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アテルイ・モレ没後1200年慰霊祭・参加報告
(第8回 日高見大戦戦没者慰霊祭)
報告者:oripakEsaman
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東北アイヌ・エミシ・アテルイリンク集
この慰霊祭の岩手日報の記事(8/24)・98年の同慰霊祭の参加者の日記
2002年8月23日、私oripakEsamanは、
川村カネトアイヌ記念館館長・川村・シンリツ・エオリパック・アイヌ(以下、兼一)氏に同行し、
エミシの英雄、アテルイとモレのイアレ(イチャルパ・シンヌラッパなどとも言う、慰霊祭)を、大阪は枚方市現存する「首塚」の前で行う事になった。
その時の体験を、簡単に紹介する。
この慰霊祭は「縄文アテルイ・モレの会」が企画したものだそうであるが、
問い合わせ先になっていた縄文ネットワークに電話したものの、イベントの事をよく把握していなかったようだ。一抹の不安がよぎる。
神社の宮司にイアレを我々の伝統にのっとって実施できる事の確認を取り、後はとりあえず現場に行ってから考える事にした。
その前に何故アテルイの碑が枚方(ひらかた)に? についてすこし解説する。
「抵抗したエミシの英雄」であるアテルイ達が、桓武天皇の派遣した田村麻呂などが率いる朝廷の侵略軍と戦っていたのは、今から1200年前の東北地方でした。 当然の東北地方は、大和朝廷の支配下に無く「東北」でもなければ「日本」でもありませんでした。 アテルイを含めた東北の蝦夷達は、大和朝廷による酷使や差別に耐えかねて武装蜂起し、何度も侵入してくる大和朝廷の大軍を何度も撃破し、38年にも及ぶ長い戦いを展開した後、降伏しました。 捕虜となったアテルイとモレは、征夷大将軍・田村麻呂によって京都に連行され、京都で中央政府の貴族などにひき合わせられた後、処刑されました。最後の場所となったのは河内国杜山、現在の枚方市付近であったと伝えられています。
枚方市の牧野駅の近くにある片埜(カタノ)神社の横には、アテルイ・モレの塚とされる碑があり、ここ8年ほど、毎年慰霊祭を催しているとの事です。今回は、そこに赴きました。
→枚方市HP
→小枝の部屋 枚方市在住のokayamateさんのページ(首塚の記述もある)
案内に書いてあった路線では関空から行くには大幅に遠回りになるので、京都の友人に頼んで組みなおしてもらい、川村さんとは京橋で合流、なんとか現地に到達した。牧野駅から徒歩で10分ほどのところである。
その日の枚方は、曇りがちで大変蒸し暑かった。
牧野駅を降りて、慰霊祭の会場の片埜神社までは、
さすがに迷いはしなかったものの、不安になるような細道だった。
途中「酎ハイの店」や「牧野酒道場」などの古びた看板が気にかかった。
鳥居をくぐり境内に入ると特異な風貌から、すぐにわかったのだろうか、境内に入ると神社の人に、奥の社務所で皆さんお待ちですよと言われた。
言われた場所に行ってみると、集まっていた人々は40人ほど、意外な多さだった。
共有財産やアテルイの事に関するプリントを配り、既に勉強会のような事を始めていた。
「縄文」をキーワードにアイヌに寄ってくる人にはエコファンが多いのだが、裁判闘争も勉強しているとは、以外と意識は高いようだ。
主催者から、アイヌについての話をしてほしいと言われ、兼一さんが、自身が館長をやっているアイヌ記念館の歴史や、旭川アイヌの歴史などを解説した。
むかし、アイヌは同化政策を受けて、アイヌの文化や習慣を表立って出来なかった時代があったこと、しかしイヨマンテなどを禁止されたときも、旭川のアイヌはそれを無視し、続けたという事を説明した。
そして、共有財産問題や、文化振興法の問題、地元旭川で学校の副読本を作ったり「開基○○年」などという言葉を使わせななかったり、地名を正しいアイヌ語で表記したり、アイヌ語や様々な文化を、自分たちの手に元に取り戻す運動など、いまでも戦いは続いている事も、具体的な事例を交えながら、沢山話された。
割と最近、北大でダンボール詰めの人骨が発見され、それをあるアイヌがママチャリのカゴにいれて奪還し、その犠牲者の中に、韓国の珍島での抗日武装蜂起の中心人物がいて、国際問題にまでなった事件があった(北大人骨事件・95)。
川村さんは、その返還と慰霊祭の関係で、つい先日まで韓国に行って慰霊祭を行っていた事も、しっかり話されていた。
私としても、私の住んでいる土地に偉そうな顔をしてやってきたので弓をひいた「児玉コレクション」や、すこし前に実際に対面してきた、未だに北大納骨堂に拉致されたままである、千体近い同胞の遺骨達と密接に繋がるあの事件は、忘れられない、看過できない、大きな問題である。
私達が「アイヌのおはなしを」と頼まれて、学校などに話しをしに行く場合、「アイヌのすばらしい文化の理解を」という感じの話しに、呼ばれるアイヌも、聞く和人も終始してしまい、最も肝心な部分である、アイヌが先住民族である事や、現在も尚、色々と困難や格差や無理解があることの方の理解は、おろそかになってしまうものなのだが…
いきなりこんなハードな内容の話しを、アイヌについて殆ど触れたことの無い人々の前で出来てしまうのは、兼一さんが凄いのか、それとも、そもそもが「朝廷との戦い」であるアテルイとモレを機軸に集まったこの集いが、そういった話題を話しやすい場なのだろうか?
などと考えながら聞いていた。
はじめて聞く話しでわからない事も多いだろうに(兼一さんの話題は、方向性はいいが、いつも説明不足気味だ)、みんな大変熱心に聞いてくれていたようだ。
しかし「川村シンリツさん」と紹介されていたのは、なんかなぁ、と思った。
アイヌ語の名前の付いたアイヌになんか、おそらく始めて会ったのだろうから、どんな名前なのかよく判らないので、途中で切っちゃうんだと思うけども、それくらい事前に調べておくのは、主催者としては最低限やったほうがいい事なんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうかね?
川村館長の名前は「川村・シンリツ・エオリパック・アイヌ」とは「先祖を敬う人」という意味だ、代々続いたペニウングル・アイヌの首長の家系であることと、同化していくアイヌの多い中、現在も尚アイヌを守り伝えている人である事を体現する名前だ。川村シンリツでは、「川村・先祖」になってしまう。
そうした話しの後、自己紹介を、集まっていたそれぞれの方にしてもらった、集まった人々の実体としては、関東からはるばるやってきたアテルイ・モレの会の人も何人かいたが、岩手県人会の人や、津軽から移住してきた人達が、とても多かったように見うけられた。
「私は、津軽からこちらに出てきて40年になります、
アテルイの事は、向うに居るときには知らなかったので…」
などという自己紹介を聞きながら「地元の英雄」「東北のアイデンティティ」とでも言えばいいのだろうか、アテルイの戦いという、「じぶんたちの土地を中心に出来る物語」について、長い間知らされてなかった彼らの言葉に、私達アイヌの辿ってきた歴史と似たようなものを感じた。
いま、多くのアイヌは、本当のアイヌの姿について、ほとんど知らない。
これは、文化や言語が出来ない、という意味だけではなく、アイヌがどのような戦いをしてきたのか、いまもしているのかについて、殆ど知らないし、知ろうとしても情報源が無い、ネットワークも貧相だ。
ほんのここ30年ほどの動向すら、しっかり聞き取りしても、マトモにわからないのだ。
これは、けっしてアイヌが無能でも、怠けていたのでもなく、「アイヌがアイヌに目覚める」という事は、日本と言う国家や「日本人」への疑問を生むので、いろんな圧力があるからだ。 ただアイヌであるというだけで、盗聴されたり捕まったりした時代もあったほどだ(アイヌモシリ年表・現代の70年代参照)。
いろいろとあって、「わたしたちは何者か」について、わからくなってきているのだ。
当のアイヌが、アイヌである事をわからなくされている事。
それを生むプロセスを同化政策と言う。
遥かに年配(見た感じ、県人会の人とかは50〜60代の人ばかりですぐ見分けがついた)
の彼らの言葉からは、ただの歴史好きや、最近の「縄文ブーム」などとはまた違った、何か切実な熱っぽいものがあった。
遥か大昔に、巨大な朝廷と戦い、散っていった郷土の英雄の姿を通して、東北の人達も「じぶんたちのほんとうの姿」を考えたいと願っているのでは、なかろうか?
話しを終え、代表の松永さんとイチャルパに必要な供物などの打ち合わせをした。せっかくのイアレなので、濁り酒などの他にも果物やお菓子などを、来てくれた人全員が供えられるように買ってきてもらうことにした。
何故か現場に多量のルプス・トペンペ(アイスクリーム)があったので、これ、アテルイも食べたいと言うかな?
と思ったものの、始める前に溶けたら目も当てられないので、持っていくのは止めておいた。
慰霊祭の為に神社の隣にある公園に、みんなと一緒に移った。
整備された公園の中心に、6・7メートルの円形に一段高くなった段があり、その中に大きな木が生えている。 木の根元の北側のところに、一抱えほどの自然石の碑がある。
段の土には、神社の人が掃いてくれのだろうか、箒の跡が一面についており、小綺麗にされていた。
公園には、犬を散歩させたりする人や、遊んでいる子供も居るが、そんなに来る人の多い所ではなさそうだ。
木のふもとの碑にはいくつもの花が添えられ、回りにある杭などには、地元の方が書いたものか、
「今年は、朝廷軍による侵略と戦って1200年」
「生活とアイデンティティを賭け蜂起した霊を悼む」などの手書きの文が貼ってある。
「生活とアイデンティティを賭け」この言葉は胸に残った。
私のHPにも「アイヌの生活と現在を考える」という副題が付いている。
アイデンティティ(帰属意識、つまり、じぶんとは何者か)とは具体的な生活に結びついたもので、それだけで単体に存在するものではないし、ただの大昔のルーツでもないし、DNAでも勿論ない。
アテルイとモレの戦いの軌跡は、時を越えて、現在を生きる様々な立場の人々に、「考えるきっかけ」を与え続けている。
この二人の碑をまえにして、今を生きるアイヌの一人として、何故かしら、少し恥かしく思った。
その「塚」を前にして、北向きに、木で組まれた小さな祭壇が設置してあり、その後ろに白いテントが張られていた。
宮司の話しだと、こうした神事は私達の行うイアレと同じく、北向きに行うものだという事だった。
その祭壇には、色の付いた寒天(乾草した状態のもの)や酒、コンプなどの他に、リンゴや、パプリカやアスパラなどの鮮やかなものも供物としてならべられていた。
ふと見上げると、テントの「片埜神社」という文字が目に入った。
何処にでもある白いテントだったが、先日参加した北海道大学のアイヌ納骨堂でのイチャルパにも、同様の「北海道大学医学部」と書かれたテントが作ってあったの事を、その時に、輪踊りの喧騒の中、その文字を見上げて感じた空しさを、何故か思いだした。
同じく慰霊の為に参加しているとはいえ、感じるものがこんなも違うのは何故だろうか?
宮司の方に、アイヌのイアレの方法を説明し、手順を軽く打ち合わせをした後、神事が始まった。
火打石が打たれ、何度か礼拝して、手を叩いたりした後に、祝詞が上げられた。
(私は神社の神事に詳しくないので、この表記はどこか間違っているかもしれない)
なにをいっているのか、よくは聞き取れなかったけども、「日高見のたたかい…」や「アテルイ・モレ」などの言葉は聞き取れた。
アテルイとモレ、そしてあの戦いで死んでいった者達への慰霊の言葉だった。
宮司の言葉を後ろに立って聞きながら、東北を遠く離れたこの土地で、遺体があるわけでもない塚の前、1200年も前の人間の慰霊祭を、しかも宮司が行っている。
この組み合わせに、不思議なものを感じた。「記憶」とは何かを考えさせられた。
祝詞か読み上げられてからまもなく、それに答えるようにパラパラと非常に軽く小雨が降り始めた。
カムイノミには、火を焚く事が欠かせない、隣の兼一さんと顔を見合わせ、もし本降りになるようだったら、神社の中でやらせてもらうか、と相談をしたものの、そんな心配は要らないような気も、何処かでしていた。
何度か拝礼のような事を終えた後、宮司が祭壇にあったお神酒を配りはじめた、ほんの少量でも、みなで飲むんだそうだ、ちいさな白い皿で少し頂いた。
そうこうして神事を終わる頃には、雨はすっかり止んでいた。
テントを出た時、静かに吹いた風に、アテルイとモレの霊が共に居るのを感じたような気もする。
そのあと、祭壇をどかしてもらって、同じ場所でイアレを行うことにした。
ゴザをひき、イナウを横一列に並べ、薪に火をつけた。
トノトをトゥキ注いで貰い、アイヌイタクを唱え火にトノトを捧げた。
ireskamuy,moshirkoruci,chirankepitu,oripaktura....
私も一緒にカムイノミをした。
そして、イナウにトノトをかけ、火をつけ届けた後、イアレの為にまたイタクを語りかけた。
ちゃんとアイヌイタクを語ってのカムイノミやイアレには、最近ではなかなかお目にかかれないような気がする。
アイヌ語を話せるアイヌがい少なくなったのだし、それは同化政策の影響で、そもそもアイヌの責任ではない無理も無い話しなのだから、仕方が無い。
言葉無しでも、やらないよりはやったほうがいいし、そもそも和人に出来る事ではない。
でも、せっかくの節目の慰霊祭なのだから、アイヌイタクを話せる兼一さんを呼んのはよかったと思う。
アテルイがアイヌ語を話していたかどうかは定かではないけども、同じ相手と戦った仲間、しかも火に神のとりなしもある事だし、きっと喜んでくれるはずだ。
そにしても、説明も無しにいきなりアイヌ語で話しても、一般の参加者にわからんのじゃないか、とも思ったが、それはまぁ祝詞もおなじようなものなんだから、いいような気もした。
私達の後に、他の人達にもイアレを行ってもらった。多分、多くの人にとっては見た事もない儀式なんだろうけど、みなさん、ぎこちないながらもトノトをパスイで捧げ、せんべいやミカンをかじり、霊達と共に食べ、イナウに捧げてくれた。
わたしは、別に東北の出身でもなんでもないし、和人がカムイノミに参加するのは好きではないはずなのだが、今日ばかりは、いろいろな人達がアイヌのしきたりでイアレをしているのを見て、なんだか嬉しかった。
ひととおりイアレが終わった後、木のふもとにイナウを移した。そしてイナウの上に、残った供物と捧げられた供物を一緒に撒いた。
イナウはいつ見ても美しい。
色とりどりの供物を纏った姿は輝いていた。
あのイナウが、近所の人達が散歩するあの公園で、
人知れず、朽ちるまでそのままになっていればいいなと思った。
一度安置されたイナウは、朽ちるまでそのまま放置するのが慣わしである。
イナウは木で作った御幣のようなものである。
カムイや亡くなった霊達に捧げられる供物であり、供物を届けるロケットであり、セレモニーの為の豪華な装飾品だ。
いまごろあの世では、久々に届いた酒や供物でアテルイやモレとその仲間達が、愉快に宴を開いている事だろう。