「児玉コレクション」の収集者,児玉教授の
「業績」に関連する新聞記事・雑誌記事


読売新聞 2010・1・30 北大医学部、アイヌ民族の副葬品28箱分を放置

アイヌ民族が副葬品として墓に埋めた刀などが、北海道大学医学部内に段ボール箱に詰めて放置されていたことがわかった。

医学部の教授が戦前から戦後にかけ、墓を掘って人骨を収集した際に集めたとみられ、同大は調査や保管の方法に問題があったとして、北海道アイヌ協会に謝罪した。

同大によると、副葬品は、刀や漁具、鍋などで、28箱分の段ボールに詰め込まれ、集落名なども記されていたという。同協会の要望を受け、現在は北大総合博物館でさび止め処理などを施し保管している。

同大医学部では、教授だった児玉作左衛門氏(故人)が、骨格の比較研究のため、各地のアイヌ民族の墓から人骨を掘り出した経緯があり、それに合わせて収集されたとみられるという。

共同通信 2010・1/29 北大、アイヌ副葬品を放置 段ボール28箱整理せず

北海道大は29日、医学部がアイヌ民族の墓から収集した刀や漁具など副葬品段ボール28箱分を、学内に整理などをせずに放置していたと明らかにした。

北大によると、副葬品は昨年夏ごろ、改修中だった医学部棟で見つかった。医学部教授らがアイヌ民族の骨格などを調べるため、道内各地で19世紀から20世紀前半の墓を掘り起こして人骨を集めた際、一緒に持ち帰ったとみられる。

この教授らは戦前から戦後にかけて、発掘調査をしていたという。

北大は発覚後、北海道アイヌ協会(札幌市)に謝罪した。逸見勝亮副学長は「副葬品をぞんざいに扱ってきたことを恥ずかしく思う。今後は保管に努め、尊敬の念を表したい」としている。

同協会によると、アイヌ民族は死後の世界でも不自由なく暮らせるようにと、墓には死者の身の回り品などを副葬する。


2010年1月、『児玉コレクション』のうちの、かくされていた盗掘品が、北大の医学部棟から発見されました。

私たちが『考える集い』を開催したおり、ある博物館の関係者の方が、考える集いを開催する私たちにたいして、
『児玉コレクションには、そのような品々は存在していない』と話をされていました。


ところが、墓から盗掘された副葬品の品々は、存在しなかった、どころの騒ぎではなく、
北大構内に、整理すらされずに放置されていたのでした。


『その方』が、誰であるかは、あえて書きません。
『その方』には、それらの副葬品と共に葬られていた方々(その方の先祖もいるかもしれません)にたいして、
ぜひとも心からの謝罪をするとともに、厳しい悔悟を、心に刻んでいただきたいと思います。


『先住民族』である私たちは、常に、隠蔽された支配の可能性と共に、生活しています。(2010・1追記)

北海タイムス 1937・5・7 「愛奴研究資料/グロな骸骨五百体/北大で保存骨庫新設」

北大医学部にはその研究上不気味なものが所せましと並んでいるが、近くそれに輪をかけた様にグロテスクな建物−骨庫−が解剖学教室児玉作左座衛門教授の所に近く出来ることになつた。

この骨庫は児玉博士が過去数十年に亘つて蒐集した各地の貴重なアイヌの骨体を安置するものだが、その数は約五百体、今日までに世界各国の学者によって発掘蒐集されたアイヌの骨体は大体百体と推算されているから、その過半数がこの標本庫に納められるわけで、古くから研究のメスが揮はれているにも拘らず未だに其人種系統が甲論乙跋で全く不明となつている、然も次第に数を減して好くアイヌ種族なので、その解剖学的研究には骨格の貴重さも愈よ増大して行くといふので、急速にこの不燃質アイヌ骨格標本庫が設けられることになつたものである、児玉教授は語る。

この標本庫は二十坪許りの土地にコンクリート二階建に作るもので工費六千円といつた小ぢんまりとしたものです。

アイヌ人種系統を調べる上にこの骨格は実に尊いものですが、実にかかるものは粗末に扱へぬものなので、適当な処に蔵つておくことは是非と思ひ、この度作つて貰ふことになつたのです。


北海道新聞 1982・10・10 「北大 問われるアイヌ研究」

骨掘るの国のため/慰霊碑建立約束をホゴ/死亡直後の遺体も

北大側によると,医学解剖学教室では人骨の収集にあたっては,口頭で関係者から了解をとりつけており,書面などは残っていないという.しかし,関係者の間には「慰霊碑を建てると約束した」「研究が終わったら返す,と言っていたのに」といった不満が長い間くすぶりつづけてきた.

発掘に立ち会った椎久さん

渡島管内八雲町に代々住んでいる古いユーラップ・アイヌの家柄の出である椎久(しいく)堅市さん(72)−現在根室市在住−は,同教室が昭和9・10年の夏休み中に,父親の年蔵さん(故人)名残の土地で行なった発掘に立ち会っている.

「(当時の発掘責任者であった故人の)児玉作左衛門教授は,骨を掘るのは,アイヌが日本人だ,ということをはっきりさせるために必要だ,お国のためだ,と言った,発掘後は慰霊碑を建てる,と約束したのに,木の墓標を立てただけ.それもすぐに朽ちてしまい,父やおじが戦後も何度も催促をした」と椎久さんは,北大側の約束不履行を怒っている.

椎久さんによると,同教室が収集したのは遺骨ばかりではなく,亡くなったばかりの遺体もあったという.「発掘には私のほか,当時80歳くらいだった”八重ばあちゃん”が立ち会って埋葬の風習などについて説明をした.このばあちゃんが,戦時中に90歳くらいで亡くなった時,遺体をキナ(ガマで編んだゴザ)でくるみ,ムリル(黒いひも)でゆわえて埋葬するばかりの形で北大が持っていった.4年くらいたって,ばあちゃんの息子の仁太郎さんも亡くなったが,その遺体も持って行った.仁太郎さんの場合は私が駅まで送ってこの手で貨車に積んだ」と椎久さん.

昭和30年に行われた静内のアイヌ墓地発掘は,墓地改葬に伴うものとして,告知をしたうえ無縁仏として掘っている.当時,静内高校教諭で,北大の発掘を手伝った藤本英夫埋蔵文化財センター調査部長は「町との約束では研究が終わったら返す,ということになっていた.無縁の骨として処理したからには,当然,無縁の墓に収められるべきでしょう」と言っている.

また沢四郎釧路郷土博物館館長は「先代の片岡新助館長(昭和11〜36年在任,静岡市在住)は,児玉教授に数体のアイヌの骨を渡した.「研究が終わったら返すという約束だったのに返してくれない,と口ぐせのように言っていました」と語る.

一方,遺骨とともに発掘された副葬品についても,アイヌ関係者は強い関心を示している.椎久さんは「墓を掘ると,女はタマサイ(首飾り),男は刀などが必ず出てきたが,北大ではこれも人骨と一緒に収集していった」と証言,同教室が人骨の研究とともに,副葬品を使ってアイヌの民俗学的研究を行っていたことは「北大百年史(通説)」にもはっきりと書かれている.

今回の交渉に先立って今春,北海道・民族問題研究会代表,海馬沢博さん(60)が,人骨の返還,慰霊問題とともに副葬品の行方についてただしているが,これに対して北大では「児玉教授が私財を投じて収集したと聞いている」というだけ.海馬沢博さんは,「(北大が無関係だとは)納得できない.今後も他の問題と共に追求してゆく」と言っている.

同日・同誌面「人骨資料は1004体 副葬品も収集した?」

8月末から北大と北海道ウタリ協会(野村義一理事長)との間で同大医学部解剖学教室に保管されているアイヌ民族の人骨資料返還をめぐる交渉が行われているが,9日までに,保管されている人骨数,発掘場所などが明らかになった.これによると総人体骨数は1004体(うち頭蓋(がい)骨数964個),発掘場所は道内58ヵ所のほか旧樺太,千島合わせて81ヵ所にものぼっている.しかし,発掘当時を知る人たちからは「北大では骨だけでなく,一緒に出た副葬品も収集しているのに明らかにされていない」との声もあり,交渉が人骨返還だけでなく,副葬品の行方やアイヌ研究のあり方を問うものに発展する可能性も出てきた.

道内の発掘個所は,道南を中心に北は稚内,東は根室まで全域にわたっているが,多数の人骨が発掘されているのは渡島,日高,十勝管内で,静内町166体,八雲町141体,旧落部村(八雲町)124体,森町86体,日高町40体.このほか北見市40体,千歳(2ヵ所)27体,長万部町24体,江別市20体.

江別の人骨は,明治8年(1875年)に帝政ロシアと結んだ千島樺太交換条約により,翌9年,対雁に強制移住させられた樺太アイヌの遺骨.だまされるような形で希望しない土地に移住させられた840人のうち,約半数が,同20年までにコレラやホウソウに侵され死んでいる.

北大では,発掘人骨と共に,これらの骨を使った研究報告一覧も明らかにしている.総論文数68編,内訳は「北海道帝国大学医学部解剖学教室研究報告」(昭和11年-18年)27編,「北大解剖研究報告」(昭和30年-35年)35編,「北方文化報告」(昭和14年-17年)6編.

この中には収集した人骨を研究してアイヌ民族は死者の頭蓋骨に穴をあけ脳髄,骨片または肉片をとる風習があったと思われる,と主張,論争をまき起こした故児玉作左衛門教授の「アイヌの頭蓋骨のおける人為的損傷の研究」(「北方文化研究報告」第1輯,1939年)も含まれている.


北海道新聞 1983・12・19 「記者の視点」 社会部 深尾勝子

「北大は収集の内情 調査せよ」

北大医学部(相原幹学部長)に”人骨標本”として保存されている1004体のアイヌ人骨の取り扱いについて先ごろ,北海道ウタリ協会(野村義一理事長)と同学部の間で合意が成立した.「返還要求のある地域には返し,残りは北大が納骨堂を建立・収納.イチャルパ(供養祭)を行う」という内容で,率直にいって北大はアイヌの人たちの重い問いかけに,このような形でしか答えられないのか,たったこれだけのために,一年半,前段の交渉も含めると三年もの歳月をかけたのか,と失望と共に怒りを感じた.経過を追いながら,問題の核心について述べてみたい.

1004体のアイヌ人骨資料は,同医学部の解剖学教室が昭和の初期から30年代半ばまでの間に,道内58ヵ所のほか旧樺太,千島など81ヵ所から”収集”してきたものである.

「計画性は明らか」

「北大百年史」では,この人骨資料について「牧草地,海岸の魚干場,地ならしなどの工事現場,崖(がけ)くずれ等で土中から出てくる人骨が主であった」「北大医学部解剖学教室におけるアイヌの形質人類学研究」から)と,たまたま出土した骨を集めたかのように書いている.

しかし,同教室のアイヌ研究は,昭和8年に設けられた日本学術振興会学術部の第8小委が行う「アイヌの医学的研究」の一部として,児玉作左衛門教授(故人)の指導の下,教室の総力をあげて取り組まれた.

昭和11年から35年の間に,この人骨資料を使って62編もの論文が発表され,出土地別の比較研究も行われている.たまたま出土した人骨も”収集”しただろうが,多くのアイヌが証言しているように「学術研究のためと言って墓地を掘り,骨を運んで行った」という計画的発掘が行われたのは疑いない.

北海道新聞社の資料の中に児玉作左衛門教授を写した一枚の写真がある.昭和36年秋に撮影されたもので,名誉教授となった児玉教授が机の上いっぱいにアイヌの頭がい骨を並べ,背後の棚にもぎっしりと頭骸骨を並べ,頭骸骨に取り囲まれたように座っている.長くは見つめていられないような写真である.

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「学長が門前払い」

北海道・民族問題研究会の代表,海馬沢博さん(61)-札幌市西区琴似4ノ5-が,北大学長あてに,(1)返還するという約束が守られていない(2)慰霊はしているか(3)保管状況は,などを内容とする手紙を出したのは55年末のことである.

これに対し,当時の今村成和学長は「事柄の重要性については十分認識し,事情聴取等の調査を開始している.しばらく時間を」との回答を折り返し出している.

ところが,まる一年たっても何の連絡もなく,しびれを切らして抗議の手紙を出した海馬沢さんに来た返事は,有江幹男学長名の「大学は個々の自由な発想と創造的な研究活動を保証している.学長として関与出来ない」という”門前払い”の返事だった.

大学の調査で”人骨収集”の詳細が明らかになる,と期待していた海馬沢さんは怒り,その後は,当時の三浦祐晶医学部長との文書の交換が行われる.

「(人骨収集にあたって)特段に非違な点はないと聞き及んでいる」「児玉教授の研究は人類の福祉に貢献しようという活動にほかならないと確信」などの返事が続き,海馬沢さんが面接交渉を求めて北大に出向くようになって,北大はやっと腰をあげ,北海道ウタリ協会を交渉の窓口に指定した.

「後始末押し付け」

この記事を書くために,数日前に相沢医学部長と会った.納骨堂の予算が正式に決まってはいない,としきりに強調する一方で,返還地域が3地域にとどまり,大部分の人骨資料を残せたことを喜んでいるようで,首をかしげさせられた.

確かに返還を求める地域は少なかった.しかし他の地域では人骨を”標本”として北大に置いたほうがよい,と思ったわけではないのだ.多いところは数十体もある人骨を,どうしてアイヌの人達の手だけで納骨堂を建てて納めるなど粗末に扱わずに引き取ることができようか.

墓を掘り起こして人骨を集めるという伝統,慣習,人情にももとることをやって,その後始末をアイヌの人たちの責任と負担でやれ,と言うに等しい北大側の対応だったのである.

北大のアイヌ研究のあり方については「責任者がみんな亡くなり,事実を確かめようがない」と大学側は答えた.が,責任者はいなくとも関係者は,いまもたくさんいる.私自身,かなりの数の発掘に立ち会った学者に会って話を聞いている.

「関係者も協力を」

ぜひ,大学の責任において,55年末に海馬沢さんと約束をした「事情聴取等の調査」を行い,その結果を広く社会に報告してほしい.医学者だけでなく,歴史学者,社会学者,アイヌをメンバーに調査委員会を作り,聞き取りを行い,人骨資料と学術論文とを検証すれば,かなりの事実が明らかになるはずだ.同時に,時代の思潮や戦前の医学研究のあり方も分析してほしい.

そうすれば,この”アイヌ人骨資料問題”が,一人の学者や北大医学部,文部省の責任を追及し,反省を迫るだけにとどまらず,こうした学問のあり方を容認,推進してきた人々,社会の責任を問うことになる.関係者も,勇気と知恵を持ってこの作業に参加,証言をしてほしい.

調査委を作り,誠実に調べ,結論を出すことがほんとうの慰霊になるのではないか.そして,すべての人が,この問題を自分自身の問題でもある,と感じた時,北海道ウタリ協会が切望している「永代供養基金」は,なんの苦もなく設立されるはずだ.


1982・10月号 「セイダン」

北大に眠るアイヌ人骨1500体のナゾ
八0年以来糾弾されてきた北大の「アイヌ研究」
−民族の「子孫に返せ」の声にどう答えるか−

北大医学部に多数のアイヌの人骨が眠っていることがわかり、アイヌの人達から「民族へ返せ」といういう運動が起きている−−

去る9月4日付北海道新聞一面準トップで報じられた問題は、単にそれだけでない奥深いものがあるようだ。それは、なぜそんなに多数のアイヌ人骨が必要なのか、それらはどうやって集めたのか、副葬品はどうなったのか、などなど−−

首のない人骨が・・・

アイヌ人骨を多数保存しているのは、北大医学部解剖学教室。児玉作左エ門北大医学部教授が中心になり、昭和初年から四十年代にわたり、道内各地から多数集めた。もちろん学術研究のためである。アイヌ民族は世界の人類学上からみて極めて貴重な存在というのが定説で、人類の起源を研究するに当たっては、アイヌをはじめエスキモー、ギリヤークなど古アジア族の研究をさけて通るわけにはいかない、とされている。人類学者は人骨を計測する方法で人類の起源と変遷を割り出そうとし、考古学者は古代人の器具など遺物から、それを探ろうとする。従って国内だけでなく世界の人類学者から、アイヌの存在が注目され、その資料が貴重視されている。それが昂じて外国人による盗掘事件(後述)まで起きている。

アイヌの資料といえば、今や北海道しかない。しかも地元の研究機関としての北大にとっては、どこよりも豊富に資料を持っていなければならない。ことにアイヌに関しては、世界の著名な学者といえども、北大詣でしないことにははじまらない・・・北大には、そんな使命感と自負があった、と、これは勝手な推測だが、ともかく、同医学部は、道内各地からアイヌ人骨を手当たり次第に集めた。

アイヌの骨を集めるといっても、それは墓を掘るしかないわけである。周知のように、アイヌの埋葬はかつて土葬だった。そこで、アイヌの墓地を掘り返す作業が道内各地で行われることになる。実は、今回アイヌの人達が北大に対し、「集めた人骨は民族に返してほしい」と申し入れた裏には、いくら学術研究のためとはいえ、傍若無人に先祖の人達の墓を暴かれてはかなわない、との思いがあるのは否めない。墓を掘るのは、実際にはどんな具合に行われるのか。ある新聞記者の記述によると−−

「・・・大学の先生と学生二十人ほどが、アイヌ人骨を調査するといってやってきて、先生の指示で丘や谷間を掘る。そのうち墓地や畑を掘り始めた。それを見たアイヌ青年が、『誰に断って掘っているのか』というと、先生は『わしらは学術研究のためにやってきたのだ、役所に断ってある』・・・骨をザクザク掘り返しリンゴ箱に詰め、大学の研究室に持ち帰った。フチ(父)やバッコ(ばあさん)やメノコ(娘)の骨が次々と−−。『大学の研究室やアイヌ研究学者の部屋にゴロゴロしているのは、みなそうして掘って持ち去ったものだ』とアイヌ青年はいった・・・」昭和三十年代後半、静内町での話である。

それはまだよい方で、吉崎昌一北大助教授(考古学)によると、道南で発掘超さしたとき、首の無い人骨が出できたという。不思議に思い土地の人に聞いてみると、以前に大学の先生とかが調査のためといって来たことがあるという。どうやらその先生、頭骨だけ持ち去ったらしい。明らか盗掘といってさしつかえないという。なかには盗掘専門?の人もいて、自分でひそかに掘り返して、偉い先生の研究室に運び込んでは「先生!こんなのが出ました」とやるそうである。

外国人までも盗掘

盗掘といえば、児玉教授の周辺でおきたこともある。昭和初年、児玉先生らが北方諸島で発掘調査したとき、人骨を持ち帰ったが、実はその人骨の子孫が当時実在していて、児玉教授と学術上の論争の相手(東京在住の大学教授)に、そのことを訴えたことから明るみに出た、とされている事件だ。

アイヌの墓には、和人のように故人の名前がきざまれていない。他人には誰の墓だかわからないのだ。年月がたち、代がかわると、親族にさえわからなくなってしまうことがままあるという。盗掘者にとっては、そこが付け目でもあるわけで、万一発掘がバレても、親族から抗議を受ける場合が少ない、と踏む。かくして百鬼夜行となる。もちろん、文化財埋蔵物に関する法的整備が遅れていたことも、おおいにあずかりあっただろう。

いろいろな”盗掘”事件のうちの”白眉”は何といっても、「イギリス領事館事件」だろう。簡単にいうと次のようなものだ。

1865年(慶応元年)函(箱)館の英国領事館員三人が、八雲や森でアイヌ人墓地をあばき人骨を持ち去ったというものだ。世界の人類学者の当時の最大のテーマは、”ヒトの起源”だった(現在もそうだが)、ロシアのシュレンクが「北方の謎の民族」としてギリヤークなど北方民族を世界に紹介して以来、脚光をあび、イギリスの人類学者もアイヌ人骨入手の機会を狙っていた。函館領事館の館員は、本国の人類学者の要請で「決行」したようだ。

同年9月、森町で三体のアイヌ人骨を掘り返しロンドンの大英博物館へ送った。次いで一ヶ月後、今度は八雲町の部落の墓に目をつけ、館員三人で鉄砲を持参のうえ、墓をあばいて十三体の骨を持ち去った。この時現場を通りかかったアイヌに鉄砲を向けて威嚇したという。ほうほうのていで逃げ帰ったそのアイヌが函館奉行に申し出たため外交問題にまで発展する。函館奉行の追及にあい、英国領事館は最初「海へ捨てた」といっていたが、幕府も英国に変換を要求するにいたり、ついに部落の十三体は返還、さらに二年後になって森の三体も返還してきた。だたし森の三体については、どうやら替え玉の骨だったらしい。本モノはいまでも大英博物館に、他民族の骨と一緒に展示してあるようだ。

実は、ここにも児玉教授が登場する。昭和十年頃、庫の事件となった部落の墓地を調査したのが児玉教授で、八雲町史編さんの水野委員によると、このとき児玉教授は墓そのものを大学へ持っていったが、再三の要請にかかわらずなかなか返還してくれなかったという。

返還の約束だった

さて、北大医学部はアイヌ人体骨を軟体集めたのか、この件に関して、北大医学部では一切ノーコメント(本誌の取材に対し8月10日付文書で「8月5日付書面により申し入れのありました件=注・取材申し入れ=につきましては、すべて今後の課題であり現時点で本学部としては見解を述べるのは差し控えたい・・・」と回答)なので、確かなことはわからない。

ただ手かがりはある。吉崎助教授はかつて児玉教授に、保管してある部屋を見せてもらったことがあるという。数ははっきりしないが、保管している人体骨のうち三分の二はオホーツク系民族のもので、アイヌ人骨は全体の三分の一程度だったという。しかしこれは正しくないようだ。というのは、児玉教授自身が次ぎのように語っているからである。「この部屋(注・北大医学部地下室)にアイヌの頭骨が千五百あります。そのほか本州人五百、ギリヤークは五列、オロッコは十列しかありません」この話は菅原幸助著「現代のアイヌ」(現文社刊)に出てくるもので、昭和三十八年とされている。その部屋のカギは教授自身が持ち、菅原氏を案内したおりに、天井まで高くタナが作られ、頭骨がズラリ並んでいる前で、教授自身がそう説明したとされている。

千五百という数は、違いないだろう。

それにしても膨大な数である。一体何処から集めたのだろうか。八雲、白老、静内、平取、ほか全道各地から集めたといわれている。このうち八雲ユウラップでは、昭和九年百三十一体を発掘(藤本英夫著「アイヌの墓」日経新書)とされている。ユウラップという知名は現在はなく、川の呼称に残っているのみだが、当時は、現在の内浦、立石、住初、春日、豊川、東町、本町など市街地一帯をユウラップと呼んでいた。そこを貫流するユウラップ川の川岸にアイヌ墓地があり和人もそこに葬っていたが、のちに水害などのため和人は山側の床丹へ移転している。改葬したわけで、児玉教授ら北大解剖学教室は”旧墓地”を発掘したのだろうか。

静内町の場合は、駅前に共同墓地があった。昭和三十年に改葬して現在の静内霊苑に移ったわけだが、この改葬のとき、やはり発掘して約五百体を北大へ運んでいるという。前出の藤本英夫氏は当時静内高校教諭(現在は埋蔵文化財センター調査部長)をしていて、発掘に立ち会った。発掘に当たって、北大側と町役場との間に「研究が終われば人骨は返還する」との約束がとりかわされたと聞いたと藤本氏はいう。しかし、同町役場では現在役場庁舎を新築中で、今年始末には新庁舎へ引っ越す。そのおり書庫をもう一度探してみるという。果たして、そうした約束があったのかどうか。アイヌの人達が「先祖の人骨を返せ」という根拠のひとつでもあるのだが・・・・

副葬品はどこへ?

問題は人骨だけではなかった。いわゆる副葬品のゆくえについても、アイヌの人たちは強い関心を持っている。アイヌの埋葬は、かつては故人の身の回りの品を一緒に埋めた。これはアイヌに限ったことではないが、アイヌの場合、とくにそれが厳粛に守られていたという。

古い文献、例えば坂倉源次郎という人の「北海随筆」(174年−元文四年)では「死者の処置は新しきアツシ着せ新しきムシロに包み山中へ送り、秘蔵せし物ども不残ともに埋め・・・」とあり、巡見使北條新左エ門に随行して蝦夷地を回った兵法学者松宮観山という人の「蝦夷談筆記」(1711年−宝永7年)に「蝦夷人死ニ候節、死骸取納メ候ニハ箱ニ入レ、掛刃、桶、椀、盃其他分限ニヨリ色色ノ諸道具ヲ其箱ノ中ニ入レ申候」とある。つまり、故人が生前持っていた自身の宝物−−刃や鍬先や食器類など−−を一緒に埋葬していた。従って、古い死体を掘り返せば、そうした副葬品も一緒に出土するわけである。考古学者が目をつける資料でもある。

膨大な数の人体骨ヲ発掘したとき、そうした品々がどれだけ出たのか、これもはっきりしない。そしてそれらの品々はどこに保存・保管してあるのだろうか。その場合、われわれは思い出すことがある。それは、いわゆる児玉コレクションといわれるものであるのは、この場合致しかたない。

児玉教授が集めたアイヌの先史考古・民俗資料は一万点とも一万数千点ともいわれる。これは数え方によって数も変わるのだが、とにかく膨大な点数である。教授が死去してからは児玉マリさんが管理していた。そして、それらのほとんどの品は、ゆかりの函館博物館(児玉教授は函館出身)に、同級生で親友だった田中誠一郎氏(函館空港ビルディング社長)らの口ききで寄託した。現在同館で考古資料の整理を行っていて、現在八千番まで整理がつき、年内には目録が完成する。さらに民俗資料は約三千点ほどあり、これらの整理にはあと二年ほどかかるという。

このほか、白老民俗文化伝承保存財団(山丸武雄理事長)にも九百三十五点が貸し出されている。この方は白老民俗資料館を増築して展示することにしている。児玉マリさんの手元には、わずかばかりの着物の一部などが残されている。

児玉コレクションは、教授の私財によって集められたものといわれている。北大医学部も「個人のものであり、大学の管理化にない」としている。

ならば、北大管理下で行われた人骨発掘と、それに伴って出土した考古・民俗資料はどれほどあるのか、どこにあるのか、明らかにしてもらいたいという声が出てきても不思議ではない。

「収集」は現在でも・・・

児玉教授が集めた、いわゆる児玉コレクションは、児玉教授が四千点まで数えただけで、あとは未整理のままだった(児玉マリさん談)。学問的な系統だった分類、整理には全く手がつけられていなかったわけである。とにかく集められるだけ集める、それが児玉教授の意思であったようだ。同じようなことが、人体骨の蒐集にもいえそうだ。可能な限り集めた。一種の蒐集家といってもよかった。もちろん散逸を防ぐうえから、その功績が否定されるものではない。しかし人体骨の場合、単なる「物」ではないだけに、集められる側にとっては、簡単に割り切れるものではないことも確かだろう。もう少しいえば、かつて和人がやった収奪のやり口が、学問研究の分野では、一部にしろいまでも生きているのではないか、という疑問も喚起している、といえないだろうか。

アイヌの人達は、先祖の人骨をそれぞれのコタンに返してほしい、イパルチャ(供養)をやってほしい、といっている。北大側は「貴重な標本」として返還には応じられないという姿勢だ。が、一部にしろ返還ということになるかもしれない。いずれにせよ、今後どう推移していくか、あまり例の無いケースだけに、注目されるところだ。

注・oripakEsamanこのページの記述はすべて、元記事のママで掲載されています。上記記事の出だしの部分の「フチ(父)やバッコ(おばあさん)」の部分は、ミチ(父)の間違いではないかと思われます。また、後半部分の、「イパルチャ(供養)をやってほしい、といっている。」は、イチャルバではないかと思われます。





(以下オマケ、上記記事の横についていた、当時のアイヌ関連の記事)

新たな観光行事か、アイヌ「サケ迎え」

昨年三十年ぶりに豊平川にサケがのぼってきて、札幌市民を驚かせたが、去る9月15日、豊平川河畔でアイヌ民族に伝承されてきたという「サケ迎えの祈祷」の行事が行われた。サケは、かつてアイヌにとって貴重な食料のひとつだったが、明治以降は道内の各河川とも禁猟になり、自由に獲ることができなくなって「サケ迎えの儀式」も以後全く行われていなかった。豊平川にサケが姿を見せるようになったのを機会に、アイヌ有志が100年ぶりに復活させたのだという。とはいっても、豊平川にのぼるサケを自由に獲れるようになったわけではない。相変わらず一般の捕獲は禁止されている。その限りでは、アイヌの人達が、サケがより多くくるように神々に祈る行事を復活させた意味は薄い。やはり、このあたりで伝統の行事を復活させておかないと、ということに意義があるというものだろう。

この行事について、アイヌの長老・山本太助氏(阿寒町在住)は、静内のシャクシャイン祭り、阿寒のマリモ祭りとともに三大祭としたい(北海タイムス)という。好むと好まざるにかかわらず、観光的側面をもっていることは否めないようだ。

蛇足だが、この行事のものめずらしさも手伝ってか、新聞テレビが大きくあつかったが、ただ一紙朝日新聞のみが全く無視。かわりに(?)豊平川へのぼる”サケについての諸問題”で一面を埋めていたのが好対照だった。朝日の見識?それとも特オチかナ。


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(2000 9/9-10/9)馬場・児玉コレクションにみる北の民アイヌの世界
(2000 9/10)「考える集い」呼びかけ文
(2000 9/30)「アイヌ特別展を考える集い」のご案内
本集会に寄せられたアイヌからのメッセージ
協力団体・支援者よりのメッセージ
(2000 9/13)『馬場・児玉コレクションにみる北の民アイヌの世界』展開催に関する財団としての考え方について
(2001 2/3)考える会を終えて、ご参加いただいた皆様からのメッセージ
(2001 9/15)「アイヌ特別展」を色々な立場で考えた結果の、要望と意見。
衝撃の映像!これが児玉作左衛門教授だ!!
「アイノの人類学的調査の思ひ出」を読んで−アイヌ墓盗掘の先達・小金井良精の日誌−
new.gif(2002 8/2)第19回、北海道大学・アイヌ納骨堂イチャルパ・参加報告


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