「アイノの人類学的調査の思ひ出」を読んで
−児玉コレクション外聞:アイヌ墓盗掘の先達・小金井良精の日誌−

シサム通信2000年7月号より抜粋

new.gif(行方不明の盗掘品・北大にて発見さる!!)児玉教授の『業績』に関する新聞記事・雑誌記事




 アイヌの墓の盗掘は児玉作左衛門博士が最初ではない。19世紀半ばにはイギリス人が盗掘し、頭蓋骨が大英博物館に保管されていた。ロシア人学者は樺太で盗掘した。アイヌ墓の盗掘に先鞭を付けたのはこれらヨーロッパ人だった。なぜ彼らはアイヌの墓を暴いたのか?。

 植民地争奪戦が世界中で展開されていた19世紀、南北アメリカ大陸やオーストラリアでは先住民族の頭骨は「滅びゆく民族の頭蓋骨コレクション」として高価で取引され、各地の博物館に展示されていた。それは彼らの植民地支配の正当化の為に利用されたものだ。

 日本ではどうだったか。2年前、ネットワーク・ニサト主催のアイヌモシリの旅で、登別の金成マツさんと知里幸恵さんの墓に詣でたとき、地元の方から聞いた驚くべき話から紹介しよう。

かつて和人がアイヌの墓を暴き、頭蓋骨に孔を穿けて「梅毒の妙薬」と称し脳髄を食べたため、学者が収集したアイヌの頭蓋骨には孔の開いているものが多いそうです・・・。

 この「脳髄食い」の話は小金井良精氏によるアイヌ墓盗掘作業日誌に記されている。日本の人類学者としてアイヌ墓の盗掘の先鞭を付けた小金井は戦前、学会を騒がせたコロポックル論争の一方の当事者である。“北海道の先住民はコロポックル”説を唱えた東大の初代人類学教授坪井正五郎に対して論争を挑んだ人物で、第1回日本人類学会会長。SF作家星新一の祖父でもある。

 彼は1888(明治21)年7月8日から9月3日にかけ、函館から根室まで北海道を西から東へ横断し、この間166体のアイヌの遺骨を掘り起こした(一部は買取や贈呈)。その作業日誌「アイノの人類学的調査の思ひ出」を47年後の1935(昭和10)年に『ドルメン』という人類学の専門雑誌に発表している。以下、日誌を読み進むこととする。
《原則として太字で原文のまま引用するが、判読しずらい文字には現代仮名遣いや平仮名をあてた。敬称は略する》

◆ 7月11日小樽。趣昧で石器や土器、アイヌの生活用具を蒐集する会社社長のコレクションを見物したことが書いてある。

氏の蔵品中アイノ頭骨が一個ある。私の懇望により快く贈与せられた。これは本旅行に当って最初の収穫にして幸先よしといふて感謝した。

 アイヌの頭骨をコレク.ションにする社長、それをタダでもらって幸先よしと喜ぷ学者。北海遺開拓時代を象徴する話ではないか?

◆12日の日誌には

  小樽アイノは二十年程前までに悉く高島、忍路等へ立ち退き其後は全く居ない。

とある。
 20年前とは北海道開拓使がおかれた頃である。開拓使は小樽を軍・商港とするために小樽周辺のアイヌに強制移住を命じたのだが、小金井はあたかもアイヌの自由意志で居なくなったかのように述べている。


◆13日の日誌には「発掘」の様子が具体的に書いてある。

完全なるもの六箇、不完全なるもの及び小児数箇。深さ一、二尺にして甚だ浅い。手安く骨に達する。中には土が流れて骨が表面に見えるものもあった。仰臥伸展、粗末な木の棺に入れたのも、またキナにくるんでそのまま埋めたのもあった。キナ、アットシがまだ残ってそれと認め得るものがあった。種々な副葬品がある。椀、鎌、マキリ、刀、鍔、耳輪、鋏等。珍しく感.じたのは頭骨の中に脳髄が白く恰もひめ糊のやうになって残ってゐたものがあった。他の軟部は悉く消失して最後まで脳髄が残ってゐることがあるといふことを証明する。かかる実検はそうそう出来るものではないと思ふ。発掘はこれにて終りとして、病院を借りて荷造りした。石油箱十一箇となった。始めにこの大なる収穫は実に喜ぱしかった。

 学問とはいえこれは明らかに泥棒である。それも自昼堂々墓暴きの大罪だが、「かかる実検はそうそう出来るものではない」と述べている。アイヌは生前はアイヌモシリを奪われ、死後も安住の地を暴かれ、神の国で暮らすための日用具(副葬品)まで奪われて遺骨を大学や博物館に陳列され、副葬品はコレクションとしてもてあそばれたのである。

◆さすがにきまリが悪いのか、15日の日誌には次のように記されている。


・・・ただ気にかかることは遥か向ふにアイノ小屋が二、三軒見えるから、なるべく見つけられないやうにと言ひあわせた。夕刻までに五体掘り揚げた、ところへたうとうアイノが五、六人やって来た、これは困ったと心配した。とにかく地主田村氏が応対し、屋敷内に墓があるのは誠に嫌だからこれを取り除くのだといひ、それから急に板を持って来て祭段を拵え、酒と菓子と花を供えて皆々礼拝して事済となった。中に一人のバッコ(老婆)が居てナムアミダブツ、ナムアミダブツといふて泣いてゐたのには弱った。まだ在る様に思われたけれども発掘は中止した。外に渡辺発掘せるものを数箇持ち来る。合計十二箇許石油箱六箇に詰めた…。

十六日、出発、馬四頭、野にはそこかしこアイノが仕事してゐる。この方を頻りに眺めてゐる。馬背の石油箱は骨だと知りはせぬかなぞ思ひつつ小樽帰着。

あれこれウソをついたリ、心にもない供養をするなど、狼狽ぶリが手に取るようだ。

 18日には札幌で、アイヌ民族で最初の教員となった金成太郎(知里幸恵、真志保姉弟の叔父)と話をしたり、20日には苗穂監獄でアイヌ囚人5人を「計測」したりしている。

◆21日の日誌・・・

豊平橋を渡って先にアイノの飲食店を営んでゐるのがある。行きて四人計測した。酒を振舞ったところが大悦び、隣から若い十七、八のアイノの娘二人バッコなども来て太陽気となり、歌ふやら踊るやら様々な芸を見せた。何れも皆無遠慮なものであるが、中に目立って放逸なるチヤりサンゲといふものと、その妻と称するものの鼻尖が同機に欠失してゐる。甚だ珍奇に思って質してみた。これは人のメノコと通じて切り落とされたのだと答えた。ここはアイノの魔窟であるかのような感を以て去った・・・。

 「歌ふやら踊るやら様々な芸を見せ」てもらったのに「ここはアイノの魔窟であるか」と感想を持ったというのは何事だろう。姦通=鼻削ぎというアイヌの刑罰を受けた夫婦を見たことで魔窟と感じたというのなら、和人社会では江戸時代まで姦通は死罪という制度もあった。人類学者にとっては、アイヌ社会には死刑という「野蛮な風習」はなかったことがよリ重要なことではないのか。

◆翌22日にはカラフトアイヌが強制移住させられた対雁を訪ね次のように記している。

・・・後の小山はカラフトアイヌの墓地である。墓の数はなかなか多い。・・・これがためには数十日を費やすと、蓋を挙げると内容が見える。宝の山に入りながら空しく去った・・・。

 1876年に強制移住させられたカラフトアイヌの村対雁は、小金井が訪れた3年前、和人が持ち込んだ伝染病に襲われ、四百人近い犠牲者を出した悲劇の地である。見も知らぬ土地に連れてこられたあげく、村の約半分の人々がバタバタと倒れ、なすすべもなく死んでいった。当然、墓も多かったはずである。それを“宝の山”とはよくぞ言ったものだ。

◆23日は札幌でアイノ7人を「計測」したと記されている。彼は「計測」の謝礼として、手拭や煙草を用意していたというが、次のようにウソをついたとも白状している。

また時にはアイノは病気殊に疱瘡(※天然痘)にかかると皆死んでしまうが、シシャモ(和人)は助かる。それでアイノの身体をよく調べてアイノも助かるやうにしたい。そのため自分はわざわざ東京から来たのだといふ辞を用ひたこともあった。何時もヤイライギレ(有り難い)といふ挨拶であった。

 身長や身体の各部位を計測して天然痘からたすけるというのだから恐れ入る。
 彼はこの後札幌を発ち、千歳、苫小牧、鵡川などでアイヌの「計測」をしながら28日平取に到着し、ここでも数多くの住民を「計測」しているが、東京から来た高名なクシュリカフトノ(医者)との触れ込みだったため、「計測」のお返しに多くの病人を診ることになってアイヌから感謝もされているが、ここでは「墓暴き」の記録はない。アイヌ人口の多い所なのでさすがに遠慮したのであろうか。ただし、この46年後に後輩の児玉作左衛門らが平取の二風谷で墓を暴いたことを萱野茂氏は記憶していると言われる。


 この後、門別、新冠、様似などで盗掘を続けながら8月中旬には十勝に、さらに白糠でも「発掘」と「計測」を行いつつ8月19日に釧路に到着している。間題の「アイヌの脳髄を喰うシャモ」の話はこの釧路でのエピソードとして次のように記している。


よもやまの雑談中に一人夫が頭骨から脳髄を掻き出しながらいふに、これを食ふんだが、なかなか喉を通らないなァ。餅につけて食ふんだが噛んでゐるとだんだん膨れる様な気がするなァ。自分は無関心に旨くもなかろうに何のために食ふんだと問へぱ、旦那脳味嗜はかさ(梅毒)の妙薬でさァ、北海道のような医者の不自由な所ではさかんに食ったもんでさァ。私はこれだッと思はずハタと膝を打った。これまでに獲たアイノ人骨中で大後頭孔を切り広げたのが多数ある。これは和人が脳髄は梅毒の特効薬であるといふ迷信からして、それを採るために行ったものであらうといふ説を以てゐる。そのヒントは全くここに得たのである・・・。

 『森と潮の祭り』を書いた作家の武田泰淳は、人肉食いをテーマにして映画化もされた作品『ひかりごけ』の中で、あるアイヌ研究者が「人肉を食べたこともあったアイヌの種族」を述べたことに猛烈に抗議するアイヌ出身の学者M(知里真志保博士がモデルと思われる)を描いているが、日誌の話が事実であれぱ日本入こそ「人(アイヌ)食い人種」ということになる。そしてさらに小金井は「これだッと思はずハタと膝を打っ」「日本人人食い人種説」を展開している。これが後年の児玉教授による盗掘へとつながっていく。

 小金井はこの後、汽船で釧路川を遡リ、さらに軽便鉄道で屈斜路に至り、再び川を下って釧路、厚岸、そして霧多布で最後の墓掘りをし、根室から船で函館に帰っている。

◆日誌の最後にはこう記されている。

九月一日夕刻漸く函館に着いた。二日アイノ頭骨の売物があるとて見れば絹の打紐のかかった立派な桐の箱に入れてある。値は二十円。法外な値段だと思って躊躇したが到頭買った。三日晩函館出帆。萩の浜、塩釜を経て六日上野駅着。

 以上でこの日誌は終っている。当時の20円はいまなら20万円の樋値があるのだろう。「アイヌのシャレコウベ」は当時、法タトな値が付く商品だったことがわかる。

 この戦懐すべき墓暴きを小金井は、まるで野花でも摘みに行くごとく記述し、そしてアイヌをうまくだましたことを得意気に述べている。かりに自分の親や先祖の墓を暴かれ、その脳髄をモチにつけて食われたと聞いて、「これだッと思わずハタと膝を打つ」ことなどできようか。このあっけらかんとした記述には戦標を覚える。

 この日誌を紹介したもうひとつの理由は、この小金井の見解が児玉作左衛門の盗掘のきっかけともなり、副産物としての「児玉コレクション」を誕生させたと思えるからだ。

 1934年から38年、さらには戦後の1956年も含めて計1004体のアイヌ遺骨を掘り起こした児玉は、「アイヌの頭蓋骨に於ける人為的損傷の研究」という論文で、91ぺ一ジにわたって詳細に頭蓋骨の損傷について報告しているが、その中で、妊婦が死亡した際に苦痛を和らげるため、腹を切って胎児を取リ出したとか、腸の病気で亡くなった人の患部を取リ出し埋葬した等という伝聞をもって、アイヌには死体に傷をつける習慣があった。従って頭蓋骨の損傷も「アイヌの風習ではないとはいえない」という結論を強引に導きだしている。

 およそアイヌ研究家を自認するなら、葬儀が終れば二度と墓には近付かないというしきたりを知らないはずはない。アイヌが頭蓋骨に傷を付けるとか、まして食人の習慣などということはその死生観を推し量ればあリえない話だし、その証拠を見つけたわけでもないのに児玉は「部落の伝統的習慣らし」い、と小金井の「食人=和人説」を否定することにこれ努めている。そのためにも児玉の墓暴きの遠因となった小金井の盗掘記録から見てみる必要があると考えた次第である。

 最後に…。前出の児玉論文「アイヌの頭蓋骨に於ける人為的損傷の研究」の冒頭はこういう文章で書き始められている。

アイヌ民族はその特異なる体質と奇異なる風俗とによって古くから諸学者の研究の的となっている…。

 この言葉に象徴されるように児玉作左衛門という人は、アイヌ民族に対する偏見と差別意識にこり固まっていたらしい。児玉は別の報告の中で

アイヌの疱瘡は、その人口の減少、産業の低下など計るべからざる損害をひき起こしたが、これはアイヌの無知、無対策によったものである。

などと述べている(アイヌ肖像権裁判の記録)。天然痘、梅毒、コレラなどの伝染病は、すべて和人が持ち込んだがために免疫のないアイヌ民族に多大の被害をもたらしたことを医学博士児玉作左衛門が知らないはずはない。すべてが北海道侵略の正当化とアイヌの抑圧にもっともらしい理由を付けることによって彼は、天皇制国家の御用学者としての地位を築いたのである。

 私財をなげうち児玉コレクションを残した彼の業績を称賛する声がある。私もそのことを否定するものではない。児玉コレクションが墓からの盗掘品か?自分で買ったものなのか?そんなことが問題の本質ではないだろう。問題はその動機であリ、それを指示した当時の国家的要請こそが今日、改めて問われなくてはならないのではなかろうか。
                                         (木戸宏:2000年7月)



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