

 このような言論の格差には、背後に近代国家があるかないか、という力関係がある気がします。違う国のパスポートを持っている相手には、おいそれと『ご先祖扱い』は、できないのではないでしょうか? だとしたら、アイヌに対して「日本人のルーツ扱い」をすることは、よいことなのでしょうか?

 いずれにせよ、アイヌも現代人の一人であることを忘れないでください。



●アイヌはヒッピーでゴキゲンなのですか?

 違います。

 ただし、60年代から盛んになったヒッピームーブメント、ニューエイジ思想は、サブカルチャーとしての先住民族文化や思想(の都合の良い部分だけを)を取り入れて成立している部分があり、また先住民族の運動体や指導者の一部も、それらを利用したり共闘したりしてきました。アイヌ、あるいはアイヌの活動は、ヒッピーカルチャーやニューエイジ思想とは、全く違うものですが、両者は敵対関係にあるわけではありません。*1

 また、日本においては、二風谷在住のアイヌの活動家、山道康子(アシリ・レラ)さん達が主催する『アイヌモシリ一万年祭』が、日本における有数の『そちら方面の祭り』として有名であり、集まってくる参加者も『そちら方面の方』が圧倒的です。一万年祭の規模が巨大であるのと、日本社会におけるアイヌに対する理解の低さも相まって、アイヌに対してそういうイメージを抱いている人は、一定数いるかもしれません。ですが一般的に、アイヌの全てが『そっち関係』と、特に深い関係があるというわけではありません。とはいえ、アイヌの中にも『そっちの話』が、嫌いな人もいますし、好きな人もいます。ですが、それは個人の嗜好の問題でしかなく、アイヌの伝統文化や精神などと『そっちの話』は、無関係なものです。残念がる人もいるかもしれませんが、無関係なのは事実です。

 …私ですか?
別に『そっちの話』は嫌いじゃないですが、アイヌもハッパ推進派だ、などの狂った言説には断固抗議します。

*1 ニューエイジ思想に影響を与えた、あるいは巧みにに戦力化する事に成功した先住民運動の著名なものとしては「ホピの予言」「虹の戦士」などがあります。これらの「思想」の、社会に与えた影響力は大きなものでしたが、その「思想」が、ニューエイジの人たちが信じているほど、先住民の運動体の中で一般的なものだとは限りません。ご注意ください。

アシリレラ公式サイト・イメルレラ
■ニューエイジの問題点について(キリスト教徒の立場からの考察)
■偽書の精神史:シアトル酋長がピアス大統領に宛てた手紙(ニューエイジによく引用をされる「物語」が実は存在しないことについて)
ホピの予言2004を見に行きました。 (ニューエイジでも人気の作品を見ての報告)



●アイヌの人口は何人ですか?

 わかりません。
 答えにくい質問です。

答えにくい状況には、大きく2つの問題があります。

○差別の為名乗りにくい、経済的破綻によるアイヌの家族の四散が少なくない。それらの事情により、「アイヌの子孫」には、自身がアイヌである事を名乗れない人、知らされない人が多数いて、調査をしても実体数にはなかなか迫れない。

○社会情勢が変化した現在「アイヌ」とは、そもそも誰の事なのか?


 北海道がウタリ実態調査をやった時の人数23767人(99年)が、よくアイヌの人口であると紹介されています。ですが、この数字は「総人口」ではありません。この調査は、予算の問題や、色々な事情により、全ての人が参加しているわけではありません。行政が把握している福祉対策の対象としてのウタリの内、調査に応じた人たちの数のこことです。ここには、部落における「未認定部落」と同様の問題が存在しています。

 首都圏の実態調査では、2700人ほどのアイヌが生活している事が判っています。ですが、この調査も色々なな事情があり、正確な数を反映しているとは言いがたいものです。この調査を元に首都圏ではアイヌは3000人いるとか、5000人いるとか、10000人いるとか言われています。

 また、1971年のウタリ協会代表の総理への陳情の時に、
「確実ではないですが、だいたい二世をいれて、7万くらいと推定されます。」と語られている部分があります。他にも出典不明ですが、この当時の人口が7万7千人、という数字もあるようです。

 国連などによるアイヌの人口数は「約10万人」との数字で捉えられています。

 そもそも、どこまでが「アイヌ」なのかが、厳密にはわからないのですから、名乗っていない人や、もう分からなくなっている人も含めた「アイヌの子孫」の最大数は、15万人から20万人くらいになっても、おかしくないかもしれません。

アイヌの人口は何人か? アイヌとは誰の事か?(paetok puyarBBS)



●アイヌの人たちは何を食べていますか?

 アイヌは現代人なので、和人と変わりません。
 私は昨日の晩はラーメンライスを食べました。

 …さて、こういった質問の場合、ほとんどの場合は「ふるい時代の伝統的なアイヌ料理とは何か」という質問になると思いますので、そちらを説明します。

 アイヌは、一般的に狩猟採集民族なので、シカ肉とクマ肉ばかり食べていた、と思われがちですが、実際の食生活は、肉ばかりではありませんでした。動物性のものは、魚(サケなど)のほうが季節を通して多かったのですが、それよりも多かったのが、球根、地下茎、葉茎などを食べる山菜類でした。そのアイヌの住む地域によっても当然かわってきますが、全体の6割強が植物性のものだったといわれています。
 代表的な「伝統的な食事」としては、サケを干したサッチェプ、オオウバユリ(トレプ)の根を発酵させた「オントレプ」などがあります。また、全体的に寒い地方ばかりだったので調味料などが少なく、アイヌ語の「おいしい」は「ケラアン(味がある)」という意味でした。調味料としては古い時代は海水・魚の油・木の実などを使用していたそうです。今では、バターも醤油も味噌もコショウもトウガラシも使います。キムチが秀吉軍の持ち込んだトウガラシによって辛くなったように、アイヌ料理も常に変化しています。(ただし、キムチが辛いのは秀吉の侵略の「おかげ」であると考えるのは傲慢です)

 現代において「アイヌ料理」と呼ばれて調理されているものは、太古の昔からあるもの…ではなくて、近現代のアイヌたちが家庭で、あるいは寄り合いの時などに皆で作って食べていたものです。中には古い時代から伝わるものもありますが、新しいものも沢山あります。アイヌの家庭だからといっても、日常的に食べているわけではありません。近代になって広範囲に普及したと思われる料理には、コンブシトとムニニイモがあります。コンブシトはもともとは浦河地方独特の料理だったようですが、各地のアイヌ達の交流を通じて再評価されたのでしょう、いまでは様々な地方で食べられるようになっています。また、ジャガイモを発酵させて作られた「ムニニイモ(シバレイモ)」は、独特の風味がありたいへんかおいしいものですが、これは、近代になって農家で生産が始まったジャガイモの、畑の脇に捨ててあるものが、凍結と発酵を繰り返すうちに出来上がったものだと言われています。
(ジャガイモは南米原産。16世紀にスペインが南米の先住民族を征服してヨーロッパに持ち込み、巡りめぐってオランダ人がジャカルタ港から江戸時代の日本に持ち込みました。北海道での生産は、北海道南部の和人地では1700年代。他の地域は定かではありません)。

 また「北海道料理」というジャンルで食べられているものは、使う材料が同じなので、自然とアイヌ料理に似てきますが、団子や発酵食品などの加工食品は、あまりありません。団子類や発酵食品には、東北や北陸の料理に似たものが散見されます。



●このQ&Aの信憑性は?

 信憑性は不明ですが「全く根拠のないこと」は、書かれていないと思います。

このQ&Aは、Esamanが色々な人たちとの対話を通じて、よく浴びせられた質問をもとに作成しています。Esamanは『アイヌだと名乗って』活動してきたため、同じような質問を何度も何度もされて、そのたびに調べたり考えたり人に聞いたりして、返答がうまくなったので、このようなQ&Aを作成できるようになりました。これは、逆にいうと、この日本社会は、ただアイヌだと名乗っているだけで、こういう問答を、出会った人ごとに、イチイチしなければならないほど『めんどくさい社会だ』ということを意味します。本当にめんどくさいので、名乗る人は少なくなります。これでは、たとえ差別がなくても、きっと、名乗る人は少なくなることでしょう。

 差別は今なお、あるのですから、なおのことです。

 Esamanは、あくまで『ある個人のアイヌ』であって、アイヌ民族の代表ではないし、なんらかの民族団体の代表でもりません。
 したがって、このQ&Aが一般的な見解といいきれるものではありません。

あくまで参考程度に、ということで、よろしくお願いします。




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